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第百二記録【うまくいかないなら運動だよね】



 夕方十八時。

 五十階『VIPリレーションズ』のオフィス。

 壁一面のガラス窓の外は、すでに秋の気配を帯びた深い夕暮れに染まっている。


 私は、冷たいガラス張りのデスクの上にペチャッと突っ伏し、完全にスライムと化していた。


 昼間、恭弥・凪・ユンジンの最強パーティーと緻密な作戦を練り上げ、「よーし、私も前衛で戦うぞ!」と意気込んでステラの部屋へ歩み寄った結果。

 あの銀縁眼鏡の英国紳士・アーサーから、「近寄るなと言っただろう!」と、理不尽極まりない爆撃を顔面に食らい、あえなく強制送還されたのだ。


 もう嫌だ、早く帰ってYouTuboで猫の動画見たいし……ネトゲのデイリー消化したい……。


 冷たいデスクの天板に頬を押し付けながら、恨み言を並べる。


 とはいえ、この程度の理不尽で泣き言を漏らして崩れ落ちるほど、今の私はヤワじゃない。

 広報部での死線を潜り抜けてきたのだ、この程度のヘイト管理ミスは「よくある通信エラー」だ。


「あらあら、茉莉子ちゃんすっかり萎れちゃって。ねぇ、アンナ少し休ませてあげましょうか」


「そうね! 初日から飛ばしすぎたし、今日はもうアガリで! お疲れ様♡」


 緑子さんのマイナスイオンと、アンナさんのカラッとした太陽の笑顔が頭上から降り注ぐ。


「えーん、優しいお姉たま〜」


 私はここぞとばかりに甘えた声を出し、極上の癒やし空間に浸ろうとした。


 その瞬間。デスクに裏返して置いていたスマホが、ブブブッ、と無機質な振動音を立てた。

 画面に光る『大樹』の二文字。


『新しい部署での初日お疲れ! 身体動かしてリフレッシュしようぜ! 今から迎えに行くわ!』


 えっ、今から!? いやいやいや、私のHPもうミリ残しなんですけど!


 すかさずタップして既読をつけてしまった直後、『もう下に着いてるから!』という恐ろしい追撃が飛んできた。


 逃げ場、なし。

 ……まぁいいか。あの筋肉王の真っ直ぐな熱気に当てられても……。


 私は小さく息を吐き、重い腰を上げた。


 

 都内の大型屋内ボルダリング施設。


 チョークの粉っぽく乾燥した匂いと、アップテンポな洋楽のベース音が、だだっ広い空間にドスドスと響いている。


 私は、大樹が手回し良く用意してくれていたレンタルウェア――

 淡いラベンダー色のショート丈ジャージと、黒のタイトレギンスに着替え、ホールドと呼ばれる色とりどりの突起物がびっしりと張り付いた巨大な壁を見上げていた。


 隣には、目に眩しい蛍光イエローのタンクトップに、黒のハーフパンツ姿の大樹。

 太い丸太のような腕と、はち切れんばかりの大胸筋が惜しげもなく晒されている。


「なんで疲れてるのに壁登らなきゃいけないのさ! 私にこんなの無理だってば!」


「ニャハハ! 疲れてる時こそ筋肉をイジメて、脳みそリセットすんだよ! ほら、俺の手本見とけよお嬢様!」


 大樹が白いチョークの粉を手に叩きつけ、軽快に壁へと取り付く。


 彼の岩のような筋肉が躍動し、重力という概念を完全に無視したかのように、高難度ルートをスイスイと登っていく。

 タンクトップの隙間から覗く、鬼の顔のように隆起する肩甲骨の動き。小さなホールドをガッチリと掴む、太い前腕に浮かび上がる青い血管。


 うわ〜……まさしくキングゴ〇ラ、じゃなかった……めちゃくちゃカッコいい。


 この人は、こうやって自分の肉体を極限まで使って真っ直ぐに動かしている時が、一番輝いている。

 見惚れていると、大樹はかなりの高さからそのまま手を放し、ドスッ、と猫のようにしなやかにマットへ着地した。


「次、茉莉子ちゃんの番な!」


 爽やかな汗を光らせ、無邪気な笑顔を向けてくる。


 私はため息をつきつつ、初心者用ルートの壁にへっぴり腰で取り付いた。

 指先が硬い感触を捉える。


「右足、あそこの赤いホールドに乗せて! 次は左手!」


 真下から、大樹の的確で熱血な指導が飛んでくる。

 よし、いけるかも。そう思って手を伸ばそうとした、その時。


『あら〜、無様なカエルみたい。……手ぇ滑らせて落ちたら、首の骨ポキッていって死ぬわよ〜?』


 中空に明菜がフワリと現れ、耳元にフーフーと冷たい息を吹きかけてきた。


 やめろ! 死ぬから、ほんとに死ぬから!


 心臓が跳ね上がり、足元のホールドを踏み外しそうになってジタバタと藻掻く。

 下から見上げていた大樹には、私が恐怖でパニックになっているように見えたのだろう。


「大丈夫だ! 俺が下で絶対受け止めるから! 俺を信じて上だけ見ろ!」


 フロア中に響き渡るような、太くて力強い声。


 見下ろすと、大樹の瞳が、冗談抜きで真剣な光を放って私を真っ直ぐに捉えていた。

 その言葉の絶対的な安心感に背中をドンと押され、私は震える腕に力を込め、最後のホールド――ゴールを両手でガッチリと掴み取った。


「……と、登れたぁぁ!」


 達成感と共に、額から爽やかな汗が吹き出す。

 イケオジマネージャーに怒られたドロドロのストレスが、嘘のようにスーッと浄化されていくのを感じた。


「んじゃあ、そのままジャーンプ!」


「え? 無理無理無理」


 私は即座に首を横に振り、ブンブンと手を振って拒絶する。

 すると、遠くから施設スタッフのお兄さんが、苦笑いしながら声をかけてきた。


「大山田さん、いつも言ってますが、上からのジャンプは禁止ですよ」


 大樹は「あちゃー」という顔をして頭をガシガシと掻く。


「だってさ! 普通に降りてきていいって!」


 最初からそのつもりでしたけど!


 私は慎重に、一段一段ホールドを確認しながらゆっくりと壁を降りた。


 分厚いマットに足がついた瞬間、大樹が「ナイスファイト!」と満面の笑みでハイタッチを求めてくる。

 私の小さな掌と、彼の大きな掌が合わさる。

 パァン! と、施設内に乾いた良い音が鳴り響いた。


 

 私達はベンチに深く腰掛け、施設の休憩スペースで一休みすることにした。


 これまた手際よく大樹から渡された冷たいスポーツドリンクのペットボトルを傾け、一気に喉の奥へと流し込んだ。


「ぷはーっ! 疲れたけど、なんかスッキリしたかも」


「だろ? 悩んだ時は身体動かすのが一番なんだって」


 大樹は自分のスポドリをあっという間に飲み干し、私の隣にドサッと腰を下ろした。

 彼の高い体温が伝わってくる。シトラス系の爽やかな制汗剤の匂いと、健康的な汗の匂いがふわりと鼻先を掠めた。


 不意に、大樹の大きくてゴツゴツとした手が、私の頭に乗せられた。

 ワシャワシャ、と、少し乱暴に、でもどこまでも愛おしむように撫で回される。


「新しい部署で頑張ってんだろ? 俺、ちゃんと知ってるから。……無理すんなよ」


 まるで、私の抱えている重圧も理不尽も、すべてをお見通しのような、優しくて途方もなく大きな言葉。


 この圧倒的な包容力……完全にチート級の全体回復バフだ。

 すっからかんだったHPもMPも、一気に上限を突破して満タンまで回復していく。


 私は少しだけ顔を熱くしながら、「……ありがと」と小さく呟き、彼の太く逞しい腕に、コテンと自分の頭を預けた。


 

 二十三時。

 大樹の車でマンションへ連れ帰られた私は、スポーツ雑誌の山と、部屋の主役ヅラをした巨大なベンチプレスが鎮座するリビングを通り抜け……。


 気付けば、薄暗い間接照明だけが灯る寝室のベッドに雪崩れ込んでいた。


 ダブルサイズのベッドの中。

 オレンジ色の柔らかな光が、シーツの海に沈む私たちを照らしている。


 全裸で一枚のシーツに包まり、ぴったりと肌を寄せて抱き合う。

 完全に「激しい運動」を終えた直後の、濃密で気だるい空気が漂っていた。


「あぁー……楽しかったー」


 大樹が、心底満足げな低い声で唸り、私の肩に顔を埋めて大型犬のようにすりすりと擦り寄ってくる。


「ボルダリングが? それとも……こっちが?」


 私は意地悪く笑い、彼の日焼けした分厚い胸板を、人差し指でツゥーっとなぞった。


「両方! ……でも、やっぱこっちの方が最高」


 大樹は白い歯を見せて照れくさそうに笑う。

 しかし、すぐに少しだけ唇を尖らせ、私の顔をじっと上目遣いで覗き込んできた。


「でもさぁ……今日……、なんか新しい仕事で、あの三人を呼んだんだろ?」


「えっ!?」


 私はピタッと指の動きを止めた。


「なんで知って……」


「会社の噂、舐めんなよ。俺、すっげぇ寂しかったんだからな。……俺も、そのチームに誘ってほしかったー!」


 拗ねた大型犬が駄々をこねるように、大樹が私の腰に太い腕を回し、ギュウギュウと力一杯締め付けてくる。

 嫉妬と束縛。重すぎる愛の圧力。


「ちょ、苦しいってば……! ごめんごめん、今回はどうしても三人のスキルが必要だったから……」


「俺だって役に立てるのに! 荷物運びとか、壁ぶっ壊すとか!」


「いや、世界的なVIPが泊まってるホテルぶっ壊したら、普通に逮捕されるから!」


 私はケラケラと笑い飛ばし、大樹の汗ばんだ前髪を優しく撫でた。

 彼の不満を真っ向から受け止め、甘やかし、そして支配する。


「でも……次は、大樹にお願いしようかな」


 耳元で、甘く、少しだけ熱を帯びた声で囁く。

 その一言で。


 大樹の琥珀色の目が、パァッと太陽のように輝いた。


「本当か!? よっしゃ、絶対だぞ!」


 彼は嬉しさのあまりシーツを蹴飛ばし、私の上に重くのしかかってくる。

 そのまま、深く、熱く、甘いキスを落としてきた。


 あぁ、やっぱり。

 私はこの人の、どこまでも単純で真っ直ぐな熱さに、深く救われているんだな。


 そして、脳筋のスタミナを完全に甘く見ていた私は、その夜、さらに二度……計三度にわたって、激しく限界まで愛されることになったのだった。


 

 【明菜先生の研究メモ】


 被験者データ No.002

 ・氏名:九条茉莉子

 ・状態:筋肉バフによる完全回復(そして事後の筋肉痛確定)


 新規獲得アイテム

 ・【大型犬の包容力】:HP/MPを上限突破で回復させるチートスキル

 ・【女帝の掌握術】:男の嫉妬を正面から受け止め、掌の上で転がす話術


 【明菜の分析ログ】


 男たちを攻略対象ではなく、完全に自分の精神を安定させるための「便利なサプリメント」として使いこなしてるのね。

 まぁ、調子に乗って甘い顔をしたせいで、朝まで三回も絞られたのは自業自得だけど♡


 次のクエストも、この調子で図太く乗り切れるかしら?

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