四十一話「くるみ、奇しくも祐介の――」
――人が亡くなった話だなんて、土足で踏み入っていいものではない。
それは、大輔も重々理解している。土足で、どころか正装で足を踏み入れるとしても、相応の理由と、誠実さが必要なのだと、知っている。
しかしこの時、大輔は深く理解していたその鉄則を、破ったのであった。
「いや、急に言われても困るやんね。――聞いたから、何だって話ではあるし」
昨晩、祐介から聞いた話。それを粗方語り終えて、大輔は苦笑いと共に告げる。本当なら、こんな話は今、相応しいはずがないのだ。そもそも、今の時間というのはお土産を選ぶ時間なわけで、くるみがどれだけ知らない人にも適応して会話ができるとしても、彼女にとって大輔は初対面かつ年上の異性なわけで。そんなタイミングで、こんな話を振られて、困らないはずはないのだ。
今、くるみが浮かべている表情は何だろうか。困惑か、はたまた恐怖に近いものかもしれない。そうだったら申し訳ない。しかし、仕方がない。そう思いながら、大輔はくるみをちらと見る。
その表情は――、何かに気づいて、何かを諦めたような。
気付きと諦念。それを感じ取って、大輔は視線どころか、顔そのものをくるみへと向けた。その瞬間、くるみの視線は顔の向きごとに大輔から逸らされる。
「困る、とか、いや、そういうわけじゃなく、て……いやー、なんて言ったらいいんでしょうね、あのぅ……」
珍しく、くるみの言葉は飛び飛びで曖昧だった。はっきりとした態度も、明け透けに見える感情も、今だけは誰にも分からない。それこそ、くるみ自身が一番、自分が何を感じているのかを知らない。
表情に現れた諦念は、果たしてどこから出てきたのか。大輔が祐介から聞いたという話。それを一から十まで聞いて、じゃあ何に気づいて、何を諦めたのか。本人が一番、理解できなくて、教えて欲しいような教えて欲しくないような、そんな気がしたのだ。
「くるみちゃん――もし、良ければ。教えてくれる? 君の『お兄ちゃん』のことを」
「――ぇ……ん、はい」
なにも理解したくない、筈だった。しかし、くるみは大輔の提案に対して、頷いていた。適当に人の少ない場所を選び、壁の近くで立ち止まる。何から、話せばいいのか、という事も分からず、頭の中を整理しながら、しかし会話は、始まった。
「例えばですけど、メガネ教授。仮面って、あるじゃないですか」
「仮面……? まあ、あるけれど。あ、いや、今は持ってないんだけれど」
確かに、この世界に仮面というものが存在することは知っている。古くを辿れば、中世ヨーロッパあたりの仮面舞踏会、身近なもので言えば祭りの屋台で売っているやつだったり、ライダーだったり。なんだかんだ、仮面というものは人間の生活の近くにある。
しかし、突然何の話なのか、と大輔は思った。正直、そう思った。
「物理的な、じゃなくて概念的な、仮面です」
「ああ、なるほど……ねえ、やっぱり賢いでしょ、くるみちゃん」
概念的な意味での、仮面。
――精神科医であり、心理学者でもあったカール・グスタフ・ユングが提唱した心理学における概念の一つであり、ペルソナとも呼ばれるそれは。
人間誰しもが持っている、各社会への適応手段の一つとして考えられているものだ。例えば友人、例えば家族、例えば会社の同僚、例えばあまり関わりのない人、例えば上司……と。それぞれ、相対する人間ごとにその顔にかぶせる仮面を変化させる。そうして、それぞれの相手に、社会に、適応する。
「メガネ教授とか、被ってそうですよね」
「――。まあ、被ってないわけはないよね。生徒会役員としてその立場がある以上、友人と同じように先生に対応するわけにもいかないし、地元のお偉いさんと関わることもあるけど、その時にはまた違う対応が必要になるわけで」
それは、キャラづくりと言えば少し聞こえは悪くなるのだろうか。仮面を被っている、と言えば、響きは悪いのだろうか。体裁として、悪くなるのだろうか。
しかし、それは人間の適応手段の一つに過ぎず、誰もが持っている、防衛手段でもあるのだ。大輔は、自分も被っているそれを、否定することはしない。否定されるつもりも、ない。
「私って、多分それなんですよ」
「仮面を、被っているってこと? でもそれ、普通のことやと、思うけどね」
くるみの『お兄ちゃん』の話を、と始まったこの会話だったが、その話は未だ本題に入らないらしかった。まだ、なのだ。正しく段階を踏み、諸々を辿りながら進んだ先に、その話がある。恐らくそこに、くるみと祐介の表情の真実が、あるのだと思う。
「えっ、と――ああ、いや、そっか……」
「――――」
「分かりました、なんだか。――私の、言いたいこと」
続いて話す言葉を探しながら、くるみはふと辿り着いたらしい。先程分からなかった、自分の諦念の正体に。何を、自分が諦めたのか。その、答えに。気づいてしまえば、簡単なものだったのだ。
仮面の話も、無意識に前座として機能していた。
『お祖父ちゃんとお兄ちゃんって発音似てるよな』
祐介の言葉を、くるみは聞いた。その言葉は、多分、自分が聞いてはいけない言葉だったのかもしれない。その言葉はくるみに、効いてしまうから。奇しくも、祐介が自虐的に漏らしたその言葉は、同時にくるみまでもを刺した。
「そっか……お兄ちゃんは、私の事。それに、私は――」
これはたぶん、すれ違いというやつなのだろう、と。くるみは思った。
なんだか、悲しくなった。
「聞いても、いい――?」
「……聞きたい、ですか? 私たちの馴れ初め」
「うん」
多分、祐介から聞いた話とは、違うのだろうと。大輔はふと、そう感じた。くるみの表情は、昨晩の祐介のものと似ていて、それこそ兄妹のように感ぜられるのも仕方がないくらいだったけれど、しかしその奥にある感情は、少しばかり違うのだ。
「確かに、私は言いましたよ。『お祖父ちゃん……?』って」
「縁側で、高橋くんがお茶を飲んでたんだっけ」
「そうです。その時、お兄ちゃんにお祖父ちゃんの面影を見たのは、間違いなく事実でした。お祖父ちゃんが死んじゃって、なんというか、錯乱してたんだと思います」
「高橋君は、それから――『お祖父ちゃん』になろうとしたって、言ってたね」
くるみの前から姿を消してしまった、祖父。その代わりに、自分がなれるのであればと。もしそれで、くるみが喜ぶなら、くるみが安心できるなら、くるみが落ち込まずにいられるなら、くるみが悲しまずにいられるなら、くるみが傷つかないなら、くるみが、くるみが、くるみがくるみがくるみがくるみがくるみがくるみがくるみが、
――くるみを、救えるなら。
「私がそれから、お兄ちゃんをお祖父ちゃんに重ねて……何というか、お互い猿芝居してるみたいな、そんな時期があったわけです」
「お互い、猿芝居……やっぱり、くるみちゃんは気づいてたわけだね」
「そりゃ……小さい頃って言っても、私はその頃からクリスマスに来る不審者の正体知ってましたし」
「その話は日本人口一割くらいの夢を壊すからやめよっか」
「まあ、気づかないわけないんですよね……最初、お祖父ちゃんと同じようなことをしているお兄ちゃんを見て『お祖父ちゃん』って言ったのも、お兄ちゃんとお祖父ちゃんを重ねたわけじゃなくって……ただ、お祖父ちゃんを思い出して、ぽろっと言っちゃっただけで」
現実的に考えれば、それは当然の話ではあると、大輔は思った。死者の魂が生者の体に憑りついている、などとは子供でも思わない。それこそ、口にし難いクリスマスの秘密を知っているような若干大人びた子供が、そんな言い分で騙される筈もないのだ。
何度か、大輔は言っている。――くるみは、賢いのだと。
その言葉は、くるみによって躱され、なんだかんだで肯定の返事を貰ってはいない。しかし、それは純然たる事実であって、疑いようがないのだ。
「賢い、からね。くるみちゃんは」
「何分かったように言ってるんです、メガネ教授。――まあ、そうです。そうですよ、私賢いんです」
くるみから返ってきた、初めての肯定の言葉。しかし、その言葉は文面だけを見れば自慢のようにしか見えないにもかかわらず、くるみの表情は悲しげだった。そしてその表情の意味を、大輔は何となくで、理解している。
「私、賢いですよ。でも、賢くちゃ、いけないんですよ」
「――くるみちゃんが賢ければ、高橋君の猿芝居に気づいてしまうからね」
「猿芝居って何ですか、お兄ちゃんを悪く言うならメガネ教授でも口にホッチキスですよ」
「えぇ……君の言葉をそのまま引用しただけなんだけど」
ネタのような会話を挟みながら、しかし大輔の言葉は核心をついていたらしい。
くるみが賢ければ、大輔の言葉通り、祐介がしていた、祖父の真似――猿真似ともいえるそれに、くるみが気付いてしまう。事実、気づいていたわけだが。
「私は気づいてましたけど、お兄ちゃんには私がお兄ちゃんの芝居に気づいていたって気づかれたくなかったんです。だから、お兄ちゃんの前で私は――ちょっとおバカな妹という仮面を、被ってたんですよ」
「それ、は……でも、気づいたところで、高橋くんがちょっと恥ずかしくなるくらいの話じゃないの?」
祐介が猿芝居をしていた。しかし、くるみはそれに気づいていて、しかしその事実を知らないまま、祐介はその芝居を続けていた。確かに、事の全容を聞けば、少し彼が恥ずかしがったりはしそうなものだが、しかし――くるみが明確な仮面を作って、そして今に至るまでそれを隠し続ける必要はないのではないか。それほどのことでは、無いように思えるのだ。
「それは違いますよ、メガネ教授。私は、お兄ちゃんの羞恥心を堰き止めてあげてるわけじゃないです。当時のお兄ちゃんを、否定したくないんですよ」
「――――」
「私が『お祖父ちゃん』って、声に漏らしたとき……振り返ったお兄ちゃんの瞳を、私は絶対忘れません。――もう、いろいろな……本当に、いろんな感情がごちゃ混ぜになって、その感情全部が、私に向いている。私、お兄ちゃんから向けられる感情なら全部好きですし、全部受け止めるいい女なんですけど、あの時だけは……お兄ちゃんの持つ感情に、ちょっと気圧されたところありましたね」
勿論、嫌ではなかったですし、怖くもなかったですけど、と。そう付け加えながらくるみは当時のことを思い出すようにして、大輔の頭よりさらに上の辺りをぼうっと眺めた。
「あまりに強い感情を向けられて、気圧されて――そして、結果的にそれを受け止めようとした、ってことかな」
「簡潔にまとめるならそうなりますかね。そのお兄ちゃんを否定するのは、多分……お兄ちゃんを傷つけることになる気がして――私は今でも、仮面を被りっぱなしなわけです」
既に幾らかの時間が過ぎている。それは、人によってはある物事を完全に忘れ去るにも十分な時間なのだろう。しかし、昨晩祐介が語ったことからも分かる通り、祐介は当時のことを、くるみとのことを、忘れていない。それどころか、未だに思い続けているのだ。
彼は、考え続けている。真相を知れば、恐らく祐介は傷つくのだとくるみは言うが、しかし真相を知らない彼もまた、今現状として苦しんでいるわけだ。
「けど、今更後悔してきました。仮面被るの」
「というと?」
「メガネ教授の話聞いて、分かっちゃったんですよね。気づいちゃったっていうか。――お兄ちゃんは、今の私を見ているわけじゃないんだって。お兄ちゃんは当時、お兄ちゃんに騙されてあげた私を、見ているんだなって……気づいたと同時に、諦めたというか」
「それは……確かに、そうかもしれないね。多分、高橋君は――祖父の真似事をしてくるみちゃんを騙したことを後悔しながら、同時にそれを拠り所にしているんだと思うよ」
高橋祐介という男は。比嘉くるみという従妹を、幼いころ騙した相手だと思っている。同時に、幼いころ自分が支えた相手だとも、思っているのだろう。それは自責の念と同時に一種の優越感、その相反する二つの感情だったのだ。
全ては、恐らくあの時、『騙してしまった/騙されてあげた』ことで生まれたことだ。
「でもですね、メガネ教授」
「うん、どうしたの?」
「嫌じゃないですよ、私は。仮面を被っていることも、お兄ちゃんの後悔であり自慢でもあることも」
もしかしたら、それだけはメガネ教授の想定外かもしれませんね、と。くるみは言いながら、少し悪戯な笑みを浮かべる。それに、大輔は呆気にとられたような表情を一瞬だけ見せて、しかし刹那ののちに表情を元に戻した。
「想定なんて、無かったよ。何も知らずに、何の誠実さもなしに、土足で踏み込んでそのまま帰ろうとしている、ただそれだけの門外漢だから」
「――私は賢いですけど、メガネ教授も、賢いでしょ」
「さぁ……議長先生と――伊藤さんと、同じくらいだよ」
「じゃあ、二人とも。――二人とも、賢いんですね」
くるみの中で、少しだけ意見が変わった瞬間だったのかもしれなかった。
しかし、大輔はそこに何らかの言葉を挟むことをせず。終わったとも見える会話の続きを、静かに待つ。何事もなかったかのように土産選びに戻ろうとしたくるみも、大輔の動かずの構えを見て、何やら諦めたような表情を見せた。
「何か、言いたいことあります? ――メガネ教授」
「質問に質問を返すのは失礼かもしれないけど、くるみちゃんは? 何か、まだ言い足りないことはないの?」
「――。やっぱりちょっとおバカな可愛い妹の仮面被っていたの正解かもですね。賢い人の相手って、面倒ですもん」
「こりゃ残念。面倒な男ってのはモテないか」
「メガネ教授の場合はモテたいわけでもないんじゃないです? 性格的に」
「まあまあ。それは良いとして、だよ」
大輔の視線が、くるみを射抜く。それはしかし、柔らかな視線だった。
くるみは最後に、何を告げるのかと考える。そして思い出したのは昨晩の告白劇。女子部屋でふと始まった祐介とくるみの馴れ初め話。そして始まった、過去の激白。
やはり、くるみと祐介の関係は――この言葉なしに、語れない。
「聞きたいですか、メガネ教授――?」
「聞かせてくれる?」
恐らく、騙し騙されの無い関係なら、今の二人はなかった。今ある歪みも、後悔も、優越感も、何もない、普通の従兄妹二人だった。それは、世間的に見れば尊ばれる『普通』の一つなのかもしれない。けれど、だけれど。二人にとって、『普通』じゃない今の関係こそが――、
「あの時、お兄ちゃんは。私のために、私を騙してくれたんですよ。――全部、私のために。その想いの強さは、絶対に誰にだって、否定させない」
恋に成れなかった、歪な関係の成れの果て。しかしそれは。
『「だから、私は――」』
目を静かに閉じて、その口元は優し気な笑みで。妹の、表情で。
「――私は、お兄ちゃんが好きなんですよ」
*
沖縄の空は、碧かった。海と同じくらいに。
上を向いた瞳は、その空の色をはっきりと映している。
「何です、メガネ教授。まさか、泣きそうだったりします? まぁ、何だかんだ感動的なお話でしたけど」
「いやいや、くるみちゃん。僕はね、感受性は豊かなのに何故か泣かないっていうので有名なんだよ」
「じゃあこっち向いてくださいよ。私が泣いてないのを証言してあげますから」
「いや、いいよ。ちょっと、空を見たいだけなんだ。ちょっとだけね」
――それから一分ほどして、大輔は視線を戻してきた。
少しだけ首が痛いらしく、首に手を当てている。
「言いたいことは、全部言えた?」
「はい、全部。っていうか、本当に泣いてなかったんですね。まさかこの短時間で蒸発したわけありませんし」
「だから言ったでしょ? 泣いてないんだよ、僕は。ほんの少し、泣きそうになったかもしれないけれど、結果論で言えば問題はないんだよ」
泣きそうになったことは認めつつも、しかし泣いていないと頑固に言い続ける大輔に、くるみは苦笑を浮かべながら、しかし表情は柔らかかった。
本当に、変な人だと思った。愛する兄の、友人。珍しく、自分を子ども扱いする人。本当に、変な人だった。
「そろそろ、お土産選び急ごうか」
「そうですね、時間結構使っちゃいました。私たちが集合遅れたら、多分お兄ちゃんは私にキレますからね」
「何というか、想像は出来るよ」
「まあ、お兄ちゃんに怒られるなら全然大歓迎なんですけどね。私、お兄ちゃんの事大好きですもん」
くっきりと、その顔に笑みを浮かべて、くるみがはっきりとそう言う。その明け透けで、爽やかな愛情表現に、大輔は苦笑を漏らすようなことはせず、どこか眩しいものを見るような表情を浮かべた。
くるみの愛情は、多分祐介に届くことはないし、届けることが出来る環境に生きているわけでもないのだろうけれど。しかし、その感情は綺麗だ。
くるみの抱くそれを、狂愛と表現したこともあった。しかし、それは訂正しなければならない。彼女の抱くものは――『純愛』なのだと。
「本当に、高橋君は――良い妹を持ったね」
「そりゃそうですよ。私にとって最高のお兄ちゃんなんですから、それくらいの御褒美はないと」
「……それもそうだ」
【くるみ】メガネ教授! 私、いい女ですよね!
【大輔】え……まぁ、そういう話したね
【くるみ】そしてメガネ教授、知ってますか? 日本の法律なら、従兄妹は結婚できるんです!!
【大輔】え……まさか…………
【くるみ】ええ! お兄ちゃんが手に入れるご褒美は「私という最高にいい女と結婚できる権利」です!!
羨ましいですよね! えぇそうでしょう! なんてったって…………
【大輔】(高橋君、これはどうするんだろう…………)




