第4章------(9)
それから百年が過ぎた。
その日、真吾は朝の水汲みを終えて、自慢の畑を見渡した。
あたりいっぱいに広がるのは、かれが手塩にかけて育てた桃畑だった。どの木にも、甘い匂いを発する果実がたわわに実っている。
かれは満足そうにそれらを眺め、空を見上げた。空の中央にある太陽に向かって、両手をあわせる。
「おてんとさん。今日も晴れてくれて有難う。今日は収穫の日です。おいらの桃をこんなに立派に育ててくれて有難う」
大きな声で言って、礼をする。
そして、収穫作業をするための道具を用意しはじめた。リアカーにビニールシート、プラスチックのコンテナをいくつか。そして脚立。
真吾は慣れたように脚立をのぼると、桃を手前にひいてやさしくもぎ取った。桃の表面を指でさわり、かすかな弾力を確かめる。
「うん。よい出来だ」
それを腰に巻きつけた携帯用ポケットに入れると、枝をよりわけて、次の桃を収穫する。
あたりには桃特有の甘い匂いがたちこめ、空気までもが、少しピンクかかっているように見える。それは目の錯覚ではなかった。真吾は微笑んだ。
「また色が変わってる」
熟した桃の甘さに酔ったような空気の色だった。
すると、その匂いに吸い寄せられてきたように、小さな羽音がした。振り向くと、妖精たちがいた。妖精たちは透明な羽をはばたかせながら、しきりに真吾に何かをお願いするようにしている。
「わかった、わかった。お前たちにもやるよ。でも、それなら少し手伝ってくれないか」
真吾は笑って言った。
以前の横田四丁目の畑では、よく妖精たちに桃をつまみ食いされた。だが、今の畑では、妖精たちは真吾の桃づくりを手伝ってくれる。真吾はもいだばかりの桃をハンカチに乗せてやった。
「これを皆でコンテナに運んでくれないか。そっと、気をつけてな」
妖精たちは頷くようなしぐさをして、協力しあいながら、桃を運びはじめる。真吾は妖精たちに声をかけた。
「あとでたっぷり、お前たちにもわけてやるからな」
収穫した桃は、町の人々にふるまうことになっている。
これから真吾はリアカーに大量の桃を乗せて、四丁目の人々の家を一軒一軒まわり、桃を渡してゆくのである。
その人々の笑顔を見るのが、真吾の楽しみだった。
「いつも有難うございます。こんな上等な桃をいただいちまって」
「とんでもない。皆さんで召し上がってください。ほんのお礼ですから」
真吾は丁寧に頭をさげた。
「わあ。真吾さんの桃だあ。あたし、虹色のきれいなやつがいいなあ」
「虹色かあ。うーん。今日のなかにはなかったかもな。ごめんな。また、明日、探して、持ってくるよ」
前の畑もそうだったが、真吾の畑はめまぐるしく色が変わる。
同時に、その桃のほうも、相変わらず、自然界ではあり得ないような奇抜な色をしていたり、模様があったりするものが時々ある。その縞模様や水玉模様の桃を見て、驚く人々の顔を見るのも真吾は好きだった。
ともあれ、新しい横田四丁目で再開した桃畑が収穫期を迎えるたび、真吾は桃を配って歩く。それは百年前、地獄に落ちそうになったかれを助けてくれた人々への、せめてもの恩返しだった。
だから、この時期のかれは忙しい。
何しろ、かれに霊人ポイントをわけてくれた霊人たちは大勢いるのだ。横田四丁目の人々は勿論、地獄の門番たち、その他、天使の僕として働きながら出会った数多くの霊人たち、そういう人々が少しずつ、自分のポイントをわけてくれた。
その人々をひとりずつ訪ねて行って、挨拶をし、近況を報告しあい、桃をわたす。これはなかなか根気のいる仕事だった。
だが、真吾は面倒くさそうな顔ひとつせず、楽しそうに桃を渡してゆく。かれの笑顔を人々の心を温かくし、自然に笑顔を呼び起こす。そんな屈託ない笑顔だった。
「あ。そうそう。地獄の連中の分も残しておかないとな。今日は帰りが遅くなりそうだから――先にやっておくか」
真吾は桃が並べられたコンテナを数えながら呟いた。
さすがに地獄の町を歩きまわって一人ずつ手渡すことはできないので、これは念じて発送する。かれは地獄の友人たちの顔を思い浮かべながら、桃を両手に抱えた。
「与作や、地獄に落ちた元四丁目の仲間たち――お世話になった地獄の役人たち、はるかの母親……オランダ人のエーリク、それから……」
手のなかにあった桃がひとつずつ消えてゆく。
それらの桃は瞬時に相手のもとに届いたはずだった。
真吾の桃は、普段、まともな食事をすることのできない彼らにとって、極上の甘露だった。また、真吾が丹精こめて作った桃には特別な力がある。その果肉を口にすると、そのなかにある善の力が、食べた霊人たちに少なからず善い力を与えるという。
具体的にそれがどういうことなのか、真吾はよくわからない。だが、ある時、ラファエルがそんなようなことを教えてくれたので、きっとそういうものなのだろうと思ってる。
(これで少しでもあの人たちが楽になれますように)
かれは、地獄にいる人々のために祈った。
真吾は無力で、彼らひとりひとりを救うことは出来ない。だが、苦しみの多い彼らの暮らしのなかで、たった一個の桃がささやかな幸せと希望をもたらしてくれたらいい。そんなふうに思っていた。
畑の収穫作業がひと段落ついた頃、町のほうから、わいわい霊人たちがやって来た。彼らの話す声を聞いて、真吾は頬を緩めた。
声高に言い争っているのは、佐吉とマルコだった。相変わらず、二人は仲が悪い。だが、いっぽうでは互いを認め合っている部分もあるようで、真吾には彼らが本当は仲が良いのか悪いのかよくわからない。
その二人の少し後ろには、ベアトリーチェとはるかがいる。彼女たちは今では大親友になっていた。
真吾と出会った頃、本当の少女にすぎなかったはるかも、地上時間で百年が過ぎた今では、立派な霊界人だ。もっとも、外見はさほど変わらない。ベアトリーチェもはるかも十歳前後にしか見えない。
真吾は、一見幼い少女にしか見えない彼女たちの会話が、三十年、五十年と時がうつるうちに、どんどん大人の女同士の辛辣な会話になってゆくのを、呆然とした気持ちで聞いていたものだった。
「真吾さん!」
はるかが快活に叫んだ。
「桃を町の人たちに配るんでしょ? 手伝うよ!」
百年前は内気そうな少女だったはるかは、今ではすっかり朗らかな性格になっていた。真吾は自分の養女である少女を目を細めて眺め、明るい声を返した。
「ありがとう。それじゃ、頼むとするかな。今日中に四丁目は全部、まわりたいから」
「まかせて。それより、天使たちが町の入り口に来てる。真吾さんの桃が目当てだと思う」
「――またか」真吾は肩を落とした。
四大天使のひとりである大天使ラファエルは多忙であるにもかかわらず、なぜか、真吾の桃の収穫期を正確に把握していて、この時期になると、必ず、配下の天使をよこしてくる。それは収穫作業を手伝うためではなく、真吾の桃を貰い受けるためだった。
「天使なんて、後回しでいいだろ。それより、菊音さんとこの婆さんを優先させたほうがいい。早くやらないと、大変なことになるぞ」と佐吉。
「そうだな……」
真吾は少し遠い目をした。
平安時代の没落宮家の姫君であった老婆には、依然として、当時の矜持が残っている。老婆にすれば、捧げ物は、誰よりも優先しておのれが受け取るべきであり、後回しにされることなどあり得ないのだ。
そして、老婆の後ろには菊音がいる。
菊音も天使の僕として忙しく働いているから、滅多に、横田四丁目にやって来ることはない。それでもなぜか桃の収穫期は知っている。
真吾が老婆に渡した桃は菊音のもとへも届けられるから、老婆に渡す桃が遅れると、菊音が怒り出すのである。怒った時の菊音の状態をよく知っている真吾はすみやかに立ち上がった。
「じゃ、先にお婆さんのところに行ってくるよ。久しぶりに修験者さんとも話したいし。お前たち、悪いけど、おいらの留守中に、もう少し畑から桃をとってきてくれないか。あとコンテナ、三つ分くらい必要になるかもしれない」
「はーい」
「はいよ」
四人が口々に返事をする。
真吾はそのあたりにあった桃を三つ四つ、風呂敷に包むと、鮮やかに瞬間移動した。
真吾が消えると、はるかが不思議そうに聞いた。
「ねえ。いつも皆、怖がってるけど、菊音さんって、そんなに怖いの? わたしにはそうは見えないけどなあ。あの人、親切だよ?」
はるかにとって、菊音は憧れの女性である。すらりとした綺麗な容姿をしていて、霊力が並外れて強く、仕事ができて、大天使ラファエルの信頼もあつい霊人――
はるかの育ての親の真吾の上司であるという事実もある。はるかには菊音を尊敬する理由はあっても、恐れる理由はあまりなかった。
佐吉はぶるっと体を震わせた。
「怖いも何も――おらぁ、はじめてあの女と会った時、酷い目にあったぞ。山で怪我させられたり、遭難しそうにされかけたり」
「でも、意外と一途なのよ」
ベアトリーチェが言う。マルコが興味をもって、妹を見る。
「どういう意味だい、妹よ」
「あのね、兄さま。誰にも言っちゃ駄目よ? 菊音さんはラファエル様に恋をしてるの。でも、好きなあまり、ラファエル様をすごい目で睨みつけてしまうんですって。だけど、睨みつけられたラファエル様のほうは、自分が菊音さんにもの凄く嫌われていると思ってる……。だから、菊音さんは可哀そうなのよ。不器用で、報われない恋」
「ああ」マルコはポンと手を打ち鳴らした。
「不器用で一途な恋。それは、はいからさんと同じだね。僕はそういうキャラ、好きだよ」
かれは言った。




