第4章------(8)
それは奇跡――
と言って、良かったかもしれない。
小さな、温かい、無数の力が落下する体を押しあげはじめた。かれは驚いて、あたりを見回した。
もうすぐそこに見えていた地獄の黒い大地が、ゆるやかに遠ざかってゆく。人々の感謝の想いが真吾の体のなかに溶け込み、力がわいてくる。かれは信じられないといったように目を見開きながら、はるか高みに見える中間霊界を仰いだ。
「みんな……有難う」
涙がにじむ。
皆が、少しずつ、自分たちのポイントを真吾にわけてくれて、そのおかげで、かれは地獄に触れずに済んだようだった。そのポイントはただのポイントではなかった。人々が汗水流して獲得したかけがえのないものだった。霊人にとって、それを手放すことがどんなに難しいことであるか、真吾は知っている。
「ありがとう」
かれは、もう一度、頭上に向かって言った。
(真吾さん。良かったね)
お幸の思念がやさしく語りかけてきた。
(やっぱり、あんたに地獄は似合わないよ。あたしは大丈夫だから、もう、気にしないで)
「どういう意味だ」
(さようなら。お元気で)
「お幸っ――」
そして、かれは中間霊界に戻った。
「戻ったか」
静かな声が聞こえた。真吾は声のしたほうに顔を向けた。
「大天使ラファエル様」
天使がその場にいることの驚きはなかった。かれはむしろ当然のように相手の名を口にした。ラファエルの怜悧な美貌が真吾を見つめる。
「どうだった、地獄に落ちかけた気分は」
「――もう、ダメだと思いました」
かれは疲れきった声で言った。
それから自分の手足を眺めまわして、今までと変わったところがないことを確認すると、ほうっと息をついた。
「自分で言い出したことでしたが、後悔しました。でも、全ては遅くて、おいらは地獄に落ちるんだと覚悟しました。だけどお幸の声が聞こえてきて」
「そうだな」大天使が頷く。真吾は天使をあおぐように見た。
天使はただそこに立っていただけだが、真吾の目には初めて見るように映った。白く美しく、穢れなく、大きい。白銀の炎の髪がゆらゆら燃えていて、天使のかもしだす強烈な波動に溶けている。
真吾は眩しさを感じて、目を細くした。今まで、何気なく接していた大天使の存在の大きさを、改めて知らされた気がした。
かれは緊張した面持ちになった。
「あの、お幸は――ちゃんと自由を手に入れたんでしょうか。まさか、あの時、おいらがやったポイントを返してきて、また家の中で動けなくなってる、なんてことはないですか」
先ほど、最後にかわしたお幸との会話が気になっていた。
大天使は答えない。真吾は焦燥を感じて、さらに言った。
「ラファエル様。教えてください、お幸は地獄で……どんな状態になってるんですか。答えて。知ってるんでしょう?」
「ああ。知っている」
天使は頷くと、淡々と告げた。
「彼女から、お前から贈られたポイントを返上したいという申し出は確かにあった」
「えぇっ! そんな」
「まあ、聞け。お幸はお前が地獄に落ちそうになるのを知って、そう言ってきたんだろう。だが、私はそれを保留にさせた。そして、お前とつながりのあった全霊人にお前の状態を知らせてやった。するとどうだ。多くの霊人たちが、瞬時に、自分たちのポイントの一部をお前に譲りたいと申し出てきた」
「…………」
真吾は次の言葉を待つように、天使を見上げた。天使は微苦笑した。
「大丈夫だ。他の霊人たちからのポイントでかなり底上げすることができた。お前は中間霊界になんとかとどまることが出来、お幸も家の敷地内でなら自由に動くことができるようになった」
「良かった」
真吾は心から言った。
と、同時に力が抜ける。かれはその場にへたへた座り込み、手で顔をおおうようにした。
「よかった、本当に良かった。良かったなあ、お幸」
あの地獄の暗い町で、家と同化し、苦しみのなかで身動きひとつできずにいたお幸。
その妻の姿を思い出し、真吾は涙を流した。たとえ狭い家のなかだけだとしても、動ける範囲が出来たのだ。それはお幸にとって、とてつもなく素晴らしいことに違いなかった。
ラファエルは真吾の様子を注意深く見つめていた。沈黙が落ち、ややあって、天使が口を開いた。
「お前は地獄へ堕ちかけた。それはわかっているな?」
「は、はい」
「それを助けたのが、誰なのかもわかっているな」
「はい。声が――聞こえてきました。四丁目の町の人たちの声が……」
「そうだ」天使は頷いた。
「お前は本当に稀有な人間だ。普通、そんなことは起こりえない。霊人が他人にポイントを進んで分け与えるなどと言うことはな。アフターワールドではポイントが全てだ。誰もが少しでもポイントを稼いで、今より良い霊界へ行きたいと思ってる」
それは事実だった。
自己中心的というのではなく、より良い霊界で幸せに暮らしたいと願うことは、霊人としてこの世界で暮らしている人々の本能のようなものだった。
だから、真吾の危機を知っても、四丁目の人々が真吾のために自分の大切なポイントをわけ与える必要などなかったのである。だが、人々は感謝の思いでもって、真吾を助けた。その気持ちが真吾は何より有難かった。
「本当に……何て言ったらいいのか――感謝してます。おいらが勝手にしたことなのに、町の皆に迷惑をかけて――」
かれはうなだれた。
あの時、人々が助けてくれなかったら、かれは地獄に落ちていたはずだった。そのことを誰より実感しているのは、真吾自身だった。
(おいらを助けてくれた人たちのなかには……佐吉もいた)
かれはまたしても涙ぐんだ。
それこそ、信じられなかった。
佐吉は真吾の親友だったが、けして他人のために何かするような男ではなかった。いつも真吾に迷惑をかけて、自分の尻ぬぐいを真吾にさせて、へらへらしている印象しかなかったのに、その佐吉が僅かなポイントのなかから真吾を助けてくれた。
その事実は真吾を感動させた。
「今後は彼らのために働かなければならないな」
ラファエルが言う。真吾は顔をあげて、背筋を伸ばした。
「勿論です。横田四丁目のために、もっともっと働きたい。皆、大好きです。おいら、嬉しくて、おかしくなってしまいそうです。おいら……おいらは、思いあがっていたんです。ちょっと最近、霊人レベルが上がって、お幸ひとりを助けるくらいできるかもしれないと――でも、そのためにポイントほとんど持ってゆかれてしまって」
「そうだな」
「霊人ひとりを助けることが、本当に大変なのだとわかりました。おいらはもう、このことを忘れません。それから、おいらを助けてくれた人たちのために、これからは生きたいと思います」
真吾は決意をこめた声で言った。
◇
中間霊界にはかろうじて戻れたが、真吾の霊人ポイントは著しく低下した。
当然だった。
あわや地獄に落ちるほどポイントが減ってしまったところを、仲間たちに救われたのだ。仲間たちだって、それほど多くのポイントを持っているわけではない。限られたポイントのなかから、自分たちのレベルを維持できる範囲で真吾に与えたにすぎない。
だから、真吾は以前よりずっと霊人レベルが落ちてしまっていたが、真吾の顔つきは晴れやかだった。お幸の怨霊が離れたこともあるのだろう。もう腰痛や心臓病に悩まされることもなく、毎日、せっせと仕事に励んでいる。
その様子をはるか上空から眺めながら、大天使ラファエルは独り言のように呟いた。
「英傑か」
霊界には、たまに天によって選ばれる個体がある。
その霊人は、善を作り出す英傑となって、やがて四大天使をはじめとする天使たちを従え、創造主のみわざを継いで、アフターワールドを治めてゆく。
霊人の多くは英傑を架空の存在だと思っているが、そうではなかった。
英傑は実在する。
大天使はその長い時のなかで、実際に、何人もの英傑たちと相まみえてきた。
「あの者にはまわりを善に巻き込む力があるな。それは才能だ。今はまだ小さな霊人だが、ああした霊人が育って、英傑になってゆくのを私は知っている。またあの奇跡を目の当たりにできるかもしれない。はじめは――なぜ、あの個体を光の君が選ばれたのか理解できなかったが」
真吾を天使の僕にとりたてよと命令したのは、創造主その人であった。
大天使ラファエルは立ち上がると、天を見上げるようにした。
厳粛な面持ちになり、瞳を閉ざし、腕を胸にあてる。天使はどこからか聞こえる声に耳をすますようにした。しばらくして、天使の唇から漏れたのはこんな言葉だった。
「我が主よ。あなたにはあの者の素質が見えておられたのですね。そして、私にあの者が英傑として成長するよう見守るよう仰るのですね。わかりました。御心に従いましょう」
その昔。
創造主のひとり子として作られた人間たちが堕落した。
罪を犯し、世界を悪に変えてしまった。
罪に加担した天使は堕天使となり、霊界に地獄が生まれた。以後、霊界は戦争状態になり、創造主と天使たちは気の遠くなるような年月をかけて、リアルとアフターワールドを通し、人類救済のために尽力してきた。
英傑は人々を善に導く、中心人物である。
また、英傑とは違う、最も価値ある中心人物が存在する。
世界の王。
王は英傑たちを従え、悪に染まった世界を善に染めなおす仕事をする。その王の血統と臣下たちが暮らす場所が高級霊界だった。
そう。天馬に乗った真吾が我知らずたどり着いてしまった霊界だ。
その時、真吾はそれ以上、高級霊界に近づけなかった。だが、もしかしたら――と天使は思う。あるじ不在の高級霊界がその素質のある者をみずから呼び寄せたのではないだろうか、と。
「まさか桜田真吾が王の器であるとまでは思わないが……」
ラファエルは美しい顔をゆがめた。
しかし、長らく、王は不在だった。高級霊界はアフターワールドから取り残されたかたちで存在している。前の王が失われてから、随分、年月が経つ。そのため、その血統も薄れてきてしまっている。
天使は吐息をついた。
「いつか、我らが真にお仕えするべき世界の王は現れるのでしょうか。光の君よ」
大天使ラファエルの想いは果てがなかった。




