第4章------(7)
大天使は片手をかるく上げ、振り下ろした。
瞬間、真吾は光に包まれた。
「あ……」
言葉を発する間もなかった。
体が見る間に薄くなり、分解され、空気に溶けてゆく。真吾は砂のように崩れてゆく自分の両手を不思議そうに眺めた。
体中の力が抜けてゆく。
痛みはなかった。全ての感覚器官が麻痺してゆくような感じで、何も感じない。やがて、視覚と聴覚もゆるやかに閉ざされてゆくのがわかった。かれは目を閉じた。だが、頭のなかには白い世界が広がっていた。
静かな、白い、永遠の世界。
気が付いたら、かれはその世界に漂っていた。
これから、真吾は霊力を大幅に奪われ、その結果によっては地獄に住まうことになる。だが、真吾は十中八九、自分は地獄へ堕ちるだろうと思っていた。かれは自分でも驚くほど静かな気持ちで、その事実を受け入れていた。
(そういえば)
かれは思った。
確か、以前も同じような場面があったように思う。
(あれは――いつだったか。そうだ、四丁目が地獄に吸収されてしまった時だ)
かれは、仲間たちだけが地獄に落ちて、四丁目のために何もできなかった自分が地獄へ落ちないのは不公平だと言って、自らも地獄へ行くと大天使に告げたのだ。
その時も真吾は真剣だった。
地獄は恐ろしかったが、そこに行くのは仕方がないと思っていた。
しかし、その時、大天使に創造主からの御言葉がおりて、真吾は天使の僕としてとりたてられることになったのだ。思えば、それが全てのはじまりだった。
(ああ)
かれは遠のいてゆく意識のなかで思った。
(でも、今度こそ、本当においらは地獄へ行く……)
地獄には何度かおりたが、中間霊人として一時的にその地を訪れるのと、その地で暮らす霊人になるのでは、まるで立場が違う。
今まで与えられていた自由は著しく制限され、苦しい思いを抱えながら暮らしてゆかなければならなくなるだろう。
また、今はほとんど感じていない、心のなかの負の感情も強くなって、誰かを恨んだり、憎んだりすることもあるかもしれない。これからは、そうした自分自身の弱さとも戦ってゆかなければならない。
(でも、それで、家に縛れて動けないお幸が少しでも自由になれるなら、かまわない)
生前、お幸が苦しんでいた時、真吾はそのことを知らなかった。そればかりか、かれはひたすらお幸を忘れようとして、自暴自棄になっていた。
その過去の自分を悔いるとともに、お幸の苦境を知らなかったことへの償いが少しでもできれば良いと考えていた。
かれは、ふと気が付いた。
(そうかあ。あ。でも、もし、おいらが地獄の霊人になったら、もう天使の僕の仕事は出来なくなるかもしれないなあ。それに何の挨拶もしないで地獄に行ったら、佐吉は怒るだろうなあ)
せめて、親しい人々に挨拶をしてから地獄へ送ってもらいたいと思い直し、かれは見えない目を凝らして、大天使の波動を探そうとした。
けれども、そこには誰もいなかった。
真っ白な何もない空間が広がっているだけである。声を出すことが出来なかったので、かれは心のなかで呼びかけた。
(ラファエル様……いないんですか? ラファエル様)
答えはない。
そして、かれはもうとっくにその驚くべき術が発動されていることを知った。
(そうか。もう手遅れ)
遠い意識のなかで、かれは思った。
いつか、かれは自分の生命ポイントを佐吉にわけてやったことがあったが、その時は手続きが大変だった。
事前に何人もの役人と面接をし、書類にサインをし、下っ端の天使たちが呼ばれて、その監視下で術が行われた。
今回はその時より難易度の高い術であることは間違いない。
何しろ、地獄にいる霊人にポイントを分け与えるのだから。
だから、もっと儀式めいたことをしたり、細々とした準備や、面倒な手続きがあってしかるべきなのだが、大天使ラファエルは無造作に片手を振るだけでそれを行ってしまった。真吾は呆れるとともに、やはりあの天使は四大天使のひとりの実力者だったのだとしみじみ思う。
(おいらのポイントが流れてゆく――)
かれの意識は思った。
真吾は無になった。
しかしその状態は長く続かなかった。いったん白い世界に溶けきった後、ちいさな螺旋状の動きが発生し、それが霊人の体を再構築するようにまわりはじめた。
(ア――)
かれは目を開いた。
少しずつ、体が作り直されてゆく。だが、その体は以前のものと同じであるように見えて、全く違うものだった。
(重い)
生命ポイントが激減した体は力が抜けきってしまっていた。その場にいるだけでやっとで、身動きできない。ずるっと何かが滑り落ちた。残っていた僅かなポイントが真吾の体内からごっそり抜けていったのだと理解した時、真吾は恐怖を感じた。
(……待って――そんなに)
驚きと後悔の念が脳裏をかすめる。
お幸のために自分を犠牲にしようとしたが、それは甚だしい思いあがりだったのではないだろうか、と考える。
かれはただの中間霊界人にすぎない。お幸よりは力があるが、それだけだ。地獄に落ちた霊人ひとりを救うことがどれほど難しいか、かれはその身をもって思い知った。
(おいらは……間違ってた――?)
かれは簡単に自分のポイントを分け与えようとしたが、もっと他に方法はなかったのだろうか。もしかしたら、かれはとてつもない愚行をしたのではないだろうか。
後悔の念がさらに強くなる。
だが、すべては遅すぎた。
大天使の術は発動され、既に、真吾のポイントの多くが流れ出てしまっている。かれは、その場に留まりきれず、落下してゆくのを感じた。
からだが溶ける。
どこまでも落ちる。
お幸は気の毒だと思った。
だが、お幸を助けるいわれが、本当にかれ自身にあったのだろうか、と思う。かれのほうだって、生前、苦しんだ。お幸は自分の苦しみばかり話したが、真吾の気持ちを思いやることはなかった。
理不尽な怒りがこみあげた。
それでは、お幸が目の前から消えて、絶望と悲しみにくれた若き日の真吾の気持ちは誰が慰めてくれるのだろう。お幸はもっと真摯な気持ちになって、真吾に謝らなければならなかったのではないか、という思い。
心の底から、黒い膿が噴き出した。
(おいらは――)
真吾は寂しい目をした。
(何のためにお幸を助けようとしたんだろう……こんな思いをするためだったのか?)
それでは、あまりにも空しすぎる。
気力をかき集めなければと思う。
かれは、自分の意思でそうすることを決めたはずだ。それが難しいことであるのは承知の上で、大天使の反対を押し切った。
(でも……)
かれの意識は力なく思った。
後悔は、もはや、慙愧の念となって、覆いかぶさっていた。
からだが溶けて、落ちる。黒い膿があふれる。大きな、黒い、ねっとりした怨念にのみこまれる。眼下にせまってくる黒い大地が地獄のそれであるということを、真吾はぼんやり理解した。
かれは、地獄に落ちようとしていた。
その時だった。
ひとつの、淡い光の珠があらわれた。
(真吾さん)
かすかな声が聞こえた気がした。黒い大地に身をあずけようとしていた真吾は瞼を開けた。光の珠が真吾の体にすうっと入ってきた。
(え――)
真吾は体を震わせた。
冷たく、凍りついたようだった体に熱がじんわり広がってゆく。かれは両目を大きく見開いた。熱はだんだん大きくなり、真吾の心臓から血管をとおって、四肢にむかって移動してゆく。
信じられなかった。
それは、お幸の感謝の想いだった。
地獄の底の町で、それまでけして手にすることのできなかった自由を手に入れたお幸の、真吾に向けた感謝の気持ちだった。
「お幸……」
かれは呻くように言った。
(ありがとうね、有難う。本当に感謝してるよ)
か細い声がつたえてくる。と、同時に遠くから大勢の声が聞こえてきた。
(真吾さん)
(桜田さん、あんたのおかげで俺たちは町に戻れたんだ)
(おい、真吾。お前ひとりで地獄に行くなんて、許さないぞ。順番からすれば、俺のほうが先だろうが。仕方ないから、お前にほんの少し、俺のポイントわけてやるよ)
(有難う、真吾さん。あなたがいなかったら、私は今頃――)
霊人たちの声が次々に響く。そして、真吾の体に暖かいものが息づきはじめた。




