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第4章------(6)



「それが、見えない壁に突き当たったんですよ。空に壁があるなんて、おいら、聞いたことがなかった。本当にそんなことがあるんですか?」


 ラファエルのもとへ赴くなり、真吾は興奮した様子で言った。ラファエルは書き物をしていた手を止めて、美しい顔をあげた。


「本当にあったから、本当なのだろう」


「あの先にあったのは、どういう霊界なんですか。こう――綺麗な、緑と湖のある浮島みたいな……町は全然なくて、生まれたての自然ばかりがキラキラしているというか、おいらの説明、わかりますか」


 真吾はせき込むように聞いた。あの香しい匂いのする霊界は何なのだろう、という好奇心がかれをとらえていた。


 本当は真吾自身があの場所へ降り立って、その目で見、その手で触り、直接、確かめたかった。だが、それはできなかった。目に見えない壁が立ちはだかっていて、何としても先に進むことができなかった。それでかれは、お幸のことを報告しがてら大天使のもとを訪れて、開口一番にそれを聞いたのである。


 ラファエルはペンを置いて、肩をすくめた。


「お前には関係のない霊界。だから、壁に阻まれて近づけなかった」


「はぐらかさないで、ちゃんと教えて下さいよ」


 かれはラファエルの正面にまわりこんだ。大天使は「やれやれ」と口を開く。


「なら、教えてやろう。それはおそらく、高級霊界だ」


「高級霊界って、あの――?」


 真吾は目をぱちくりさせた。天使は顎をひいた。


「そうだ。お前も知っているだろう。私たち天使の住むパラダイスの下の、そして中間霊界の上にある霊界だ。お前が天馬であんなところまで飛ぶことができたのは驚いたが、あの霊界にお前が足を踏み入れることはできない」


「ど、どうして」


「あそこは特殊な霊人たちしか住めないのだ。今はごく僅かな霊人しか住んでいないから、町はほとんど作られていないはずだ」


「特殊な霊人たちって……」


 真吾はますます興味をそそられて呟く。


 確かに、高級霊界と呼ばれる霊界が存在していることは、ラファエルの言う通り、知識としては知っていた。なぜなら、死んで霊界に来た時、このアフターワールドの構造として誰でもはじめに習うことだからである。


 けれども、そこは真吾たちの生活圏とはかけ離れた霊界だった。


 そうした霊界が存在することは知っていても、実際にそこに行った者はいない。また、そこから来たという霊人もいない。だから、人々はそのうち中間霊界の上に高級霊界があることさえ、忘れるようになってしまう。


 真吾にしても、ラファエルに言われるまで、あの不思議な浮島が高級霊界であるかもしれないと思いつくことさえできなかった。かれは思った。


(高級霊界。本当にあったんだなあ。あんなに光の強い、空の上の上に――おてんとさんの光の近い場所に)


 それがまるで霊人の本能であるように、どうしようもなく心が惹きつけられる。あの場所で暮らすことはできないまでも、いつか、訪れてみたいと強く思う。たが、また一方では、そこが真吾に適した霊界でないこともよくわかっていた。太陽の光が強すぎて、多分、自分はそこに立った途端に耐えられなくなってしまうだろうということを感じていたから。


 大天使ラファエルは真吾の様子を注意深く見守りながら言った。


「あの場所はある特別な血統をもつ民のものだ。お前たちはいくら善行を積んでも、行くことはできない。悪いことは言わない。あの霊界のことは忘れるんだ」


 真吾は釈然としない顔で天使を見た。だが、天使はもうそれ以上、説明する気はないようだった。天使は話題を変えるように言った。


「それで。地獄はどうだったんだ」


「あ――はい」


 かれは唇を舐め、お幸との再会について話しはじめた。





 結論から言えば、お幸は真吾にとり憑かせていた怨霊を退かせることに同意した。


 はじめは渋っていたが、真吾がかれ自身の力を使って、せめて家のなかだけでもお幸が自由に動きまわれるようにしてやると約束すると、「わかったわ」と言った。


「でも、そんなことにあんたの力を使っていいの? あたしはずっとあんたを恨んでたのよ。あんたのポイントが減るわ」


 お幸は心配そうに真吾を見た。真吾は穏やかに言った。


「いいんだ。おいらはこっちに来てからずっと腰痛持ちだったからなあ、体の具合が悪いことには慣れてるんだ。お前が退いてくれて、今は前よりずっと体が軽いけれど、軽すぎて、どうも自分が自分じゃないみたいだ。だから、お前に力をわけて、もう少し、レベルを落としたくらいがちょうどいいんだよ」


「そんなこと言って……」


 お幸は困ったように口ごもる。彼女は寂しそうに真吾を眺めた。


「ねえ。あんたの体が光って見えるよ……リアルでは一緒に暮らしていた時期もあったのに、こっちの世界でのあんたとあたしは――もう、全然、違うのね。あんたは中間霊界の、偉い霊人なんだね」


「まさか。そんなことないぞ」


「いいえ。あたしにはわかる。だいたい普通の霊人だったら、中間霊界から地獄に来ることだって難しいんじゃないの? よくわからないけど」


 お幸は言った。真吾はびっくりしたように妻を見た。


「そんなことない、おいらはおいらだ。あの頃から全然、変わってない」


「嘘よ。嘘」


「嘘じゃない。信じてくれ。お前に会って、おいらは決めたんだ。おいらはまたいつかお前と一緒に暮らしたいと思ってる。その、お前さえ、良ければなんだが……どうだ、お幸? お前の気持ちを聞かせてくれ」


「うそ。そんな――また、一緒に?」


「そうだ」


 真吾は力強く頷いた。お幸の黒い目が潤んだ。


「どうして……」


「どうしてって、そりゃお前、夫婦は一緒に暮らすもんだろう?」


「だってあたしは長年あんたにとり憑いて――」


「いいんだ。仕方なかったんだ。それにそのおかげで、おいらはお前を探し出すことが出来たんだから。なあ、お幸。どうだろう? おいらと一緒に暮らすのはイヤか? 勿論、時間はかかるだろう。でも、いつかまた一緒に……そして、そして――もう一度、結婚しようじゃないか。リアルでの結婚生活をやり直すんだ」


「……――」


 お幸は唇を引き結んで答えなかった。まつ毛を伏せ、そのまま手で顔をおおってしまう。か細い肩が震えているのがわかった。やがて、お幸はかすれた声で言った。


「有難う、真吾さん。本当に。こんな――あたしで良かったら……お願いします」





「ちょっと待て」


 真吾の話をそこまで聞いたラファエルは口を挟んだ。


「つまり、お前は怨霊をはらって、せっかく本来のものに戻った自分の力を、彼女にわけ与えたいと考えているわけだな?」


「あ。はい」


「しかもだ」ラファエルはさらに言った。


「地獄の下層にいる妻と再び共に暮らしたいだと? それがどれだけ不可能に近いことか、天使の僕として働いてるお前ならわかるはずだろうが」


「それも……わかりますけど」


 真吾は「うーん」と唸ってから、小声で言った。


「でも、おいら、約束しちゃったんで」


「勝手にできもしない約束をするな!」


 天使は声を荒げた。まわりにいた天使たちが驚いたようにラファエルを見る。ラファエルはそれへ「何でもないから」と言い、真吾に怖い目を向けた。


「桜田真吾」


「はい」


「お前というやつは――」


 天使はこめかみを押さえ、大仰にため息をついてみせた。


「お前はどうしてこう――後先を考えず、自分に損になることばかりするのだ」


「いえ、別に損ってわけじゃ」


「大損害だッ」


 ラファエルは叫びかけて、まわりを気にするように声を低くした。


「いいか。お前に憑いた怨霊を祓うことになったのは、お前の力を半減させている元凶を取り除き、有力な僕としてさらに我々の仕事のために働かせるためだった。そのために私はお前を地獄の門の門番にしたり、便宜をはかってやった」


 それは事実だったので、真吾は「はい」と頷く。ラファエルは不機嫌そうに続けた。


「そうしてようやくお前は元妻の居場所をつきとめ、地獄に降りた。元妻を説得し、怨霊を祓うこともでき、お前は本来持つべき力を取り戻した。ここまではいい。だが、そこで、なぜ、手に入れた力を自ら捨てようとする?」


「と、言われましても……成り行きというか」


 真吾は困ったように頭をかいた。ラファエルの眉間の縦皺が深くなった。


「すみません。ラファエル様の言ってることはわかります。でも、おいら、たとえ力が半減したとしても、これからも一生懸命働きますから、我儘を許してください。ラファエル様には感謝してます。おいらは天使の僕になったおかげで横田四丁目も作り直すことができたし、もう一度、お幸と会うこともできた。本当に感謝してるんです」


「……」


「お幸も心を入れ替えて、一生懸命、善のポイントを稼いで、少しでも良い霊界に行けるように頑張るって言ってます。おいらも出来る限り、お幸を助けます。二人でもう一度、頑張りたいんです。リアルで出来なかった分、おいらはお幸を助けたいんです」


「それがどんなに難しいことか、本当にわかってるのか」


 苦々しげに、天使が言う。


 真吾は神妙そうに押し黙った。


 言われるまでもなかった。


 それは、永遠の世界であるこのアフターワールドで気の遠くなるような時間の末に、ようやく叶えられるかどうかという望みである。


 かつて、数えきれないほどの霊人たちが、真吾と同じことを切実に願っただろう。


 霊界で生き別れてしまった身内とともに暮らしたい。


 あの、井上はるかもそうだった。


 真吾は、はるかの保護者になったが、はるかの本当の願い――またいつか母親と一緒に暮らしたいという少女の願いが叶う日は来ないだろう、と本心では思っていた。気の毒だが、仕方のないことだと思った。


 だが、呆れたことに、お幸が見つかって、相愛であったことを確認した途端に、真吾自身も同じことを願っていた。頭では無理だろうとわかっているのに、気持ちがどうしても願ってしまう。


(おいらはバカだな……)


 真吾は自嘲するように思う。


「そう。お前は大馬鹿者だ」


 天使は立ち上がった。その途端、真吾は威圧された。天使がいつもの何倍も大きくなったような気がした。


「ようやく長年苦しめられた怨霊から解放され、本来の力を取り戻し、その力はあの高級霊界に届くほどのものであるかもしれないのに――それを地獄に落ちた妻のために簡単に捨てようとする。お前はまことに愚か者だ」


 天使の声音は厳しかった。真吾は大きく目を見開き、それから、うなだれた。


「すみません。本当に」


「地獄で身動きできない妻にわずかな自由を与えるためにお前が払う代償は大きいぞ? もしかしたら、お前自身も地獄に落ちるかもしれない。それでもいいのか?」


 ラファエルが静かな声で問うてきた。真吾は一瞬、黙った。


(今度こそ、おいらも地獄に――)


 身が震える。


 お幸をあの地獄の町から救い出すことは、それほどまでに難しいことなのだ。しかも、その代償を払っても、お幸には今よりはマシであるという程度の、僅かな自由しか与えられないだろう。


「お前がこれまで積み上げてきたものが一気に崩れるかもしれないぞ。お前のレベルが低くなりすぎれば、当然、お前があれほど愛着を抱いている横田四丁目にも戻れなくなる」


 真吾はぎゅっと目を瞑り、大天使を真っすぐ見上げた。かれは、自分にすがりつくしかないお幸のことを思った。そして言った。


「かまいません。四丁目の人たちは、自分たちでちゃんとやってゆけます。はるかは心配ですが、マルコたちが良くしてくれるはずです。おいらは、生前、お幸を助けられなかった。お幸にはおいらしかいません。だから、おいらは今、お幸を助けたいと思うんです」


「よかろう。そこまで言うなら、その願い、聞き届けよう」


 大天使は厳かに言った。



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