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第4章------(5)



 お幸はすぐには返事をしなかった。


 しばらく黙った後、怯えるように言った。


(あたしの……本当の姿?)


「うん」


(そんなもの見て、どうすんのよ)


 突き放すように言う。真吾は柱時計の表面を指でやさしくなぞるようにした。


「どうって、見たいから見たいんだ」


(惨めな姿よ。家に縛りつけられて動けなかった)


「わかってる。この町でそういう人を見たから」


 真吾は言った。


 それから、かれは暗い家のなかを改めて見回した。


(こんな暗くて、狭いところで――しかも、身動きひとつできない状態でずっと暮らしてたのか。可哀そうに)


 かれは思った。


 今、かれは自分でも驚くほど、静かな気持ちだった。


 かれはお幸と再会したら、もっと自分が激高すると考えていた。お幸への恨みが一気に噴き出してくるのではないかと恐れていた。


 けれども、お幸の半生を聞いているうちに、そんな気持ちはどこかに失せた。


(お幸はおいらを裏切ってなかった)


 その事実は、真吾に救いをもたらした。


 いや、客観的に見れば、夫ある身で他の男のものになってしまったお幸は不実だったかもしれない。だが、それはお幸の本意ではなかった。真吾にはそれで十分だった。


(可哀そうに)


 かれはもう一度、思った。


 地上界でそんな人生を送ってしまったがゆえに、お幸は地獄にいる。「恨み多き町」で自由を奪われた彼女にできることは、自分を迎えに来なかった真吾を恨むことだけだった。


 それを思うと、お幸のことを思い出すたびに苦しみ、理不尽な苛立ちにかられていた自分が、とてつもなく情の薄い、冷たい人間であった気がする。


(少なくとも、おいらは中間霊界人で、お幸よりずっと自由がある。横田四丁目でも、それなりに楽しく暮らしてた。でもお幸はこんな暗い場所で、ひとりで――)


 この、狭い場所で、古ぼけた柱時計のなかにおさまって、来る日も来る日もじっと暗闇を見つめるしかなかったお幸はどんな気分だったのだろうか。こんな状態では、友人もできなかったはずだ。真吾は毎日、気軽に話しかけることができる友人たちの大切さを身に染みて理解していた。


 どのくらい待った頃だろう。


 お幸がぽつりと漏らした。


(わかったわ。せっかくこんなとこまで来てくれたんだものね。少しだけなら、あたしの本当の姿を――見せてあげるわ)


「あ、有難う」


 真吾は言った。


 変化はすぐはじまった。


 真吾の手のなかにあった時計の輪郭がゆらりと揺れて、煙のようなものがたちのぼりはじめた。同時に真吾の体のなかからも、幾筋もの黒い煙が揺らめきはじめる。真吾の体に入り込んだ、お幸の怨念だった。


 かれは怨念が抜けていったことを感じた。


 すると、かれの体は驚くほど軽くなった。また、霊力がみなぎってくるのを感じた。今まではとり憑かれている状態が普通で、そうでない状態というのは想像できなかったが、実はお幸の怨霊のせいで、真吾の力は随分とそがれていたのだとわかった。


(そうか。だから菊音さんは怨霊をはらえとあれほど言ったのか)


 心の奥で納得する。


 黒い煙がすうっと伸びて、混ざりあい、ひとつになってゆく。


「…………」


 真吾は不思議な表情でその影を見つめた。


 煙がだんだん人の形になってゆく。それから、少しずつ、細部がつくられてゆき、女の形になった。煙の集合体であったそれが密度をだんだん濃くしてゆく。


 そうして、目の前に、裸足の娘があらわれた。


 かれは息をつめた。


「お幸か!」


 間違いなかった。真吾の覚えている、和菓子屋の番頭の娘の姿がそこにあった。娘は気まずそうに真吾を見た。


「……久しぶりね」


 そんな言葉が呟かれる。真吾は食い入るようにお幸を見つめ、気が付いた。


 彼女の姿かたちは、ちょうど彼らが祝言をあげた当時の姿だった。真吾は打たれたようにお幸を見た。


「お前……その姿――本当に?」


 震える声で聞くと、お幸は少し怒ったように横を向いた。


「だから、姿を見せたくなかったのよ。あんたはあの頃のあんたじゃないくせに、あたしは――あの頃のあたしだから」


 霊人はアフターワールドにおいて、自分がリアルで生きたどの年代の姿にもなれる。けれども、それは本人が無意識で選ぶため、自分の意思で決めることはできない。そして無意識の自我が選んだその姿は、本人が生前の人生のなかで最も充実し、幸せだった頃の姿であることが多い。


「おいらは……うぬぼれてもいいのか?」


 真吾はおずおず言った。


 信じられなかった。だが、妻の真実は、その姿が物語っていた。


 お幸にとって、真吾と暮らしたたった数か月間の新婚生活こそが、彼女のリアルの人生のうちで最も幸せな期間だったのだ。お幸は真吾を睨みつけるように見た。


「勝手にうぬぼれでも何でもすればいいじゃない。あんたこそ、何よ、その若い姿! いったい何歳の頃なのよ。あたしと一緒になった頃より、そっちのほうが良かったってこと?」


「い、いや――これは、だな」


 真吾はしどろもどろになった。


 慌てて、自分もお幸と祝言をあげた頃の姿になろうと念じるが、うまくゆかない。かれは十六歳の時の姿のままだった。


「この姿はお店に奉公にあがって――はじめて餡たきを仕込まれた頃で……」


「あたしより、餡のほうがいいって言うの?」


「そうじゃない。そうじゃなくて、お幸、困らせないでくれ」


 かれは途方にくれた。


「お前と結婚した二十三歳の頃だって、おいらは幸せだった。でも、その幸せはあまりに短かった。おいらはお前がおいらを捨てて行ってしまったと思っていたから……思い出すのは、辛すぎたんだよ。本当に。だから――」


「ふうん」


 お幸は真吾を睨みつけていたが、本気で怒っているわけではなかったようだった。彼女は吐息をもらすと、仕方なさそうに肩をすくめた。


「あんたは、霊界に来ても、相変わらずなのね」


「どういう意味……」


「あたしが好きだった頃のあんたから、変わってないということよ」


 お幸はしみじみと呟いた。それからこみあげてくる気持ちをこらえきれなくなったように、顔を押さえた。低い嗚咽がもれる。真吾は慌てた。


「ど、どうしたんだ」


「……ごめんなさい。真吾さん、ごめんなさい」


「お幸」真吾はどうしていいかわからないように立ち尽くしていたが、やがて、ぎこちなく腕をまわして、お幸を抱きしめた。お幸のほそいうなじから、しっとりした懐かしい匂いがする。


「泣かないでくれ。おいらも悪かった。ごめんな、何も知らなくて」


「真吾さん……」


「ほら、もう。泣くな」


「うん」


 彼らはしばらく互いの存在を確かめあうように、抱きしめあっていた。たったそれだけのことだったが、真吾は驚くほど、心が満たされてゆくのを感じていた。


(お幸は裏切ってなかったんだ……)


 かれは思った。





    ◇





 真吾は中間霊界に戻った。


 ラファエルから借り受けた天使の白馬に乗って、地獄の空を突き破り、一気に中間霊界の空を駆けあがる。空は真っ青で、太陽の光が白く輝いていた。その白い光が視界いっぱいにさしこんできて、真吾は一瞬、めまいを感じる。


「まぶしい……」


 だが、イヤな感じはなかった。


 体が信じられないほど軽く、心も晴れやかで、浮き立つ気分がおさえられない。空を駆けあがり、太陽に近づくほど、嬉しかった。太陽の光は暖かく、慈愛に満ちていて、かれはその匂いが甘いことを知った。


(これは――こんなのは、はじめてだ)


 横田四丁目でも太陽を見ることはできた。


 以前、真吾は太陽を「おてんとさん」と呼び、手のひらをあわせて、桃をよく育ててくれるよう朝晩祈っていた。そのおてんとさんと、今、かれが感じている太陽は同じものであるはずなのだが、何かが違っている気がした。


「どういうことだろう」


 かれは小首を傾げた。


 天馬はどんどん上空へ向かっている。空を駆け抜け、白い雲を突き抜け、中間霊界のいくつもの霊界を飛び越え、さらに上へ行く。真吾は天馬にまかせて乗っていたが、さすがにちょっと不安になってきた。


「おい。上がりすぎじゃないのか? ここは全然、横田四丁目の霊界じゃないぞ――」


 馬に向かって、言いかけた時だった。


 上空に、うっすらと、雲をひきのばしたような影が見える。近づいてゆくと、豊な自然で彩られた、浮島のようなものであることがわかった。遠目からでもわかる。そこはたいへん美しい清らかな霊界で、かぐわしい香りのする、霊人たちなら誰でも魅了されるに違いない場所だった。


「あれは……?」


 真吾は恍惚とした表情で呟く。


 その時だった。かれは見えない壁に突き当たった衝撃を感じた。



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