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第4章------(4)



 沈黙が落ちた。


 お幸は返事をしなかった。ショックを受けたように黙り込んでいる。真吾もそれ以上、話すことはしなかった。沈黙が続き、時間が過ぎた。


 そうやって、どのくらい経った頃だろう。真吾がもしかして柱時計の中から、お幸はもういなくなってしまったのではないかと心配しかけた時、お幸の意識が言った。


(……それ、本当なの?)


 かすかな声だったが、真吾は聞き逃さなかった。かれは頷いた。


「ああ。そうだ」


(意気地なしね)


 お幸は嘆息したようだった。


(わざわざ東京まで来て、声もかけないで帰ったってわけ。信じられない。遠くから姿を見ただけって――それで、あたしが幸せだったかどうかわかったってわけね。すごいわ、真吾さん)


 言葉に皮肉がこめられているのが、真吾に伝わった。真吾はお幸の真意がわからず、おろおろした。


「そ、それは、どういう意味だ」


(どう……って)


 彼女の意識はまたため息をついたようだった。それから、彼女は叩きつけるように言った。


(あたしは東京で幸せなんかじゃなかったわよ!)


 真吾は「え」と凍りつく。途端だった。真吾の腰が猛烈に痛みだした。かれは腰を押さえて、床に転がった。


「イタタ――痛ぅ……」


(せっかく東京まで会いに来たくせに、どうしてそうなるの! あたしはあそこでちっとも幸せなんかじゃなかった。いつもあんたが迎えに来てくれるのを待っていた。なのに、あんたは――あんたは……っ)


 お幸は激しく言った。


 すさまじい恨みが怨念となって真吾に襲いかかる。この時になって、はじめて真吾は自分に憑いている怨霊がまさしくお幸であったことを本当の意味で理解した。お幸の思念と真吾にとりついている怨霊が共鳴しあうように激しく揺れている。お幸の怨念が手足を縛りつけ、自由を奪い、浸食してくる。


「お幸――どういう……意味、だ。わかるように――」


 かれは喘いだ。


「う……わ」


 真吾の言葉をかきけすように、烈風が襲いかかる。真吾は窒息しそうな息苦しさを感じた。口のなかいっぱいに綿か何かをつめこまれたような圧迫感がする。お幸は笑った。


(苦しい? 苦しいわよね。可哀そうに。でも、やめてあげないわ。あたしが苦しんだぶん、あんたも苦しめばいい。あたしはずうっと待ってたのに、あんたは最後まで来なかった。死んでこんなに経ってから、やっとあたしのもとを訪れた、薄情な夫……)


「うわぁ、痛い。やめ、やめてくれ、お幸」


 真吾はのたうちまわった。


 その痛みは、中間霊界で腰痛に悩まされている時の比ではなかった。ここが地獄であるからなのだろうか。お幸の怒りや恨みがよりダイレクトに、強烈に伝わってくる。


(な――なんで)


 かれは思った。


 お幸が真吾を恨んでいることは事実としてわかった。けれども、かれはなぜ自分が元妻にこれほどまで恨まれているのか理解できなかった。かれのほうこそお幸に傷つけられたのではなかったか、という思いがある。


 そんな真吾の思いを見透かしたように、お幸はヒステリックに叫んだ。


(あんたがっ――そんなだから、あたしが苦労したんじゃないのっ! そりゃあ、黙って東京に行ってしまったことは悪かったわ。でもあの大震災よ! 東京が壊滅したかもしれないって新聞に出てて、東京に住んでたあの人がどうなってしまったか心配するのは仕方ないじゃない。幼馴染だったのよ。家族同然の、実の兄妹のようだったのよ!)


 開き直ったように言う。


 だが、真吾はお幸にそんな幼馴染がいたことすら知らなかった。また、兄妹のようだったというなら、なぜ、同棲などはじめたのか。問いただしたいことはたくさんあった。だが、それらを言葉にする余裕はなかった。


「い、痛い――」


 腰に疼痛が走る。やがて、痛みは全身に広がり、心臓を手でわしづかみにされるような激痛が起こった。


「お幸、頼む。いい加減に……」


(やめないわよ。あたしは今のこの瞬間を夢見ながら、ずっとこの地獄で生きてきたんだから! あたしの話を聞きなさいよ。あたしは別に自分からあの人のところで暮らすようになったわけじゃないのよ。あの人の無事を確かめたら、札幌に帰るつもりだった。でも、帰る日の朝、あの人が松葉づえをつきながら宿まで訪ねて来て、あたしを襲ったのよ。そして、一緒に東京で暮らすように強要されたの)


「――え……」


 かれは目を見開く。


 寝耳に水だった。


 真吾の驚きはお幸にも伝わったようだった。お幸は震える声で続けた。


(あたしはびっくりした。信じられなかった。でもあの人は――普段はとてもやさしいんだけど、時々、ものすごい癇癪をおこすの。あの時は何度も殴られた。体に乱暴されて、顔が腫れあがるくらい殴られて――この姿で夫のもとに帰るのか、とあざ笑われて……あの時代の女が帰れると思う? 真吾さん)


「それ……は」


(あの人は言ったわ。俺は地震で何もかも失った。家も財産も、家族も。自分ひとりだけが生き残ってしまった。しかも一生、体が不自由になった。だから、お前だけは返さない、と――。そして、その通りにした……)


 真吾は後頭部を叩きつけられた気がした。


 信じられない話ではあったが、お幸の波動には真実の響きがあった。


 かれは息をのみ、お幸の意識がやどる柱時計の表面をさすった。するとお幸の思念が流れ込んできた。


 来る日も来る日も、お幸は男の暴力に怯えながら、真吾が迎えに来てくれることを待っていた。


 札幌に帰りたかったが、周囲の目を考えると、自分から戻る勇気も持てなかった。それでも、やっとの思いで父親に手紙を出した。だが、父親は夫ある身で他の男のものになってしまった娘を許さず、その返答は冷たいものだった。


(あんたが……東京であたしを見たのは、いつの頃の話なの? あたしが、あの男と幸せそうに暮らしてたって?)


「遠目からは――そう見えたんだ」


 真吾はのろのろ言う。だが、よくよく思い出してみれば、真吾はあの時、お幸の様子をちゃんと見ていなかったかもしれない。お幸と男が連れ立って歩いているのを見て、勝手に幸せそうだと思い込んでしまったのかもしれない。


 お幸は激しく言った。


(声くらいかけてくれたっていいじゃないの!)


「すまない」


 かれは言った。


「……本当に、すまない」


 心から、かれは言った。





 時間が過ぎた。


 真吾は古い柱時計を見つめていた。


「なあ」


 長い沈黙の後、かれは話しかけた。


「お前はおいらを恨みながら自殺したんだって? その時のことを聞かせてくれ」


(……いいわよ)


 少しして、お幸は答えた。


(そんなふうだったから、東京での暮らしは散々だった。あの人の暴力は日がたつにつれて増えていってね……今、思うと自信がなかったからなんだろうけど、定職にもつかないで、酒におぼれて、震災で不自由になってしまった体を恨んでばかりいたわ)


「……」


(それでもね、ある日、あの人にいつも殴られていたあたしを見かねて、助けてくれる青年が現れたのよ。とても親切な人だった。でも、あの人はその青年とあたしとのことを浮気だと思い込んで、事故をよそおって、青年を殺してしまったの)


「え――」


 真吾は息をのむ。お幸は続けた。


(あたしは泣いた。泣いて、泣いて、泣きあかした。やっと現れた助け手だったのに……もう、二度とあたしを助けてくれる人なんて現れない。あたしは故郷から遠くはなれた東京でこの男に飼い殺しにされてゆくんだと確信した)


 札幌にいた頃のお幸からは想像もできない、凄絶な人生だった。


 真吾は信じられない面持ちで時計を見つめた。


(その時、あたしのなかの何かが吹っ切れたのよ。あたしはわかった。もう、誰も助けてくれない。真吾さんはけして迎えにこない。だから、あたしはあの人を自分で殺さなくちゃならないんだって……)


 お幸は口を閉ざした。


 時計はただの時計に戻ってしまったように、真吾の手のなかにおさまっている。真吾は両目をかたく閉ざした。


 かれが、自分を捨てたお幸のことを、辛さのあまり必死に忘れようとなっている頃、お幸はそんな状態に置かれていたのだ。


(……お幸。お前は)


 お幸はその続きの言葉を言わなかったが、波動となってつたわってきていた。


 彼女は幼馴染の男を殺したのだ。


 そして、自分も自殺した。


 細かい経緯はわからなかったが、その愁嘆場がすさまじいものであったことだけは理解できた。


 その、死の間際でお幸が思ったのは、札幌での、真吾との新婚生活だった。


 あの頃に戻りたい。なぜ、夫は自分を迎えにきてくれなかったのだろう。やさしすぎる夫だった。きっとそのやさしさのせいで、迎えにこなかったのだろう。


「お幸」


 かれは顔をあげた。


「お前の恨みはよくわかった。頼みがある。おいらに憑いてるお前の怨霊をとりはらい、この霊界での、本当のお前の姿を見せてくれないか。動けなくてもいい。おいらはお前にちゃんと会いたいんだ」


 かれは言った。



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