第4章------(3)
視線を感じて、真吾は振り向いた。
古い振り子時計が柱にかかっているだけだった。
だが、その時計は妙に真吾の記憶にひっかかるものがあった。真吾にとって馴染み深い、懐かしい思いを呼び起こす。しばらく考えて、かれは思い出した。
「そうだ――これはまだリアルで生きていた頃の」
真吾とお幸が所帯をもった時、その祝い品として贈られた掛け時計だった。かれは懐かしそうに、つやのある木目調の時計を眺めた。
この時計とともに、真吾はリアルの人生を生きた。真吾の幸せだった時も不幸だった時もこの時計が針を刻んでいた。途中で何度か壊れたが、そのたびに真吾は修理にだして使い続けた。
今、この時計は時を刻んでいない。
埃をかぶった、薄汚れた姿で壁にかけられている。
真吾はしばし過去の思い出にひたった後、あたりをもう一度、よく見ようとした。確か、かれを見つめる視線がこのあたりからあったことを思い出したのである。なぜ、自分を捨てたお幸の家にこの時計があるのだろう、と不思議に思いながら。
そうして、ぎくりとした。
視線のあるじは時計だった。
時計は、生きていた。
外形上はただの柱時計だ。だが、感覚を研ぎ澄ますと、信じられないことだったが、微弱な霊人の波動が感じられる。そしてその波動は真吾にとって忘れようもない――お幸のものだった。
「お幸なのか?」
真吾は仰天した。
「ま、ままさか、お前、なんで、こんな姿に……!」
叫ぶように言うと、真吾はおっかなびっくり柱時計を壁からとりはずした。
地獄で暮らす妻との再会にあたり、真吾なりに覚悟していることはあった。
地獄は霊人の心をすさませる。
だから、お幸が生前の愛らしさを失ってしまっているかもしれないとは考えていた。変わり果てた姿で、呪いの言葉を吐いてくるかもしれないとも考えていた。けれども、まさか人間以外の姿になっているとは、さすがに予想してなかった。
「お幸……? お幸なんだよな? 答えてくれよ」
真吾は必死に語りかける。時計は無言である。真吾は凍りついたように時計を眺めながら、慎重に気配をさぐる。
(やっぱり時計からお幸の波動が――する。信じられないけど、これはお幸なんだ。……まさか、もしかして、時計だから話せないとか?)
真吾は混乱して思った。
その時だった。
(……そう。あたしよ)
微かな波動が揺らめいて、真吾の脳に語りかけてくる遠い声があった。真吾はハッと身を固くする。
「お幸、お幸なんだな!」
真吾は時計を両手でつかみ、叫ぶように言った。少しして、また声が聞こえてきた。
(そんなに大きな声で怒鳴らないでよ。聞こえてる……わよ)
時計は文句を言った。
真吾は呆然となった。
間違いなく、この時計はお幸だった。思念のなかに、お幸のかわいらしい声の名残が感じられる。少し甘えたような、鈴を鳴らすような声。
真吾は唾を飲み込んだ。
「ど――どうして。聞いてもいいか、なんで、お前はそんな姿になってんだ?」
真吾とお幸が所帯をもったのは、真吾が二十三歳の頃だった。その翌年には関東大震災が起こり、お幸が真吾のもとから消えた。
だから、二人が離れ離れになってから、九十年近い年月が過ぎている。その久方ぶりの夫婦の再会の挨拶の言葉より、真吾の口から真っ先に出たのはそんな言葉だった。
時計は――お幸は、不満そうに真吾を睨みつけたようだった。
(……たまたま、目についたのがこの時計だったってだけよ)
「ど、どういう意味だ」
真吾はきょとんとする。
(だから、あんたにとり憑いてやったから、あたしの霊人の力がとても減ってしまって、あたしはこの町で本来の姿をたもつことができなくなっちゃったのよ。それでそのへんにあったものの形を借りることにしたの)
時計は当然のように言った。真吾は「え」と聞き返す。すると、時計はため息をつくような間を置いた後、言った。
(あんたはあたしが時計になったって騒いでるけど、人型だろうと、時計だろうと、たいした違いはないのよ。だって、もともとこの町に来た時から、あたしはこの家に縛りつけられて動くことがほとんどできなかった。たいした違いはないってわけ)
「…………」
真吾は何とも言いようのない顔をした。
お幸の話は真吾の常識では考えられないものだった。だが、おそらく事実なのだろう、と思う。
なぜなら、リアルで自殺して、死後、地獄で暮らすくらいなのだから、もともとお幸は霊人としてたいした力を持っていなかったはずだ。そのお幸が怨霊となって真吾に憑いた。
そのことは、中間霊界人の真吾には腰痛をもたらす程度の出来事だったが、お幸にしてみれば、身を削るような大仕事であったに違いない。それこそ、お幸自身の姿でいることさえ出来ないほどに。
真吾は気が抜けたように、へなへな床に座り込んだ。
「どうして……? そこまでしておいらに憑くことなんて、なかったんじゃないのか? そんなことのために人の姿を捨てるなんて――意味わからないぞ。こら、お幸。いったい何を考えてるんだ。お前は――昔から、本当に突拍子もないことをするから……」
かれは時計の埃を手ではらってやった。
「お前、おいらに恨みがあるんだよな?」
時計は答えない。だが、その心がざわついているのが真吾には感じとれた。かれは、ためらった後、思い切ったように言った。
「なあ。お前が――おいらにとり憑いたのは、おいらに恨みがあるからだと聞いた。なんでおいらを恨んでるんだ? おいらを捨てたのはお前のほうだったくせに。話してみろ、お幸。話を聞いてやるから。おいらはそのためにこの地獄の町に来たんだ」
時計は無言だった。
だが、お幸が真吾の言葉を聞いていることはわかっていたので、真吾はかまわず言った。
「おいらに言いたいことがあるんだろう?」
(…………)
「話せ。お幸。それともこのまま話を聞かずに戻ってもいいのか」
長い沈黙の後、お幸がぽつりと言った。
(……意地悪ね。真吾さん)
「意地悪って、お前――」
真吾は途方にくれた。それから、唐突に思い出した。
生前も、何度か、こんな会話をかわしたことを。
真吾とお幸はおおむね仲の良い夫婦だったが、たまに、お幸がへそを曲げることがあった。理由は、お幸に言わせると、真吾が女心を全く理解していないからだという。
お幸が言った。
(……腰は痛い?)
「え? あ、まあ。時々な」
真吾は答えた。その時だった。お幸の気配が一変した。
(ふん。時々か――こっちはこんな姿になってまであんたを呪ってやろうってしてるのに。あたしが地獄であんたは上の階層。おかしいんじゃないの、この世界はっ!)
お幸の思念に毒気がはらんだ。
「う……わ――」
真吾は呻いた。
お幸の恨みと悪意が堰を切ったように流れ込んでくる。その不快さに、息がつまる。だが、心の底では妻の変貌に対して、あまり驚いていない自分を感じていた。
やはり――というより、むしろ、当然のこととして受け止めていた。お幸が真吾を恨む理由こそわからないが、やはりお幸は地獄の霊人なのである。
真吾は冷静に妻の様子を眺めながら、落ち着いた口調で聞いた。
「なんで、お前はおいらを呪いたいんだ?」
(怖がらないのね。あたしの精一杯の悪意の波動をあびせたのに。つまらない)
「お前ね……」
ちょっとすねたような口調で時計が言うのを聞いて、真吾は呆れた。時計は訴えた。
(だってそうでしょ! 不公平だって言ってんのよ。あんたはあたしの亭主のくせに、あたしを迎えにも来なかったっ――わざわざ人に頼んで、あんたにあたしの居場所を教えてあげたにもかかわらず。なんて意気地なしなのっ)
「え――」
今度こそ、真吾は耳を疑った。
「今、なんて言った。お幸」
お幸は真吾を本心から驚かせたことを知って、気をよくしたように続けた。
(何よ、知らなかったの? あたしが親に頼んで、あんたに神田の家の住所を教えてやったのよ。真吾さんに住所を教えてやってくれとお願いする手紙をお父上に出したの。そうしたら、お父上はあたしのことは勘当すると言ったわ。あたしの頼みも絶対きかないって答えてきた。今さら、真吾さんにあたしのことを伝えてどうなると怒っていた。でも、本当はちゃんと伝えてくれていたんでしょう?)
「……」
真吾は押し黙った。
生前も、死後も――この瞬間まで、かつて父娘のあいだでそんなやりとりがあったことなど全く知らなかった。
お幸の父親である和菓子屋の番頭は、娘が失踪してしまったことについて、いつも真吾に詫びていた。お幸の東京での居場所についても、真吾は番頭から聞いたわけではない。仲間のひとりが、「これは噂なんだが……」と前置きして、教えてくれたものだった。
「お幸。お前は」
真吾は足元から何かが崩れてゆくのを感じながら、力なく呟いた。
「確かに、おいらは一度だけ、東京に行ったよ」
(あら)
お幸の声がはずむ。
「でも、遠くからお前の姿を見ただけで、声はかけなかった。お前はもう別の男と暮らしていたから――おいらはその幸せを壊したくなかったんだ……それがあの時のおいらにできる精一杯だった」
真吾は呻くように言った。




