第4章------(10)
真吾は天使の白馬の手綱をひきながら、暗い道を歩いていた。
あたりの景色が荒れ果て、何もないのは、そこが地獄であるからだった。かれは中間霊界から天馬を駆って、この地へ降りてきていた。真吾は大地を踏みしめるように歩きながら、この光景を眺めるのは何度目だろうか、と考えていた。
(地獄――)
かつて暮らしていた横田四丁目は、地獄のすぐ上にあった。日頃から地獄の怨嗟の声が聞こえてくるほど地獄に近かったが、最終的に地獄からの来襲にあい、地獄に吸収されていった。
その時の混乱と恐慌を真吾はまざまざと記憶している。当時の真吾にとって、地獄はただひたすら恐ろしい場所だった。
あの時、地獄へ堕ちていった仲間の多くは、いまだに地獄にいる。
真吾が作った新しい横田四丁目に戻ってこれたのは、ごく僅かである。だから真吾は地獄にいる仲間たち全員が中間霊界に戻ってこれるよう、毎日、祈っている。祈ることで何かが変わるとは思えなかったが、真吾は彼らのために祈らずにはいられなかった。
(いつかまた、あの頃の本当の横田四丁目を復活させたい)
今、新しい四丁目は活気に満ちている。
古い仲間たちと新しい仲間たちが力をあわせて、良い町を作っている。また、町は中間霊界中間層に位置していたので、以前の四丁目よりずっと安定していて、地盤が健やかだ。
(あいつら全員に今の四丁目を見せてやりたい)
きっと驚き、喜ぶだろう。
しかし同時に、彼らの多くは新しい四丁目で暮らすだけの霊人ポイントが自分にないことを知って、落胆するだろう。いくら気持ちではそこに住むことを望んでも、その清々しい明るい空気そのものが彼らの霊人に合わないのだ。そのことも、真吾はよくわかっていた。
(佐吉もそうだった)
真吾は過去を思い出すようにした。
百年前、佐吉は霊人ポイントが足りず、新しい四丁目に馴染めなかった。
けれども、真吾と一緒に天使の僕の仕事を手伝ったり、真吾が地獄へ堕ちそうになった時、なけなしの自分のポイントを分け与えてくれたことがあった。結果として、それが善の条件として認められ、佐吉のレベルが上がった。
それで佐吉は今も横田四丁目で暮らし続けることが出来ている。
おそらく、そのことがなかったら、佐吉は四丁目から離れて、他のもっと下の、自分が住みやすいと思う霊界に行ってしまっていただろうから。
(地獄に行った他の連中も、何とか、佐吉みたいに善行を積んで、戻ってきてくれたらいいんだけど――)
たやすいことでないのは、わかっている。
ごく普通に、日常の暮らしをいとなんでいるだけでは、まず不可能なことだった。その不可能を可能にするためには、奇跡を起こさなければならない。
「奇跡か」
声にだして呟いて、かれはため息をついた。
目前には、暗い道がどこまでも続いていた。このあたりにはいくつかの小さな町があるはずだったが、家々の灯りは全く見えない。まるで地獄そのものが、真吾の夢想をあざ笑うように、僅かな灯りさえ見えなくしてしまっているかのようだった。
すると、天馬がブルっと鼻を鳴らした。真吾を励ますように、長い首を押しつけてくる。真吾は微笑んだ。
「ありがとう、タロウ。おいらを元気づけてくれるんだな?」
かれは馬の首をやさしく叩いてやった。
「そうだな。奇跡は絶対に起こせないわけじゃない……おいらだって、奇跡のようなことが立て続けに起こって、今、ここにいるんだからな。地獄に落ちそうになって皆に助けられたこと、それから天使の白馬が与えられたこと――いつでも、好きな時にお前と一緒に地獄に降りてこられるようになったのだって、奇跡だ」
そうなのだった。
去年、真吾は突然、天使たちの住まうパラダイスに呼び出された。
パラダイスの宮殿ではこのアフターワールドを管理する四大天使たち全員が真吾を待ち受けていた。ミカエル、ガブリエル、ウリエル、そしてラファエル――錚々たる顔ぶれに真吾は面食らった。
大天使たちにいくつか質問をされて、かれは答えた。
それだけのことだったが、その直後、真吾に天使の白馬が与えられた。仰天する真吾に大天使ラファエルは、
「なに。気軽に受け取っておけ。お前は何かと地獄へ行く用事が多いだろう? そのたびに私の力をあてにされては迷惑だから、いっそ、お前専用の天馬を与えておけばよいだろう、という話になった。それだけだ」と言った。
「ラファエル。地獄へ行くなら、バリアーも必要だろう? 生身のままで長時間、あの地をうろつきまわったら毒にやられるぞ」
大天使ミカエルがクスクス笑いながら言う。ラファエルは「そうだな」と認め、少し考えるようにした。
「仕方ない。お前にも天使の羽を与えよう。これを身に着けていれば、バリアーの代わりになる。ただし、お前に羽を与えたことは、菊音には絶対に言うなよ?」
美しい顔で念を押す。真吾は菊音がラファエルの羽を宝物のように大切にしていることを思い出し、こくこく頷いた。
「今後のことは追って沙汰する。それまでは与えられた仕事を通常どおり行え」
「え――あ、はい。でも……それは、どういう意味?」
真吾は混乱したが、気が付けば、天馬とともに中間霊界に戻されていた。かれは仕方なく四丁目の我が家の隣に厩を建てた。そして馬に「タロウ」という名前をつけて、可愛がるようになった。
ちなみに、はじめ白馬にちなんで「シロ」と名付けようとしたが、その名前は菊音に「センスがありません。うちの藤の昔の飼い主だったバカ姫レベルですわ」と言われて、とりやめたのだった。
ともあれ、それが去年のことだった。
今では真吾は与えられた天使の白馬――タロウとすっかり仲良くなっている。タロウは人の言葉は喋らないが、頭が良く、真吾の話しかける言葉のほとんどを理解しているようだった。また、真吾のほうもタロウからの波動を感じて、タロウの思っていることをだいたい知ることができる。
不意にタロウが足を止めた。遠くを眺めるようにして、首を少し振る。真吾に自分の背中に乗れと言っているのだ。真吾は慌てて、タロウの背中に乗った。
遠くから、獣に乗った一団が近づいてきたのは、それからまもなくだった。
「真吾さんっ! 来てたんなら、教えてくださいよ。水臭いじゃないですか」
茶色っぽい甲冑を着た一団のなかから、ひとりが飛び出してきて言った。その顔を見て、真吾は相好を崩した。
「なんだ。恵吾か。ちゃんと真面目に仕事をしてるようだな」
真吾の笑顔を見て、若者はにかっと笑った。黒髪を金髪に染めた、十八、十九くらいの若者で、耳にピアスをしている。その姿と地獄の役人の甲冑が全く似合っていないのだが、本人は気にしていないようだ。
「俺んとこに桃を送ってくれたでしょ? だから、もしかしたらこっちに来る頃かなと思って、見回り当番を代わってもらったんすよ。いつもご馳走様っす」
「いいよ。気にするな。ついでだ」
真吾は若者を――自分の子孫の若者を感慨深げに眺めた。
かれが、大天使ラファエルに命じられて地上界へ降りたのが、つい昨日のことのように感じられる。その時、かれは横田四丁目を救うため、子孫の善行を集めなければならなかった。しかし、当の子孫――つまり、目の前の恵吾は善行とは程遠い暮らしをしていた。
札幌のすすきのの風俗店のスカウトをしていた桜田恵吾は、その後、自身の人生を終えて、霊界に来た。そこで、自分の先祖である真吾と対面した。
「お前、生前は悪霊にそそのかされて、好き勝手に生きてきただろう?」
地獄の門番をしていた真吾が書類に目を通して言うと、恵吾はびっくりした顔をした。
「大勢の女の子たちを泣かせて、騙して、生きてきたな」
「な、なんでそれを……」
「おいらはお前がすすきので仕事してるところを見ていたよ。お前の人生は滅茶苦茶だった。でも、最後にひとつだけ善いことをしたな」
「……」
「晩年に同棲してた女の子。彼女をちゃんと最期まで看取ったのは立派だった。親や親せき連中に遺骨の引き取りを拒絶されて、お前が責任をもって供養してやったのも善かった。彼女はとてもお前に感謝していた。お前はいい加減だったかもしれないけど、とても優しかったとな」
真吾は書類にポンとハンコを押した。
「残念だが、お前は地獄行きだ。でも、最後の善行があるので、それほど悪い霊界には行かないだろう。これも縁だ。時々、おいらも顔を出してやるから、しっかり励めよ」
「え――どういうこと? 縁って」
「おいらはお前の先祖なんだ。おいらの名前は桜田真吾。お前とは直接、血のつながりはないけどな」
そんな会話があって、その後、真吾は時々、恵吾のもとを訪れた。はじめのうち、真吾がなぜ自分のところへ来るのか理解できなかった恵吾も、霊界のことを知り、真吾が恵吾を助けるために来てくれているのだと理解すると、少しずつ、真吾に心を許しはじめた。そして、今ではすっかり真吾を信頼している。
「真吾さん。おれ、立派な役人になるからね。昔と違って、この仕事、とても楽しいんだ」
恵吾が言うと、真吾は満足そうに頷いた。
「そうしてくれ。お前ならきっとそのうち中間霊界にあがれるようになる。頑張れよ」
「ねえ、これからあの人のところに行くんでしょ? おれたちには霊力で桃を発送して、あの人のとこには直接、自分で渡しに行くんですよね?」
恵吾が意味ありげな目線をくれる。途端に真吾はうろたえた。
「なに言ってるんだ――おいらはちょっと地獄を巡回しようと思っただけで……」
「またまた。隠すことないじゃないですか。つか、皆、知ってますよ。この時期、上のお偉い人が単身、天馬でおりてきて、こそこそ地獄のとある町まで通ってるってのは。本人はこっそり来てるつもりらしいけど、光の波動でおれたちにはすぐわかってしまう。いい加減、正規の手続き踏んで、地獄に来てくださいよ」
恵吾が言うと、後ろに控えていた役人たちが「その通りだ」と言うように、一斉に頷く。彼らは乗っていた獣から降り、天使の僕である真吾を敬うように平伏していたが、その目には親しみをこめた光があった。
「……恵吾」
真吾は渋面になった。
「おいらはお偉い人でもなんでもないが、頼む、見逃してくれ。おいらはこう見えても忙しいんだ。正規の手続きで地獄に来ようとしたら、何か月も待たなくちゃいけなくなる。それにお幸は待たされるのが何より嫌いなんだ。だからな、見逃してくれ」
かれは両手をあわせて、自分の子孫に頭をさげた。




