第4章------(1)
お幸の居場所がわかった。
真吾は地獄のその町の名を聞いて、眉をひそめた。
恨み多き町。
調べてみると、その霊界には自殺した霊人が多く住んでいるという。そうした霊人があつまる霊界は他にもいくつもあったが、この〈恨み多き町〉はそのなかでも暗い霊界であるらしかった。
(あのお幸がなあ。信じられないけど、まあ、確かにそうなんだろうな)
かれは思った。
真吾の知っている生前のお幸の姿からは想像もできないが、結果として、お幸は自殺した。そしてその後は、怨霊となって真吾に憑いていると言う。だとしたら、お幸がその町にいたとしても不思議ではない。
真吾は「よっこらしょ」と腰をおさえながら立ち上がり、調べた内容を大天使に報告するために歩きだした。
天使に面会を求めると、少し待たされた。
それで真吾はひとりで回廊に佇んでいた。そこは中間霊界に作られた天使たちの宮殿のひとつで、白大理石と金を基調にした上品な空間となっている。
真吾はいつもこの宮殿にくると、その美しさにため息をつく。
回廊から見下ろす中庭には、よく手入れされた植物と深い青色をした池がある。それらが太陽の光を受けて、まるでそれそのものに生命があるように輝いていた。
(中間霊界にこんな場所があるなんて信じられない。でも、本当はもっときれいで美しい場所がこのアフターワールドにはあるんだ……高級霊界やパラダイス――そして天国……)
真吾は中間霊界より上の霊界へ行ったことはない。
天使たちが住まうパラダイスは、中間霊界のどんな美しい霊界より、何倍も美しいと言われている。真吾はそんな場所が実在していることすら想像できない。
けれども、このアフターワールドに地獄が存在しているように、パラダイスや高級霊界もまた確かに実在しているのだろう。
(この世界は本当に不思議だ……)
かれはぼんやり考えた。
地獄のような恐ろしい世界がある一方で、パラダイスのような場所もある。創造主はなぜ霊界をそんなふうに切り分けたのだろう、と思う。
(リアルではどんな悪い人間も善い人間も同じところで暮らしていたのに、どうして霊人になったらこんなに細かく住む世界をわけられてしまうんだ? 霊界でも皆、同じ場所で生きてゆければいいのに。そうすれば――地獄にいる霊人たちとも、おいらたちはいつでも好きな時に会えるのに)
もし霊界がひとつしかなければ、はるかは簡単に母親に会えただろうし、真吾自身もお幸に会うことができただろう。
(なんだか、不公平だな)
かれは思った。
その時だった。衣擦れの音がして、振り向くと、大天使ラファエルが立っていた。天使は今しがたの真吾の心の声を聞いていたように、呆れたように言った。
「不公平も何も、光の君のはじめのご予定では霊界はひとつだった。それを今のようにせざるを得なくなったのは、そもそも人間たちのせいだろう」
「人間のせい?」
真吾が驚いて聞き返すと、大天使は肩をすくめた。
「そうか。お前にはそうした教養が抜け落ちているのか。菊音に言って、そのうちどこかの勉強会にでも参加させないとダメだな」
独り言のように言うと、天使は改めて真吾を見た。
「ところで。ようやく、見つけたようだな」
「は、はい!」
真吾は姿勢をただした。
かれにとっての当面の重大ごとは霊界の成り立ちより、お幸のことだった。かれは、たった今、頭に浮かんだ疑問などすっかり忘れて言った。
「お幸の居場所がわかりました。地獄の、恨み多き町というところにいます」
「なるほど。それで?」
「早速、その町へ行きたいと思います。それで、おいらしばらく仕事を休むことになるということと、それから、そのう……」
真吾は上目遣いに天使を見る。
自力で行ったら、瞬間移動を使ったとしてもどれだけかかるかわからない距離を、天使の白馬に乗ってゆけば、ほとんど一瞬で到着できる。また、大天使がついていれば、地獄の役人たちとの面倒なやりとりも省略できる。
ラファエルには、前回、地獄へ行った時、「今回だけだぞ」と念を押されたものの、その便利さを知ってしまうと、やはり地獄への送り迎えを頼みたくなってしまう真吾だった。
すると、天使は真吾の考えを読んだように、美しい顔をイヤそうにゆがめた。
「非常に不愉快だ」
「そこをなんとか」
「私を何だと思っている。お前が地獄に行くのは勝手だが、そのたびに私の力をあてにされては迷惑だ。私にはお前の送り迎えをする暇などない。今度こそ、地獄の門をくぐって、自力で行け」
天使は冷たく言った。真吾はくいさがった。
「でも、おわかりだと思うんですが、おいらひとりで地獄へ行ったら、面倒なことになります。しかも今度は完全においらの私用だから――きっと後々、ラファエル様にも迷惑をかけることになると思います。だから」
かれは唇をなめた。
「だいたい、おいらが怨霊つきだってはじめに教えてくれたのは、ラファエル様ですよ? だったら最後まで責任もってください。お幸と話して、納得させて、怨霊をはらうことができれば、おいらはこの先、もっとラファエル様のために働けるはずです」
かなり強引な言いようだったが、真吾は言い切った。
「…………」
天使は渋面になった。
真吾は期待を込めて、大天使を見つめる。
ラファエルは冷淡そうに見えるが、頼めば、意外と聞き届けてくれる。この天使は案外、お人よしであることを、真吾はもう見抜いていた。
(あともうちょっと……? なにかラファエル様を動かせるような言葉は――?)
だが、真吾のそうしたあまり褒められたものでない動機を見透かしたのだろう――ラファエルは急に冷めたような顔つきになった。
「イヤだ。そういうことなら、なおさら断る。とにかく、私はお前などとは比べものにならないほど忙しい。こうして話してる時間も惜しいほどだ。アフターワールドの霊人たちはいつも面倒ごとを作り出すからな。そのうえ、堕天使との戦争もある」
「それはそうかも知れないですけど……」
「ならば、お前が私の代わりに悪魔の竜どもと戦うか?」
天使が怖い目で真吾を見る。真吾はとんでもないと言うように、両手を振った。
「まさか――そんなこと、できるはずありません」
「フン」天使は面白くなさそうに真吾を睨みつけたが、不意に、何か思いついたように、にやりとした。
「わかった。それなら、特別のはからいで天使の馬だけ貸してやろう。それで文句はないだろう? お前が英傑として天馬を与えられるかもしれないのは、もっとずっと後――それは永遠ほどの時の後だろうが、試しにひとりで乗ってみるといい」
「え、英傑?」
真吾は仰天した。
「そう。お前は英傑候補だ」
ラファエルは重々しく頷いた。
「今は天使の僕として働いているがな。そいう霊人は何人もいる。恐ろしいことに、あの菊音もそのひとりだ。お前が英傑になれば、我らは喜んでお前に仕えてやろう。だが、今はそうではない。だから、私の命令に従え。わかったな、桜田真吾」
大天使は言った。
そんな会話があって、真吾に天使の白馬が借り与えられた。けれども、
「うわぁぁぁぁっ」
真吾は馬の首にしがみつき、悲鳴をあげた。とても馬を操るどころの騒ぎではなかった。馬が宙に舞いあがった途端、真吾は恐怖のあまり全身を硬直させる。
「大丈夫だ。天使の馬は賢いから、お前が何も言わなくとも、勝手に目的地へ連れて行ってくれる。それにその天馬とともにあれば、お前が天使の遣いであることも地獄の者たちにわかるだろう。では、行くがいい。ついでにバリアーもかけておいてやる。有難く思え」
ラファエルは意地の悪いほほ笑みを浮かべながら、言った。勿論、真吾はその言葉を聞くことはできなかった。目の前の恐怖で手一杯だったのだから。
◇
真吾は疲れ果てていた。
いったいどれくらい悲鳴をあげ続けただろう。悲鳴をあげすぎて、声が枯れてしまっている。体中の筋肉がこわばり、毛穴から脂汗がふきだし、奥歯がかみ合わなくてカチカチ鳴っている。
「……――お――」
ようやく、それだけ言葉を発することができた。
天使の白馬は黒い大地へ降りたっている。翼をたたみ、すました顔でブルルと鳴いた。
「お前……」
かすれた声で呟くと、真吾は馬の太い首に抱きつくように倒れた。途中、泣いたり、わめいたり、大騒ぎをしていた真吾だったが、手綱だけは離さなかった。それでどんなに恐ろしい急降下にも耐えることができ、どうにか地獄へたどり着くことができた。
「なんて無茶な降りかたをするんだ。ラファエル様の天馬はもっと滑らかに降りてきたぞ」
文句を言うと、その言葉の意味を理解したように、馬は乱暴に首を振る。真吾は「うひゃ」と叫んだ。
「嘘だ。すまない。おいらが悪かった。ここまで連れてきてくれて有難う!」
と言いなおすと、馬は脅すように一鳴きして、おとなしくなった。馬が真吾をバカにしているのは、明らかだった。そのことを感じながら、真吾は馬首をめぐらせた。
「じ、じゃあ……お願いします。おいらを恨み多き町まで連れていって下さい」
「ブルンッ」
天馬は鼻を鳴らして、頷くような仕草をした。




