第3章------(13)
真吾は大天使の作った光の輪につつまれながら、地獄の道を歩いていた。その懐には、はるかの母親が真吾にたくした手紙がしまいこまれている。
だが、手紙は白紙だった。
母親は真吾にうながされて、渋々、娘への思いを文字にしようとしたのだが、出来なかったのだ。しばらくの間、真っ白い紙を見つめていた母親は、青ざめた顔を真吾に向けた。
「やっぱり……書けない」
「でも、はるかはあんたの気持ちを知りたがってる」
「気持ちなんて――あの子自身が知ってるでしょ。あたしにとって、あの子は邪魔だった。あの子がいたから父親と離婚できなかった。あの男は最低だった」
「それは、はるかには関係ないだろう」
真吾が諭すように言う。母親は沈黙し、ペンをとろうとしたが、ペンの先が紙につく前にペンを置いてしまった。
「書けない」
はっきりと、低い声で言う。真吾は頷いた。
「わかった。じゃあ、書かなくていい。だけど、その手紙にあんたの思いをこめてくれ」
「思いを?」母親が聞き返す。
「そうだ。あんたの気持ち、はるかへの気持ちを手紙に強く念じるんだ。手紙を書くことはできなくても、それなら出来るだろ? 文字が書かれてなくても、その波動を読み取ることであんたの思いを知ることが出来るから」
母親は胡散臭そうに真吾を見たが、もう反発しなかった。母親の真吾に対する態度は先ほどまでとは別人のように大人しくなっている。また、何となく、母親は真吾が苦手なようだった。彼女は言いにくそうに聞いた。
「それをしたら、あんたはここから帰ってくれるのか」
「帰るよ」
「じゃあ、やるよ」
母親はため息をついた。そのようにして、真吾は母親の思いがこめられた手紙を手に入れた。
「地獄、か」
真吾は暗い道を歩きながら、独り言のように呟いた。
確かに、はるかの母親は罪を犯した。
だが、それは本当に地獄に落とされるほどの罪だったのだろうか、と思う。
母親は不倫をし、その邪魔になるはるかを疎んじてた。霊界に来て、はるかを置き去りにしたのは、母親がはるかと共にいたくなかったからに他ならない。けれども、母親の心情のなかには、はるかへの愛情が全くないわけではなかった。
真吾はため息をついた。
(本当に、心の底から憎んでいたら、手紙を書くことを躊躇する必要なんてないんだ。でも、あの人は手紙を書くことを嫌がった。自分の本心を書くことで、はるかが傷つくことを恐れたんだ)
人の心は難しい。
かれはしみじみ思う。
(あの人だって、鬼じゃない)
ただ、自分への愛情が強すぎたのだと思う。母親として子供の立場に立って考えるより、自分自身の欲求を優先させた。それだけだ。だが、そのことがやがて彼女に一線を越えさせ、それが罪となった。
はるかは手紙を見たら、泣くだろうか。
(泣くだろうなあ)
と真吾は考える。
どちらにしても、はるかと母親が同じ霊界で暮らすことは不可能だ。親子は離れ離れになり、今後、いつ会えるかわからない。少なくとも、はるかがそれなりの力を持った霊人に成長するか、あるいは母親が条件を積んで、地獄のあの霊界から少しでも上の霊界にうつった後でないと、再会は難しいだろう。
(可哀相に)
かれは不幸な親娘を思って、息をついた。
そうしてさらにやるせないのは、このアフターワールドには彼女たちのような事情を抱えた霊人が数え切れないほどいるということだった。はるかたちは、けして珍しいケースではない。真吾は、死後、地獄へ行く霊人たちがとても多いということを、地獄の門番になって知るようになっていた。
(お幸――)
不意に、自分の妻だった女の顔が脳裏に浮かぶ。
自分を裏切って、他の男のもとへ行ってしまった女。
その本当の事情を真吾は知らない。知ろうともしなかった。ただ、人づてに話を聞いて、実際に男と暮らしている彼女の姿を遠目から見ただけで、お幸の裏切りを自分のなかで決定づけてしまった。
そのまま真吾はお幸の存在をひたすら忘れようとしてしまった。
お幸への恨みや、悲しみ、怒りといった感情をすべて押し殺して、苦しんだ。だが、その苦しみのなかに、お幸の言い分は含まれていない。すべて、真吾の一方的な思いによるものだった。
(そうか。お幸も鬼じゃない)
かれは、はっとしたように思った。
◇
「おーい。おーい。遅かったな。聞こえるかあ? おーい、真吾ォ!」
佐吉が片手を振って、大声を張りあげている。
まだ高度があるため、佐吉のほうからは空に光の珠が動いているようにしか見えないはずだったが、佐吉はそれが真吾たちであることを理解しているようだった。
横田四丁目。
真吾たちの永遠の地であるその新しい霊界を上空から眺めて、真吾は涙ぐんだ。
留守にしている間に四丁目はさらに賑やかになったようだった。家の数が増えている。この前までは建てかけだった建物が完成している。道も少しずつのびて、田畑が作られ、大分、集落らしい体裁をととのえてきた。また、夜の食事の支度をしているのだろう。家々から、いく筋ものたつきの煙があがっている。
穏やかな光景だった。
真吾は涙をこぶしで拭いて、顔を上空に向けた。空も美しかった。青く澄んだ空の下のほうには真っ赤な夕焼けが広がっている。昔の横田四丁目の真吾の畑のあたりのパステルカラーの空とは違っていたが、これもまた良いと真吾は思った。
「おーい。真吾が天使と一緒に帰ってきたぞ」
佐吉が声をあげながら、道を走る。町の人々に真吾が戻ってきたことを伝えているようだった。すると、家々から霊人たちが出てきて、空を見上げて、指をさしはじめた。その様子を眺めて、ラファエルが面白そうに言った。
「彼らは町のあるじの帰りを喜んでいるようだぞ」
「あ、あるじ?」
真吾はきょとんと聞き返して、顔を真っ赤にした。
「まさか。そんなことありません。だいたい四丁目は菊音さんに作ってもらったんだし、その後だって、皆で協力して作っているんだから。第一、おいらは門番の仕事が忙しくて、町のことは人任せにしっぱなしだし」
大真面目に真吾は否定したが、ラファエルは「ふん」と鼻先で笑った。
「でも、彼らはそうは思っていないようだ。見てみろ」
天使の白馬の高度が下がって、人々の姿がさらにはっきり見えてくると、人々が真吾のほうに手を振り、頭をさげているのがわかった。
口々に何か叫んでいる。その言葉のひとつひとつを聞き取ることは出来なかったが、人々の感謝の波動がつたわってきた。大天使は横目で真吾を見た。
「いい加減に認めろ。あの町はお前が作った町だ。たとえ外形は菊音が作ったとしてもな。少なくとも、お前があの時、私の申し出を受けて、天使の僕にならなかったら、この町は存在しなかった。そうだろう?」
「そ――それはそうかもしれないけど、おいらは何も……」
真吾はなおも抵抗するように口のなかでぼそぼそ言う。美貌の天使は肩をすくめると、話を打ち切るように言った。
「お前の家の前におろすぞ。それでいいな?」
「あ、はい。どうも有り難うございました」真吾は礼を言った。
天使は馬をあやつり、一軒の家の前になめらかに滑り降りた。真吾は馬の背中から飛び降りた。と同時に、天使の白馬は翼をはためかせ、上空へ勢いよく飛び立ってゆく。真吾は大天使がパラダイスへ帰ってゆくのを見送って、頭を下げた。
「お帰りなさい!」
大天使が空のかなたへ消えたのとほとんど同時だった。家の戸がガラッと開き、ベアトリーチェが飛び出してきた。少し遅れて、マルコとはるかが出てくる。
真吾ははるかの顔を見て、ほっとした。
表情はこわばっていたが、血色のよい顔をしている。少なくとも、真吾の帰りを待ちながら、ひとりで泣き続けていたわけではないようだった。
「今、帰ったよ。遅くなって、すまなかった」
真吾が穏やかに言うと、はるかが真吾の胸に飛び込んできた。
「よかった。お帰りなさい。真吾さんが帰ってこなかったら、どうしようかと思ってたの」
はるかを抱きとめながら、真吾は驚いた顔をする。
「ど、どうして。おいらは帰ってくるって約束したじゃないか」
「でも、地獄ってすごく怖いところなんでしょう? 一度行ったら、もう戻れないかもしれないって……」
ベアトリーチェが困ったように口をはさんだ。
「ごめんなさい。少し脅かしすぎちゃったみたいなの……あたしはやめなよって言ったんだけど、ウンチク好きの兄さまが、そのね――」
「マルコが?」と真吾。
マルコは可愛らしい顔に困った表情を浮かべながら、言いにくそうに言った。
「そのう。地獄のことを聞かれたから、僕の知ってる範囲で教えてあげたんですけど、かえってはるかを怖がらせてしまったみたいで。彼女はやさしい子ですね。自分のために真吾をそんな恐ろしい場所へ行かせてしまったと、とても後悔してました」
「本当なのか、はるか」
真吾が聞くと、おかっぱの少女はこくんと頷いた。
「ごめんなさい。真吾さん、大丈夫だった? どこも具合悪いところはない?」
真剣に聞いてくる。真吾ははるかを安心させるように、目元をほころばせた。
「平気だよ。それは――本当のことを言えば、少しは怖かったけどね、おいらは大人だからね。こう見えても、はるかよりずっと長い時間を生きてるんだ。ちゃんと地獄へ行って、帰ってきた。はるかのお母さんとも会ったよ。約束通り、お母さんからの手紙を預かってきた」
真吾は懐から手紙をとりだした。途端に、はるかがちいさな肩を震わせるのがわかった。




