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第3章------(14)



 はるかは、慎吾から渡された封筒を黙って見つめた。


 まわりでは真吾や佐吉、マルコとベアトリーチェといった面々が固唾をのんで見守っている。真吾の新居は純和風作りで、居間として使っている和室には囲炉裏があった。その囲炉裏にかけられた鉄瓶の湯がわきたつ音だけが静かに聞こえている。


「……」


 はるかは宛名の書かれていない封筒を不思議な瞳で眺めていた。見つめる黒い目の奥が光っている。それが少女のどのような感情の現れであるのか、真吾にはわからなかった。かれは、はるかをうながすように声をかけた。


「手紙をあけて、目を閉じて、集中してごらん。お母さんの本当の気持ちがわかるはずだから」


「……うん」


 はるかは頷いて、思い切ったように封筒を開いた。中からあらわれた紙片には何も書かれてなかった。


「なんだ。何も書いてないじゃねえか」


 呆れたように佐吉が言うのを、真吾が「シッ」と制する。


「目を閉じて。紙の表面を指でなぞるようにしてごらん。何か感じるだろう?」


「感じる」はるかが、小さな声で言った。


 彼女はそれきり黙りこみ、何度も何度も指先で白紙の手紙をなぞり続けた。そうしながら、彼女の閉じた目から涙がこぼれてきた。


「お母さん……お母さん」


 押し殺した声が漏れるのを聞いて、ベアトリーチェが手で顔を覆った。彼女は耐えきれなくなったように障子を開けて、部屋の外へ出て行ってしまった。マルコも立ち上がって、佐吉をうながす。


「僕たちは外しましょう。真吾と二人きりにさせたほうがいいと思います」


「わかってるさ」


 佐吉はムッとしたようだったが、素直に腰をあげた。通り過ぎざまに真吾に声をかけてゆく。


「今夜、町の連中がお前のために宴会を用意してくれてる。勿論、出るよな? 皆、お前が帰ってきたって、喜んでいるんだ。お前が地獄に行ってしまってから、こっちではけっこうな月日が過ぎてたんだよ。お前には実感ないかもしれないけどな」


「――ああ」


 真吾は頷いた。


 かれもこちらに戻ってきてからはじめて知ったのだが――どうやら、はるかの母親がいた地獄の町と真吾たちの中間霊界とでは、時間の進みかたが違ったらしいのだ。


 真吾の感覚からすれば、地獄へ出かけてから、まだ数日と経っていないないはずだった。だが、横田四丁目では二ヶ月も過ぎていた。


 勿論、時間などあってないようなアフターワールドのことだから、その時間にリアルのような厳密な意味はない。


 けれども、霊界にも一日のはじまりがあり、終わりがある。それが繰り返されている以上、霊人たちは日にちを数えることによって、時の流れを大雑把に把握するのである。


「じゃあ、後でな」


 佐吉は真吾の背中をぽんと叩いた。


 真吾はひそかに考えた。横田四丁目の時間で二ヶ月も過ぎてしまっていたのだとしたら、確かに、天使の馬に乗ってあらわれた真吾を見た町の人々の驚きぶりや、慎吾を出迎えた時のマルコたちの興奮ぶりも当然だったのかもしれない。


(そして、この子は二ヶ月もの間、心細い思いをしていたんだ)


 真吾は思った。かれは声を押し殺して泣いている少女を見つめた。


「はるか」


「……はい」


 少女はうつむいたまま答えた。真吾はやさしい声で聞いた。


「お母さんの気持ちはわかったかい」


「わかりました。真吾さん、本当にありがとう……ございました」


 畳に正座したまま、ぺこりと頭をさげる。


 真吾は「そうか」と言った。かれは母親がその手紙にどんな思いをこめたのかについては聞かなかった。代わりに、別のことを言った。


「もう分かっていると思うけど、お前は地獄には行けないよ。だから、この中間霊界で暮らしていかなければならない。わかるね?」


「はい……」


「お前はこれからどうしていきたい?」


 改まった口調で、慎吾が聞く。はるかは口を引き結んだ。


「わたしは――」


「うん」


 真吾ははるかの答えを待った。はるかは、両手を膝の上で結びながら、声を震わせた。


「……わからない。どうすればいいのかなんて。わかっているのは……この世界で、わたしはひとりだってことだけ……お母さんは戻ってこない――」


「そうだな」


「わたしは独りぼっち……なんだ」


「ああ。そうだ」


 真吾は否定しなかった。かれはつと立ち上がって、はるかのすぐ横に座りなおした。


「なあ、はるか」


 人の心を慰める不思議な声だった。真吾ははるかの顔を覗き込むようにして、にこっと笑った。かれは声をひそめ、さも重大なことを打ち明けるように言う。


「実はな。おいらもひとりぼっちなんだ。一応、リアルでは結婚したけど、お嫁さんはおいらの前からいなくなってしまって、それきりだ。霊界に来てから、彼女と会ったことは一度もない。子供もいなくてね。両親も早くに亡くしていて、兄弟もいない」


 はるかは驚いたように顔をあげた。少女の目から見た真吾はいつも友達に囲まれて、幸せそうに見えていた。その真吾が”独りぼっち”であることが想像できなかったのだろう。はるかは少し反抗するように真吾を見た。


「嘘。だって、慎吾さんはいつも楽しそうじゃないの」


「うーん。まあ、楽しいけど」


「ほら」


「でも、おいらが毎日楽しく暮らすことと、独りぼっちであることは関係ないだろう? なあ、はるか。人はね、けっこうどんな状況になったって、自分の気持ちのもちかた次第でけっこう楽しく生きてゆけるもんなんだよ。まあ、わりと大抵は」


 はるかが疑うような眼差しをくれる。その目線を受け止めながら、慎吾は笑った。


「だからな、おいら、考えてみたんだ。養護施設に行くのもいいけど、もしお前さえ良かったら、おいらと一緒にこの霊界で暮らさないか? おいらは仕事があるからあまり家には戻ってこれないけど、この四丁目には気の良い霊人たちがたくさんいる。学校も作るつもりだから、そこで友達を作って、たくさん遊んで、勉強すればいい」


「え……」


 はるかは、絶句したように真吾を見た。一瞬、何を言われたか、理解できなかったようだった。しかしすぐにその言葉の意味を理解し、その目に涙がこみあげてくる。真吾は頷いた。


「友達がいれば、独りぼっちでも、寂しくなくなるよ。おいらはずーとそんなふうにして、生きてきたんだ」


 かれは言った。





     ◇





 はるかは真吾の申し出を受けた。


 それで真吾が申請して、真吾が正式にはるかの保護者となることになった。地獄の門番たちは呆れて言った。


「まさかアフターワールドに来てから、子持ちになることはないだろう?」


「しかもその子は既に霊人だから、リアルで子孫を残すわけでもないんだぞ。霊界で養子縁組関係を結んだって、他人は他人だ」


「関係ないさ」


 真吾は笑って答えた。


「おいらははるかの親になるわけじゃない。はるかが必要な間だけ、おいらの家で一緒に暮らさないかって言っただけだ。横田四丁目はおいらが言うのもなんだけど、良い霊界だ。子供が育つには良い環境だと思うよ」


 真吾の言葉を聞いて、門番たちは顔を見合わせた。


 一方、はるかは張り切っていた。


 留守の多い真吾のために、家を掃除したり、家のなかの細々したものを整えたりすることは自分の仕事だと思っている。それで一生懸命、働いてばかりいる。ベアトリーチェが見かねて言った。


「ねえ、はるか。家の中ばかりいないで、少しは外に出てみない?」


「うん。でもあとちょっとだから……」


 はるかは雑巾で床をぴかぴかに磨きあげている。ベアトリーチェは溜息をついた。


「そこはもう十分、綺麗でしょ。どうせやるなら明日にしなさい」


「でも」と、手を動かしながら言うはるかにベアトリーチェは顔を近づけた。


「とっておきのお菓子があるの。それを持って、丘の上まで散歩しない? 実はこの町の女の子たちも誘ってあるのよ。皆にはるかを紹介したいわ。親友の命令よ。さっさと掃除道具を片付けて、あたしについて来なさい」


「親友……」


 はるかの顔がぱっと輝く。彼女は雑巾を置いた。それから、はにかむように笑った。


「わかった。行くよ。ありがとう、ベアトリーチェ」





 そうして――


 真吾は草原にたたずんでいた。


(お幸)


 最近また、お幸のことをよく考える。


 生前、お幸とは夫婦だったけれども、自分は妻のことをどれだけ知っていたのだろうかと思う。真吾が知っているお幸は真吾から見たお幸でしかない。お幸が本当は何を考えていたのか、真吾と出会う前にどんな人々とつながりがあったのか、慎吾は知らない。


 お幸もそうしたことを真吾に話さなかった。いつもにこにこ笑っていたが、寡黙な女だった。


(おいらはお幸のことを何も知らない)


 ぼんやり考える。


 かれは、大震災で死んだかもしれないと報じられて、心配のあまり、女の身で東京まで駆けつけてしまうような、親しい幼馴染が彼女にいたことすら知らなかった。


(……お幸はおいらを裏切ったもんだとずっと思ってきたけど)


 真吾はもっとお幸の本心を知るべきではなかったのだろうか。たとえ、東京でのお幸の暮らしを壊す真似をしても、あの時、札幌からお幸に会いに行った時、お幸を厳しく問いただすべきではなかったのだろうか。


(おいらは――)


 お幸は真吾に恨みを残して自殺した。


(もう一度、やっぱりお前に会わなくちゃならない。お幸、あれからお前に何があったか教えてくれ。おいらはそれを知りたい……いや、知らなくちゃならない)


 思いは素直に出てきた。


 それは、はじめての思いだった。



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