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第3章------(12)



 女の姿を目の当たりにして、真吾は戦慄した。


 女は――はるかの母親は生きながら焼かれていた。


 その、女の下半身に絡みつくような炎は、地上界で犯してしまった過ちゆえのものなのだろう。はるかは、生前、母親が父親以外の男と親しくしていたと言っていた。そのことが本当なら、霊界での母親のこの状態も頷ける。


 真吾は息をとめて、静かに吐き出した。


 女は奥歯をくいしばり、苦しそうに呻く。炎に焼かれた肌の部分が無残に爛れている。激痛がないわけはなかった。けれども、女はその絶え間なく続く苦痛より、真吾への怒りのほうが強いのだと言わんばかりに真吾を睨みすえた。


「はるかの手紙!」


 彼女は声をふりしぼるように叫んだ。


「そんなものをわざわざ見せて、いったい、お前はどうしようっていうの」


「どうって――何も……」


 真吾は狼狽した。そして、はっきり悟った。


 やはり、はるかの母親は置き去りにしてきた自分の娘に僅かな情も残していないようだった。与えられる苦しみが凄絶すぎて、人間らしい愛情などどこかに忘れてしまったようにも見える。


「霊界では親も子も関係ないって教えられた。だから、あたしはあたしが行きたい霊界にたどり着いただけ。あの子は邪魔だった。だから捨てた。それだけよ」


 女は憎しみに目を光らせながら、吐き捨てた。言葉の一つ一つに怒りと憎しみが満ちている。真吾はその強烈な波動を受け止めた。


「……くっ」


 思わず、体がよろめく。女の波動は容赦なく真吾を打ちのめし、言いようのない不快感を与えてくる。かれは、かれを押し潰そうとしてくる波動を押し返すように、叫び返した。


「それでも、はるかにとっては、あんたが親なんだっ! はるかは、あんたに捨てられたとは思っていない。あんたに会いたがってる。あの子はたった一人であんたを探すために地獄に来るつもりだったんだぞ」


「関係ないわ。あたしはもうあの子と会うつもりはない。あの子だって、こんな霊界まで辿り着くことは出来ないでしょうよ。あの子は怖がりだからね。おおかた、どこかで迷子になって、野たれ死ぬのが関の山よ。それとも運が良ければ、どこかの悪霊人にひろわれて、土でも食って生きてゆくか。どっちにしても、あたしには関係ない」


 女はあざ笑った。


 真吾は、とてつもなく憂鬱な気分になった。全てのことが面倒くさく、億劫で、自分自身の存在すら忌まわしいものとして感じられる。そうして自分をそのような状態に追い込んだ周囲への苛立ちを感じる。


(こんな霊人が、はるかの母親なのか)


 うんざり思う。


 はるかとは似ても似つかない。はじめ、真吾は母親の面差しがはるかと似ていると感じたが、それも次第に疑わしくなっている。


(可哀相に……)


 その思いは、一途に母親を探し続けているはるかに対するものだった。だが、目の前の――おそらく霊界に来て、変わり果てた姿になってしまったであろう母親への同情心もないわけではなかった。


(人は――地獄に来ると、生前の頃の恨みや不満が増幅されると言うから、この人もきっとそうなんだろうけど)


 だが、罪を犯したのは当人の責任である。


 その罪の重さによって、霊人たちは霊界で自ら裁かれてゆく。


 はるかの母親も、誰に強制されるわけでなく、自ら望んで地獄のこの霊界を選んだ。それを考えると真吾はやるせない気持ちになる。


(誰だって幸せになりたいはずなのに、どうしてこんなことになるんだろう)


 ややあって、かれはぽつりと呟いた。


「はるかは、あんたのしてきたことを知っている」


 女の表情がかすかに動く。真吾はさらに続けた。


「あの子は頭がいい。あんたがどういう人間で、何をしてきたか、それがどういう意味を持つのか、ちゃんと知っている。でも、それでも、あんたのところへ行こうとしてたんだ。あんたを信じたいんだ。それは、あんたがあの子の母親だからだ。リアルもアフターワールドも関係ない、親は親なんだ。たったひとりの母親だから……」


「……」


 女は黙って、真吾を睨みつけた。


 そうする間も、女の波動はいっそう禍々しさを増してゆく。


 真吾はその波動を懸命に受け止めた。そうすることは苦しかったが、今、女と向き合うことをやめてしまうことはできなかった。なぜなら、はるかの母親自身は、真吾が感じる苦痛の何十倍もの苦しみを背負っているはずなのだから。


 アフターワールドは永遠の世界だ。


 その永遠の世界で絶え間なく炎に焼かれ続けるということがどういうことなのか、理解できない真吾ではない。


 今はまだいいだろう。はるかの母親はこの地獄へやって来たばかりなのだから。だが、それはこの先もずっと続いてゆく。それは想像を絶する苦しみだろう。毎日の食料が手に入るかどうかどころではない、切実な苦しみだ。


 女の行く末を思い、真吾はだんだん女により深い同情を感じはじめていた。


「あんたも、可哀相になあ。地上界で罪を犯した時はこんなことになるなんて、思わなかったんだろう? しかもあんたは罪を犯した後、その罪を放りっぱなしにしてしまった。それが悪いとも思わなかったし、反省も後悔も償いもしなかった。それで死後、こんな霊界に来てしまうことになった。苦しくて、苦しくて、血をわけた娘と一緒にいられないくらい、苦しかったんだろう」


「わかったふうなことを言うんじゃないよっ……」


 女は反発するように叫ぶ。だが、その声の勢いは、先ほどまでより少し弱くなっていた。女は顔を両手でおおうようにした。


「何も知らないくせに。何も――」


「ああ、知らないよ」


 真吾は言う。


「あんたのことは知らない。でも、おいらにだって生前犯した罪はある。だから、その罪のせいで苦しむあんたの気持ちは少しわかる」


「……え――」


 女が驚いたように顔をあげる。女にすれば、中間霊界人の真吾は光り輝いて見える。地獄とは違う自由な霊界で、幸福に生きている霊人。彼女の目にはそのように見える真吾からの告白が、とても意外なことに感じられたようだった。


 真吾は頷いた。


「おいらは、あんたより少し昔にリアルで生きた。明治三十三年生まれなんだ」


「……」


「あんたみたいに最近、霊界に来た人にはぴんとこないかも知れないけどなあ、あの頃は動乱の時代で、二度も大きな世界大戦があって、国中がぴりぴりして、おいらたちはそれに振り回され続けたよ」


 女は無言で真吾を見た。


「おいらは兵隊だった時期があるんだ――その時、敵国の兵士や民間人を何人も殺してしまった。それにおいらの仲間の兵士たちがあの国の人たちに酷いことをするのを見ても、何もできなかった。悪いことだと思ったが、止められなかった。止めたら自分が殺された。そんな時代だった。あれは地獄だった……おいらは、おいらたちにあんな酷いことをさせた自分の国を恨んだなあ」


 かれは呟くように言って、遠くを眺めた。


 生前、かれが大日本帝国の兵士として召集されたのは第二次世界大戦の最中だった。かれは九州の部隊に配属され、その後、満州国へ渡らされた。そこはやがて激戦区となり、敗戦後は凄まじい混乱に見舞われた。幸い、真吾は命からがら、どうにか帰国の途につくことができた。


「そんなことが――?」


 平成の、現在の時代をリアルで生き、最近になって死んで霊界に来たばかりの女には、約八十年も昔の戦争の話はやはりどこか遠い話に聞こえるようだった。真吾は女が胡散臭そうに眉をひそめても、怒らなかった。かれは女の手をそっと握った。


 途端だった。触れた手と手の間に電流が走り、真吾が地上界で体験した出来事が追体験のように女に流れ込んでゆく。


「ヒ……ッ!」


 女は悲鳴をあげた。


 当時の日本軍がおかした陵辱の数々が、鮮やかに女の脳裏にひらめいた。その光景は、今、彼女が暮らしている燃える木の町の地獄よりも、ある意味では、凄まじかった。なぜなら、それはリアルの、地上界で起きた現実の出来事だったのだから。


「な――なんて……ことを。や、やめて」


 女は哀願するように言った。真吾は女に流れ込んでいるイメージを止めた。


「ど、どうして……?」


 女はまじまじと真吾を見た。


 先ほどの映像が本当に真吾の過去であるなら、真吾が地獄で暮らす霊人であるのは明らかだった。真吾の過去はそれほどむごたらしいものだった。それなのに、真吾は中間霊界人だ。女はそれが納得できなかったのである。


「なんで、たかが不倫をしただけのあたしが地獄にいて、あんなことをしたあんたが上の霊界にいるの……? おかしいじゃない」


「さあ、おいらにもわからないよ」


 真吾は肩をすくめた。


「おいらの過去はさっきの通りだ。それで、あの戦争の後、おいらは生きる気力をなくしてね。全てがどうでもよくなった。あの頃、若者の自殺者が増えたよ。純粋だった連中ほど、信じてきたお国に裏切られて、どうしようもなかった。あの戦争で、おいらは人間は鬼になるってことを知った。でもだからこそ、おいらはその後、ひたすら人を信じようとした。人は鬼にも悪魔にもなるけど、それだけじゃない。善意だってある。その可能性を信じたかったんだな。だから――」


「だから?」女がくいつくように聞き返す。


「あんたとおいらで違いがあるとしたら、罪を犯してしまった後の行動だったと思うんだ」


「……」


「おいらは馬鹿で、単純だ。こうと決めたら、てこでも動かない。その後の人生は、頑固に人を信じて、何度も裏切られた。くやしくてなあ。でも、それでも良かった。くやしかったが、騙されるたびに、これはおいらがあの国の人たちにしたことの償いなんだと思った。おいらは鬼じゃない。だから、どんなに裏切られても信じるんだって決めた。でも、死んでこっちに来てからわかったんだけど、信じるだけでも駄目だったんだなあ」


 真吾は少し照れたように頭をかいた。それから、やさしい目で女を見た。


「おいらにはわかる。あんたも鬼じゃないだろう? もともと、鬼みたいな人間なんてひとりもいないんだから。あんたも辛かったんだな」


 素朴な、穏やかな声だった。それでいて、確信に満ちた、力強い声だった。


 女の目が見開かれ、一筋の涙が落ちた。



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