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第3章------(8)



 結局、真吾ははるかを思いとどまらせることに成功した。


 はるかは今の時点では自分自身が地獄に行って、母親に会うことは諦めた。けれども、母親の本心を知りたいという気持ちを捨てることはできなかった。それで、


「わたしは地獄に行かない。でも、それなら真吾さんが地獄に行って、お母さんにはるかの気持ちを伝えてきて。どうして黙っていなくなっちゃったのか……」


 と涙で目をうるませた。その言葉は幼い少女のぎりぎりの譲歩なのだろう。それがわかるから、真吾は断ることが出来なかった。


「わかった。おいらが、聞いてくる」


「約束だよ。わたし、手紙を書くからそれをお母さんに渡して」


「うん」真吾は頷いた。


 地獄に行くことは真吾にとっても危険を伴うものだったが、はるかを行かせるよりはマシだった。何より、今の真吾は地獄の門番の仕事をしている。上役の了解を得れば、門を下って、地獄へ行くことは不可能ではないはずだ。


「とりあえず、帰ろうか。あまり長くここにいないほうがいい。ここは地獄に近いから」


 真吾が片手を差し出すと、はるかはその手をとった。はるかは不思議そうに聞いた。


「地獄に近いの?」


「うん、そうだ。中間霊界最下層だからね」


「ふうん」


「ところで、はるかは最果ての地がどっちにあるかわかるかい」


「あっちだよ」と言って、少女はあいているほうの手で指をさす。真吾はそちらの方角を確かめた。


「ありがとう。じゃ、いったん、最果ての地に行ってみようか」


 はるかは「え」と驚く。


「実はおいら、道に迷ってしまっていてね。帰り道がわからないんだ。おいらはただ、はるかの波動を追って、ここまで来ただけだから、ここがどこなのかさっぱりわからない。グランドリバーの近くには天使たちがいるはずだから、彼らに帰り道を聞こうと思うんだ」


 真吾はちょっと照れたように頭をかいた。





 そんなふうにして、真吾とはるかは地獄の門へ辿り着くことができた。


 真吾たちが戻ると、その場はちょっとした騒ぎになった。


 門番たちが仕事の手を止めて、次々に集まってきて、二人に声をかけてくる。その中の一人が上役に二人の無事を報告するために走ってゆく。すぐに詰め所から上役と、このあたりでは見かけない顔の役人が出てきた。


「桜田!」


 上役が大声をあげる。真吾はぺこりと頭をさげた。


「すみません、心配をおかけしまして」


「帰りが遅いから心配していた。大丈夫だったのか」


「はい。おかげさまで……」


 はるかが真吾の手をぎゅっと掴む。不安な波動がつたわってくるのへ、真吾は安心させるように微笑みかける。上役ははるかが失踪前と変わらない姿であることを確認して、真吾に目を向けた。


「向うで話を聞こう。詰め所に来い」


「あ、はい。はるかから話は全部聞いているので、おいらが説明します。はるかは疲れているので、どこかで先に休ませてやりたいんですが」


「そうだな――」上役が言いかけた時だった。


「良かった、無事だったのね!」


 ベアトリーチェが空中からぽんと現われた。彼女は真吾の波動を察知して、どこからか瞬間移動してきたようだった。少し遅れて、マルコが慌てたように現われる。


「ご無事でしたか。本当にすみません、妹がとんでもないことをしてしまったみたいで」


「別にベアトリーチェの責任じゃないさ。おいらたち皆がうっかりしてしまったんだ」


 真吾は穏やかに言った。マルコは「でも」と、うなだれる。


「いいから」


 真吾はマルコの背中を叩いた。


「何も危険なことは起こらなかった。はるかは、ちょっと遠くの霊界まで行ってしまって、帰れなくなって困っていただけだ」


 ベアトリーチェがはるかを抱きしめた。


「本当に心配したんだから。怖くなかった? どこまで行っていたの」


「グランドリバー……」


 少女がか細い声で言うと、その場にいた全員が――真吾を除いて――驚きの声をあげる。


「まさか」


「本当に? あんなところまでたどり着けたのか。子供ひとりで?」


 口々に言う。はるかは怯えたように真吾の後ろに隠れる。真吾ははるかを庇うように立ちながら、周囲の人々に説明した。


「この子はやっぱり母親に会いに行こうとしていたんだ。それで、最果ての地のグランドリバーまでたどり着いた。でも、川には飛び込まないで、戻って来た。もう地獄に行こうという気はおこさないと約束もしてくれた。そうだよな、はるか」


「うん」


 少女は頷く。真吾はそれを目を細くして眺め、そうして、ベアトリーチェを見た。


「悪いけど、はるかを四丁目に連れて行ってくれないか。お前たちの家でも、おいらの家でもいいから、連れて行って休ませてやってくれ。おいらの家はまだ色々揃ってないからお前たちの家のほうがいいかな……?」


「わたし、真吾さんの家に行く」


 はるかが、可愛らしい声ではっきり言った。





     ◇





 その日、真吾は大天使ラファエルから呼び出された。


「いったいお前は何をしているんだ。最果ての地の警備の天使から、お前がかの地を訪れたという報告を受けた。私はお前に最果ての地に行くような用件を頼んだ覚えはないが?」


 大天使ラファエルの機嫌は悪かった。白銀の炎のように燃える美しい金髪のしたの眉間には二本の皺がくっきり刻まれ、真吾を見下ろす眼差しも冷ややかだ。その空気にいたたまれなくなったように、真吾は天使から目線をそらした。


「それはそのう。いろいろ事情がありまして……」


 口のなかでごにょごにょ言う。


「事情ね」


 天使は豪奢な椅子に足をくんで座りながら、肘掛を指で弾くようにした。


「先ほど、地獄の門の責任者から連絡があった。お前を一時的に地獄に行かせることは可能かどうか知りたいとな――そしてまた、菊音からもお前からなにやら頼みがあるので、会ってやるようにと進言があった」


「えぇと」真吾は冷や汗をかいた。


 おそらく、大天使は事情をすべて聞いて知っているのだろう。知った上でこのように切り出してくるのは、単に天使の性格が悪いからに他ならない。そういう相手に真正直に受け答えしても、まともにとりあってもらえないのは確かだった。


(困ったな)


 真吾はしばし考えた。


 はるかの気の毒な境遇や母親への懇切な心情を訴えることもできたが、きっと、ラファエルはそれでは納得しない。ラファエルにとって霊人たちの管理は創造主より任された仕事である。そうであるから、合理的な考え方を好む。


(と言うことは、これが天使の僕としての仕事だったら、文句はないはずだ。よし)


 かれは心を決めると、勇気を集めて、ラファエルを直視した。


「おいらは地獄の門の門番として、お勤めに励んでいました。その仕事はラファエル様が与えてくださった仕事です」


「ああ、そうだ」


「ご存知のとおり、地獄の門には多くの新霊人たちが殺到して、とても忙しいんです。そこにひとりの女の子がおいらの窓口に並びました。井上はるかです。はるかは母親を探してました。ですが、生憎、母親は既に地獄へ行ってしまっていて、呼び戻すことはできない状態でした」


 ラファエルは渋面のまま、黙っている。真吾は上目遣いに天使を見ながら、続けた。


「先輩のボビーは、はるかを養護施設へ連れて行けと言いました。また、はるかのことは責任をもって、おいらが面倒みるようにと。つまり、はるかの件でのお願い事は地獄の門番としての仕事であり、ラファエル様がおいらに与えてくださった天使の僕としての仕事でもあるんです」


 こじつけではあったが、真吾は言い切った。


 途中、施設へはるかを連れてゆく途中で、はるかに逃げられてしまったことは言わない。はるかを追いながら、道に迷ってしまったことも省略する。


「――で、それでなぜお前が地獄へ行くことになる?」


 ラファエルが不機嫌そうに聞く。真吾は答えた。


「それが、はるかとの約束だからです。おいらは、はるかの手紙をはるかの母親に届けて、その返事を貰ってくる約束をしました。それで地獄に行かなければならないんですが、地獄の門の上役に相談したら、自分では決められないので、おいらの直接の上司に言えといわれました。そしておいらは菊音さんに相談しました」


「……」


「菊音さんに相談したら、菊音さんはそんなことはラファエル様に聞きなさいと言いました。それで、ラファエル様にお願いすることにしたんです」


「待て」


 ラファエルは遮った。真吾はいかにも神妙そうな態度で話しているが、どうも自分に面倒ごとを押しつけようとしているのだと察知したようだった。このあたりはやはり、見た目はごく若い、純朴そうな若者に見えても、リアルでは六十四歳まで生きた人間らしく、真吾もそれなりの処世術を身につけているということなのだろう。


「菊音」


 大天使は少し離れたところに立っている着物姿の女に鋭い目をくれた。


「なぜ、こんなくだらない話を私に持ち込むのだ。お前が決裁すればいいだろう。だいたい、地獄の門をくぐれば地獄へ行くことはたやすい。必要なら勝手に行けばいい」


「仰るとおりです。ですが、それですと後々、面倒なことになるので――」


「面倒だと」


「はい」と答えて、菊音はにっこり微笑んだ。


「地獄側の役人たちですわ。彼らは彼らでプライドがあります。彼らはこちら側から公務でない者が地獄へ行くことを嫌います。かといって、グランドリバーから密行すれば、それはそれで帰りに役人と揉めるでしょう。ですから、真吾の地獄行きの送り迎えをラファエル様に直接していただければ、あちらも文句はないと思うのです。どうでしょう。お忙しいのは知ってますけど、お願いできませんか」


 ラファエルの眉間の皺がさらに深くなった。



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