第3章------(7)
はるかは古木の根元で膝を折って、泣いていた。
「はるかっ!」
真吾は駆け寄って、少女を抱きしめた。少女の悲しみが波動となってあたりに満ちて、草木を困惑させているのがわかった。中間霊界最下層にある痩せた草木だったが、それらは少女を慰めようとするように、懸命にさわさわと葉を揺らせている。
真吾は少女の体の重みを腕に感じながら、背中をやさしく叩いた。
「こら、探したんだぞ。こんなところにいたのか」
「真吾さん……怖かった。わたし――」
「いいから」
真吾は少女を包みこむように言った。自分を気遣う、優しい波動に触れて、はるかの目に大粒の涙がこみあがる。
「ごめんなさい」
消え入りそうな声で呟く。真吾は「うん」と言って、はるかの頭を撫でてやった。
そこは中間霊界最下層のとある霊界だった。
やはりはるかは地獄へ行くために、最果ての地を目指していたらしい。
食事をした霊界で真吾たちから逃げ出した後、はるかはその町にいた行商人の一行に紛れ込んだ。その道中で、グランドリバーのことを聞いて、ひとりでそこを目指そうとしていたらしい。
「まだ霊界のことがよくわかってないくせに、無茶なやつだ」
真吾は呆れた。最果ての地を目指すような長い旅は、普通、大人でも躊躇する。アフターワールドでは無数の霊界がかさなりあっていて、道もあってないようなものだ。途中で迷って、どこかの霊界にはまりこんでしまうか、いくつもの霊界を移動しきれず、もとの霊界に戻ってきてしまうのがオチだった。
真吾がしたように、瞬間移動を使って最果ての地を目指すことなど、普通の霊人にはまず出来ないことだった。
だが、はるかは一途な目で真吾を見た。自分がしたことを無謀だとも、不可能だとも思っていない目だった。
「……ごめんなさい」
彼女は小声で言った。真吾ははるかの目を見て、安心させるように頷きかけた。
「怒ってるわけじゃない。はるかが、お母さんに会いたい気持ちは当然だからな。でも、本当にこんなところまでひとりで来たのか?」
「よくわからなかったけど……ちょうど、道に迷っている時、こっちに来る人がいて、連れてきてもらったの。その人と別れてからは、お母さんのことを考えながら、歩いてきた。そしたらここに着いた」
「そうか。グランドリバーは見たのか」
「川は――見たよ。とても大きくて、恐ろしくて……普通の霊人とは違う、天使?――に呼び止められて、急いで逃げてきたの」
「本当か」
真吾は驚きの声をあげた。
かれもはじめ、地獄の門から瞬間移動した時に最下層の霊界に来たが、その時はいくら歩いても、最果ての地にたどり着けなかった。だが、はるかは子供の足で簡単にたどり着けたらしい。
(どうして――?)
訝しく思うが、同時に、それは心の切実さの違いによるものなのだろうと理解する。
真吾は単に最果ての地を目指そうとしただけだったが、はるかには彼女にとって頼るべきただ一人の大人である母親を探すという目的があった。
子供にとって、親はすべてだ。
無条件に自分を委ねたいし、慕いたい。また、親からも愛してもらいたい。はるかが、母親を慕おうとするのは――それがどんな親であったとしても、仕方のないことだった。はるかはまだ親の庇護がなければ生きてゆけない年齢なのだから。
「グランドリバーを見たのか……」
真吾は呻いた。
「でも、思いとどまってくれて、良かった」
「ねえ。真吾さん。本当にお母さんは地獄にいるの? とても怖いところなんでしょ?」
はるかが真剣な眼差しで聞いてきた。真吾は内心、ぎくりとする。ここで嘘をつくことはできたが、今のはるかには嘘が見透かされそうな気がした。
「――その……お前のお母さんは――」
言葉の続きが出てこない。
母親が地獄で暮らしていることを告げれば、はるかは自分も地獄へ行くと言うだろう。けれども、それを許すことは真吾の心情的にも立場的にも出来なかった。真吾が言いよどんでいると、はるかのほうから、ポツリと言った。
「お母さんは、生きてる頃、悪いことばかりしてきた」
真吾は「え」と聞き返す。はるかは少し大人びた表情になって続けた。
「わたしにだってわかるよ? お母さんは、お父さんとは違う男の人と仲が良かったの。それは悪いことでしょ? いつも怒っていたし――お父さんはわたしには優しかったけど、お母さんとは喧嘩ばかりしていた。この前も――その、わたしたちが死ぬ何週間か前も、ものすごい喧嘩して、隣の家の人に警察を呼ばれて……」
「……」
つまり、はるかの母親は不倫をしていたということなのだろうか。
真吾は納得した。
霊界の法では、不倫は罪だ。
そして多くの場合、そうした罪をおかした場合、死んで、地獄へ行く。もっとも、ひとたび不倫をおかしても、そのことを心から悔い改めて、その後の人生を善行に励めば、中間霊界に留め置かれることもある。だが、母親はそうした気持ちもなかったようだった。
「だから、お母さんがここにいるわたしを迎えに来てくれることはないと思ったの。そうなんでしょ、真吾さん?」
問いかけられて、真吾は眉間に皺を寄せた。もう、言い逃れることは出来なかった。かれは諦めたように深呼吸すると、はるかを正面から見た。
「いいか。これからおいらが言うことをよく聞くんだ。もうわかっていると思うけど、人間は地上界で生きて、死んで、それで終わりじゃないんだ。続きがある。このアフターワールドでの人生がはじまる。それで、こっちの人生のほうが本番なんだ」
「本番……?」
「おいらたちの本来の人生ってことかな。地上界での人生は、霊界でより良く生きるための準備期間みたいなものなんだよ」
真吾は言って、息をついた。
真吾は本当のことを話した。
はるかは子供だったが、年のわりにしっかりしているし、頭も良い。また、勘も良い子だったので、彼女自身で母親が地獄にいることにほとんど気づいている。それなのに真吾がその場限りの嘘をつけば、真吾は彼女からの信頼を失ってしまうだろう。
「もう、初期ガイダンスで聞いたとは思うけど、霊界の法は厳しい。地上界でおかした罪がそのままこっちで反映される。地獄に行くか、中間霊界に行くかは、誰に強制されるものでもない。本人が選ぶんだ」
「本人が?」
「そう。だから、お母さんはお母さんの意思で地獄に行ったんだよ。はるかを置いて」
はるかはショックを受けたように黙り込んだ。真吾は心の奥が痛むのを感じながら、言い聞かせた。
「こっちの世界では親子だからって、一緒に暮らすとは限らないんだ。夫婦だって、霊界に来てから一度も会わずに別々に暮らすことだって珍しくない。はるかは地獄には行かない霊人だ。だから、お母さんは離れて行ったんだ」
「だって……お母さんはそんなこと一言も言わなかった。お別れの言葉だって、何も」
はるかの声が震える。真吾ははるかの肩を抱いた。
「言ったら、お前も地獄について行くと言うだろう? お母さんはお前を地獄に行かせたくなかった。だからじゃないかな」
真吾は慰めた。永遠の地を探す旅の途中で、娘を置き去りにするような母親にそんな思いやりがあったかわからないが、このくらいの嘘なら許される気がした。
はるかは思いつめた顔になって、真吾を見た。
「真吾さん、わたし……」
「駄目だからな」
真吾はきっぱり言った。最後まで聞かなくてもわかる。何より、はるかの波動がその心をはっきり語っている。やはり、はるかは母親を追って、地獄へ行きたいのだ。真吾は何か反論しかけたはるかに覆いかぶせるように言った。
「絶対に駄目だ。おいらが許さない」
「イヤ。だって、お母さんが地獄にいるのに、どうしてはるかがここにいるの? お母さんなのに――一緒にいたいの。お願い」
はるかは駄々をこねる子供のように叫んだ。そのまま駆け出そうとするので、真吾がつかまえる。はるかは叫んだ。
「離してっ、やっぱり、わたしは川をくだるっ」
「駄目って言ったら、駄目だ。地獄に行ったら、お前が駄目になる」
「ど……どういう意味よ」
にわかに怯えたように聞き返す。真吾ははるかの腕をしっかり掴みながら、言った。
「地獄は本当に、本当に恐ろしいところなんだ。お前みたいな子供の霊人が地獄に行ったら、その臭気で気持ちがおかしくなってしまうぞ。あそこは、とても重くて、辛い、悲しいところなんだ。それに行ったら、こっちに戻ってこれる保証はない。そこで永遠に暮らすことになるかもしれないんだぞ。その時になって後悔したって、どうしようもない」
あまりにも断定した口調で言われ、はるかは少し動揺したようだった。
「そんなに怖いところ……なの? 真吾さんは行ったことがあるの?」
「――あるよ」
真吾は答えた。それを聞いて、はるかはほっとした顔になった。
「な、なんだ。驚いた。じゃ、地獄に行っても、こっちに戻ってこれるってことだよね? だったら、お母さんもきっと――」
「はるか」真吾はため息をついた。そして、はるかに本当のことを話してしまったことを後悔する。
これはもう、どうしようもないことだったが、はるかは根本的にわかっていない。
霊界では条件が重んじられる。
条件を積めば、それが善のポイントして加算され、その霊人本人のレベルが上がり、それに伴って、所属する霊界もあがってゆくことになるだろう。だが、地獄に堕ちた霊人が中間霊界にあがるほどの条件を積むには、普通の方法では、地上時間で一万年かかっても不可能だった。
はるかはそれがわからず、ただ、子供の本能のように、離れてしまった母親のもとへ行きたいだけなのだ。真吾はもう一度、地獄の恐ろしさをわからせるところから話しはじめた。




