第3章------(6)
真吾は二本の足で踏みしめた大地を見渡した。
渇いた土と岩山ばかりの荒涼とした土地だった。そしてまた、身にまつわりつく空気が一気に重くなった気がした。
(ここは地獄――? いや、そんなはずは……)
だが、ここが地獄であるはずはなかった。
真吾は地獄の門をくぐっていない。
だから、この地は中間霊界のどこかであるはずなのだが、呼吸するごとに息苦しく感じられる。空を見ると、どんより曇っていた。その厚い雲の向うから、うっすら太陽の光がさしている。その、どこかで見たことのあるような光景を見て、ようやく真吾はここが中間霊界最下層であることに思いあたった。
「そうか。あの時の、悪魔の竜に襲われた直後の横田四丁目とそっくりなんだ」
この粘りつく空気も、荒涼とした大地も、雲が厚くたれこめた空も、地獄に吸収される間際の四丁目とよく似ている。当時の真吾はその四丁目の空気をそれほど不快に感じなかった。もともと、竜に襲われる前から四丁目はよく曇っていたし、また、そうであっても、真吾の桃畑のあたりだけはなぜか鮮やかに空の色が変化していたので、全体的に暗くても気にならなかった。
けれども、今の真吾は以前、何とも感じなかったそれらのことに違和感を――いや、不快さを感じてしまう。
「なんで……」
ここしばらく、他の霊界を飛びまわっていたからだろうか。天使の僕となってから、真吾は様々な霊界に行った。そのどこもがこの地よりずっと空気が清浄で、美しい霊界だった。そういう霊界が多くあることを知った今、この中間霊界最下層の空気の重さが異常であることに改めて気づかされた。
かれは呆然としてあたりを眺めていたが、我に返ったように呟いた。
「と言うより、だいたい、どうしてこんなところまで移動してるんだ?」
瞬間移動を使ったのは久しぶりだ。
自分の足で歩くことが好きな真吾はこの技をあまり使わないので、技の細かい設定というか、力加減がよくわからない。それでかれは地獄の門の隣の霊界に飛ぶよう大雑把に念じたのだが、結果は随分と遠くまで来てしまったようだった。
「あり得ないだろう」
そもそも真吾の力では、それほど遠くまで飛べないはずだった。
少なくとも、真吾の記憶にある限り、そうだ。だから、目的地を適当に設定しておいても、差し支えなかった。たとえ間違って、少々、ずれた場所に着地しても、歩いて戻れば良かっただけのことなのだから。
だが、今、この地がどこであるのか、見当もつかない。真吾がイメージした場所からおそろしく遠い場所であるということしかわからない。それで歩いて戻ろうにも、戻れない。
「ここは、どこだ……」
かれは途方にくれた。
てくてくと、真吾は歩き続けた。
ここがどこであるかわからない以上、もう一度、瞬間移動する気にはなれなかった。移動の技を使ったところで、どこに着地するかわからないのだ。
「こんなことなら、普段からもう少し、移動の練習をしておけば良かったなあ」
かれは呟いた。
「でもなァ」
佐吉の顔が頭に浮かぶ。真吾が佐吉のそばで瞬間移動を使うと、佐吉が傷つく。佐吉自身は瞬間移動できないことをそれほど気にしてないふうを装っているが、内心ではそのことに劣等感を持っていることを真吾は知っている。
(佐吉のレベルがもう少しあがってくれるといいんだけどな。そうすれば、ほんの少しだけ瞬間移動できるようになるから、佐吉の気持ちも落ち着くと思うんだけどなあ)
だが、そのための努力をしないのも佐吉である。真吾は嘆息した。それから、気を取り直して、もう一度、あたりの様子に目を向ける。
しばらく歩いて行くと、やはりそこが元々の横田四丁目にとてもよく似た霊界であることがわかった。
おそらく、ここも地盤が薄く、すぐ下が地獄になっているのだろう。耳を澄ませば、時おり、地獄からの怨嗟の声が聞こえてくる。だが、一見、何もなかったように見えた不毛の大地には、わずかだが草木が生えていた。
細い、針金のような背の低い草木だったが、懸命に大地に根をはって生きている。真吾はそれを見て、横田四丁目で暮らしていた頃の自分たちを思い出した。
(そうか。ここにも命があるんだ)
そう思うと、この地を歩くことが少し楽しくなった。
瞬間移動では、こうした感覚が実感としてわからない。だが、自分の足で大地を踏みしめながら移動すれば、実感できる。だから、真吾は歩くことが好きだった。
(おいらはやっぱり、一歩ずつ歩くのがいい。アフターワールドでは地上界みたいに時間や空間に制約を受けることがないから、言ってみれば、時間は無限にあるんだ。歩いてゆけばいつか辿りつけるんだから、一瞬で移動する必要なんてないさ)
かれは思った。
日常生活なら、それでいい。かれはこれからも、そのように生きてゆくだろう。だが、それでは緊急事態に間に合わないことがある。そして今がその時であった。のんきな真吾も、さすがに、どこまで歩いても変わらない景色に焦りを感じはじめていた。
(……まいったな)
少し歩けば、ここがどこの霊界であるかわかると思っていた。この地に住まう霊人に出会うか、町に辿り着くことさえできれば、それは可能なはずだった。だが、いくら歩いても、町もないし、霊人の姿もない。
(まさか無人ということはないだろうに)
真吾は訝しく思う。
中間霊界最下層とは言え、こうしてひとつの霊界を形成しているのだから、必ずどこかに霊人がいて、その霊人たちが何人か集まれば、集落や村、あるいは町が作られてゆくはずなのだ。
だから、霊人はいる。その霊人に遭遇しないのは、この霊界が真吾が考えている以上に広大であるからなのだろう。
(まいったな)
かれはだんだん困惑してきた。
こうしている間にも、思いつめたはるかが地獄へ行ってしまうかもしれない。
かれは不安な気持ちを押し殺すように思った。
(仕方がない。もう一度、移動の技を使ってみるか……?)
危険な賭けだったが、少なくとも、こうしてあてもなく歩いているより、速度があがるのは確かだった。
(最果ての地のグランドリバー。ここが最下層なら、そんなに遠くないはずだ。おいらはグランドリバーを実際に見たことはないけど、想像して、念じれば……運が良ければ、川近くに出れるかもしれない。でも失敗して、もし、川のど真ん中に着地でもしたら、そのまま激流に巻き込まれて地獄に――ってこともあるだろうなあ)
それはとても恐ろしい想像だった。
間違って、川に落ちて、地獄へ行ってしまったら、ちゃんと中間霊界に戻ってこれるのだろうか、と思う。
ただの霊人なら難しいだろう。川に落ちた霊人が、中間霊界へ戻って来たという噂を真吾は聞いたことがない。だが、天使の僕であり、地獄の門の番人をつとめる今の真吾なら、それは不可能でないことのように思える。
真吾は真剣な表情になって、立ち止まった。
(覚悟を決めるか)
はるかを地獄に行かせてはならない。
地獄で、たとえ苦労の末に母親を探し出せたとしても、はるかが幸せになることはけしてないのだから。地獄では、妬みや憎しみ、怒りといった感情が如実にあらわれてくる。地上界では隠すことができた憎悪の本心が、霊界では――とりわけ地獄では隠せない。それどころか、増幅されてしまう。
もし母親がはるかを嫌っていて、そのためにはるかを置き去りにして行ってしまったのだとしたら、地獄にいる母親を訪ねていったところで、はるかが大きく傷つくのは目に見えている。それに、母親と違って、あの幼い霊人自身は地獄に行くべき霊人ではなかった。
その時だった。真吾は顔をあげた。
「あ」
大きく声をあげる。
「そうか」ふと、ひらめきのような思念がおりてきた。
ここがどこの霊界であるかなど関係なかったのだ。かれは最果ての地に行かなければならないと思うあまり、そのことばかりに気をとられていたが、要するに、はるかの波動さえ追ってゆけば、今、どこにいようが、次にどこに着地しようが関係なかったのである。
勿論、はるかが既に川に入ってしまっていたとしたら、真吾も一緒に川に落ちることになるだろうが、その時はその時だと思うことにした。
(おいらは、バカか)
かれは自分の迂闊さに嫌になりながら、はるかの波動を思い出しはじめた。
◇
真吾は再び、飛んだ。
集中して、はるかの波動を思い出し、その手がかりを探すようにしながら、頭のなかで座標を思い描く。
一度目は、全く違う霊界に出た。緑と黄色の変わったデザインの服に身をつつんだ霊人たちの食卓の上に飛び出てしまって、慌てて、謝った。その次は異国風の、瀟洒な塔が乱立する都のようなところに出た。やはりそこにもはるかはいなかった。真吾は再び、飛んだ。大森林のような霊界に出る。
(はるか……)
どの霊界にも微弱なはるかの波動が感じられた。だが、はるか本人はいなかった。真吾は焦る気持ちを落ち着かせようとして、深呼吸した。
(大丈夫だ。こうやって追ってゆけば、必ず見つけられる)
祈るように思う。
それにしても、さっきからいくつもの霊界を随分、大胆に移動しているが、いつから自分はこんなことが出来るようになったのだろうと考える。真吾はこんなに自由に様々な霊界を行き来できる力は持っていないはずなのだ。
(どうして――?)
だが、そのことを深く考える余裕はなかった。
かれは考えることは後回しにして、次の霊界に飛んだ。瞬間移動を続けるうちに、少しずつ、真吾にも移動のコツが掴めてきた。かれは精度を増すように念じて、はるかの波動を探した。そして、かれはついに、はるかを見つけることが出来た。




