第3章------(4)
「ねえ。真吾さん。わたしたち、どこまで行くの」
雲海の上にくねくねと続く道を歩きながら、はるかが聞いてきた。
アフターワールドに不思議はつきものだったが、この道はまた格段に不思議だった。どこまでも続く雲海を左右で二分するように平らな道が続いている。道の下は切り立った崖のようだったが、下の様子は全く見えない。ただ、おそろしく高い場所にあるということしかわからない。
高所恐怖症の者なら、恐怖で、一歩も踏み出せなかっただろう。そうでない者にとっては、その道はまるで雲の上を歩いているようで、爽快だった。
青空が高くて、日差しが暖かい。時々、雲の海に浮島のように浮かんだ高山の峰が見えたりする。
真吾たちは時々、立ち止まって、その絶景に感嘆の声をあげた。しかし、はるかは周囲のすばらしい景色より、不安のほうが大きいようだった。
「こんな道、わたしは通ったことないよ。本当にこっちでいいの?」
はるかの言葉遣いはだいぶくだけたものになっていた。もともとしっかりした子なので、その年齢にしてはちゃんと敬語を使うことができる。だが、真吾のやさしい顔つきとのんびりした声を聞いているうちに、警戒心をほどいてきたようだった。
真吾ははるかに笑いかけると、「大丈夫だよ」と言った。
「この道は近道なんだ。普通は来れない道だから、初めて来るのは当たり前なんだよ」
「そうそう。真吾はこう見えて、天使の手形を持ってるからね」
一緒に着いてきたベアトリーチェが口をだす。はるかは聞いた。
「天使の手形?」
「大天使ラファエル様からもらったのよ。天使の僕の仕事をするために」
ベアトリーチェが得意そうに言った。手形を持っているということは、真吾が特別な仕事を与えられている証拠である。兄のマルコほどではないが、真吾を尊敬しているベアトリーチェとしては、そのことが誇らしいようだった。
「よくわからないけど……すごいんだね?」
はるかが小首を傾げて、聞き返す。ベアトリーチェは頷いた。
「そうよ。だから、兄さまとあたしは真吾のために町づくりを頑張ってるの」
「兄さまって――ベアトリーチェ、お兄さんいるの?」
「いるよ。マルコって言うんだよ。けっこういい男だよ」
ベアトリーチェが小さな胸をそらすように言う。その少女たちの会話を聞きながら、佐吉が真吾を腕でつついた。
「なんで、俺までこいつらの子守をしなくちゃならないんだ。お前ひとりで充分だろ?」
「そんなこと言ったって、お前とおいらであの子を施設まで送り届けるように言われたんだから、仕方ないだろう」
真吾は真面目に言い返す。佐吉は真吾を引っぱっていって、声をひそめた。
「だからって、何もバカ正直に四人でぞろぞろ行く必要はないってことだよ。俺ぁ、少しそこらで遊んでゆくから、お前たちがあの子を送りとどけた帰りにでも合流して、一緒に地獄の門に帰ろうぜ。それでいいだろ」
「佐吉。お前、また――」
またはじまった、と真吾は唸る。
佐吉は地獄の門での仕事をはじめてから、比較的、真面目に働いていた。真吾はそのことに感心していたのだが、やはり、その真面目さはそろそろ限界に達していたようだった。
これまでは、忙しすぎる環境と常に先輩に見張られていたことで、おおっぴらにサボることはできなかった。だが、井上はるかを養護施設へ送り届けるため外出したことで、その箍が外れてしまったようだった。
「お前、自分がどんな立場か忘れてないだろうな?」真吾は怒った声を出す。
そもそも佐吉は元々の横田四丁目が消失した時、地獄へ堕ちてゆく運命だった。それを真吾がラファエルに頼んで、自分の仕事を手伝わせることを条件として、特別に中間霊界にとどまらせたのである。
真吾としては、自分の手伝いをさせることで少しでも佐吉に善の条件を積ませてやりたかった。そうすれば、佐吉の霊人レベルを上げることができ、新しい横田四丁目にも馴染んで暮らせるようになる。だが、佐吉の言動は、そんな真吾の思いを真っ向から裏切るものだった。
佐吉は面倒くさそうに真吾を見た。
「忘れてなどいるもんか。俺は今日まで真面目に働いてきたじゃないか」
「まあ、そうだな」真吾は、一応、認めてやった。佐吉は真吾が同意してくれたことに力を得たように話しはじめた。
「そうさ。だから、これからも頑張って働くつもりだ。でも、少しだけ、休みたいんだ。いくらなんでも、あの門は忙しすぎる。いくら肉体を持たない霊人だってな、疲れるんだよ。気持ちをやすませたいと思うんだよ。それのどこが悪い?」
開き直ったように言う佐吉を見て、真吾は嘆息した。
「悪いよ、善いわけがない」
佐吉はいつもそうだった。
自分の理屈をつけて、物事を捻じ曲げようとする。いつか、霊人レベルが低くなりすぎて、やはり地獄に堕ちるしかないとなった時、佐吉が真吾に泣きついてきたことがあったが、その時も今と同じような会話をしたことを真吾は思い出した。
佐吉は下唇をつきだした。
「ふうん。お前ならそう言うと思ったよ。でもな、真吾。俺は考えたんだけど、あの地獄の門で、地獄行きの連中の気楽そうな顔を見てたら、地獄も悪いところじゃないのかもな、って気がしてきてね。あっちに行けば行ったで、楽しく暮らせるんじゃないか?」
「佐吉!」
真吾は押し殺した声で叱咤した。
その怒りの波動を感じ、ベアトリーチェが驚いたように真吾を見る。幸い、まだ霊人としての経験が浅く、ベアトリーチェとの会話に気をとられていたはるかは気づかなかったようだった。真吾は佐吉を――かれとしては珍しく本気で怒って、睨んだ。
「冗談でもそんなこと言うんじゃない。お前は地獄の恐ろしさを知らないんだ。あそこで永遠に暮らすということが、どういうことかわかっていない。お前、どれだけの霊人たちが羨ましくて仕方がない立場に自分がいるかわかっているのか」
「――なんだよ。恩着せがましいな」
佐吉は口をとがらせた。それから、だが、さすがにちょっと言い過ぎたことを理解したように、「冗談だよ。すまんすまん」と謝った。
その場はそれでおさまった。
だが、真吾は気づいていた。
佐吉の言葉はあながち冗談ではなかったということを。佐吉は、中間霊界中間層にある新しい横田四丁目より、地獄での暮らしのほうに惹かれはじめているのだ。
ともあれ、雲の上の道は快適だった。
この道は様々な階層の霊界につながる道であり、通常の道を使うより、かなり早く目的地へ到着することができる。もっとも、アフターワールドに存在する全ての霊界に直結しているわけではないので、目的地に近い霊界におりて、そこからは通常の道を使って移動しなければならない。
ちなみに、菊音のような高位の霊人であれば、一瞬で、心に念じた霊界に移動できる。だが、そうでない者たちの移動手段は、やはり自分の足だった。
中間霊界の多くの霊人たちは自分が属する霊界、またはその周辺までしか移動することができない。真吾たちのようにいくつもの霊界を飛び越えて、違う階層の霊界に行くことなど不可能なのだ。
真吾たちが移動できるのは、ただ彼らが天使の僕であり、大天使ラファエルから借り受けた天使の手形を持っているからにすぎない。そして、天使の手形の効力は抜群だった。
「はい、次の人。ああ、天使の手形だね。お勤め、ご苦労さん。行っていいよ」
真吾が差し出した手形にポンと判子を押して、関所の役人が言った。本来、関所の検問は厳しい。だが、天使の手形を持っていれば、ほとんどフリーパスである。真吾は手形を懐にしまいながら、人懐っこい笑顔で言った。
「有り難う。お役人さん、ちょっと道を聞きたいんだけど――」
「ふむ。言ってみろ。後ろがつかえてるから、手短にな」
役人は親切だった。
真吾が養護施設までの道を確認して仲間のもとへ戻ると、ベアトリーチェが近づいてきた。真吾を見て、少し、照れたような微笑みを浮かべる。はるかも、何か言いたそうに真吾を見ている。真吾はベアトリーチェに声をかけた。
「どうした。何かあったのかい」
「えっとね。お願いがあるのです」
「どんな?」
真吾が聞く。ベアトリーチェは真吾から目線をそらして、言いにくそうに言った。
「あのね、実は、はるかが次の町を見てみたいって言うのです……ほら、はるかはまだアフターワールドに慣れてないでしょ? だから霊界が珍しいんだよ。それで、少しだけ町をぶらぶら歩いてみたいって……できればショッピングなんかもして――」
最後の言葉は口のなかでごにょごにょとかき消える。勿論、ベアトリーチェもそうしたことが本来、許されたことでないことは知っている。また、真面目な真吾が許すとも思ってない。だが、せっかく遠くの霊界に来ているのだし、知らない町の珍しい物を見物したいという好奇心を抑えきれないのだろう。すると、佐吉がすかさず言った。
「ほーら。そうだろう? 誰だって、少しは遊びたいんだ。面白いものや珍しいものを見て、うまいもの食って、いつもと違うところの違ったものを堪能したいんだ」
真吾の口は真一文字に結ばれた。
ベアトリーチェのほうは、どうやら、はるかにお願いされて仕方なく聞いてきている雰囲気だった。少なくとも、彼女は佐吉より物事の本質をわきまえている。だが、彼女も町に全く興味がないわけではなさそうだった。
「ほ、ほら。色んな町を見て、横田四丁目の町づくりに生かしたいと思うのです!」
「わかったよ」仕方なさそうに息を吐き出し、真吾は言った。
「それじゃ、そこの町で昼飯を食べてゆこう。でも、長居はしないからな。今日中には、はるかを目的地へ送り届けないといけないんだからな」
「わかってるって」
「ありがとう、真吾」ベアトリーチェと佐吉は声をそろえて言った。そうして、彼らは嬉々として、その町の一番大きなレストランに入り、好きな料理を注文し、その味を堪能した。
町には珍しい物で溢れていた。異国風の、見たこともないような生活道具や装身具、綺麗な模様の布や、衣服などの屋台を見て歩いて、彼らははしゃいだ。
その姿を眺めながら、真吾も町に立ち寄って、良かったのかもしれないと思った。
何より、ずっと沈んだ表情だったはるかに笑顔が戻ったことが嬉しかった。はるかは人間としてごく若いうちに死に、死後もたった一人の母親に捨てられ、養護施設に預けられることになる。
そんな薄幸な少女に、少しでも喜びを与えることが出来た。そんなことを真吾は考えていた。
だが、そのはるかが消えた。気がついた時、少女は真吾たちのそばにいなかった。




