第3章------(1)
真吾は地獄の門番になった。
いや、正確には地獄の門番のアシスタントになった。地上界では一秒ごとに数多くの人間が生まれ、死んでゆく。死んで肉体を失った霊人たちはアフターワールドに導かれ、各人のペースで永遠の地と呼ばれる、その霊人たちが永遠に暮らすことになる霊界を探しもとめてゆく。
だが、その途上で道に迷ってしまったり、間違った霊界に迷いこんでしまう霊人たちも多かった。真吾たちはそうした霊人たちを本来の方向へ導いてやる。門の詰め所の資料庫にある膨大な帳簿を調べて、迷子になった霊人たちの行き先を確認し、教えてやるのである。
そうして、霊界においてこうした門はいくつかあったが、地獄の門が最も混雑していて、詰め所の仕事も忙しいのであった。
「おい。新入り。この女性の行き先を調べてやってくれ」
ガラッと戸を開けるなり、役人が言った。帳簿に書き込みをしていた真吾は顔をあげて、「はい」と答える。腰を浮かしかけると、役人は首を横に振った。
「お前じゃない。もう一人のほうに頼もう」
佐吉のほうを見て言う。佐吉は厄介ごとの予感を感じて、あからさまに不満の波動をだした。
と言うのも、この地獄の門を訪ねてきた霊人は、普通は外の窓口の前に列を作って、審査を受ける。その列に並ばず、直接、役人が連れてきたということは、この中年の女には何らかの事情があるということだった。役人が佐吉を睨んだ。
「不満そうだな。言いたいことがあるのか」
「いいえ。別に」
佐吉は仏頂面で答えると、面倒くさそうに女を見た。
「それじゃ、ミズ……あんたの名前は? どこで死んだか覚えてるかい」
青い目をした、上品な雰囲気の中年女はかるく肩をすくめるようにした。死後からまだ日が浅い彼女は、地上界でも、役人というのはだいたいこういうやる気のない態度であったことを覚えているのだろう。たいして腹を立てた様子もなく、佐吉の質問に答えはじめた。
「はいはい。えっと、オークランド、ね。アメリカの?」
佐吉は書類を一枚とって、書きこみながら聞いた。女が答える。
「違うわ。ニュージーランドよ。スペルが違うでしょう」
「ニュージーランド?」
「まさか知らないの」
「そんなわけないだろう。知ってるよ、知ってるとも。少し――待て」
佐吉は背中を向けるなり、棚のなかから資料をばさばさと取り出して、急いでページをめくりはじめる。
この地獄の門には、世界各地のあらゆる情報がそろっている。詰め所で働きはじめた初日に、真吾と佐吉は世界地図を渡された。それで彼らは生前、知らなかった多くの国々が地上界にあるのだということを知った。
「ニュージーね……」
佐吉は生前、文学や美術に通じていたので、ヨーロッパのことはかれが生きた時代の人間としてはよく知っていた。その後、霊人となってからも、少しずつその他の国について知るようになっていたから、ニュージーランドという国名は知っていた。だが、比較的若い国である、この太平洋南西部に位置する、日本からはるか遠い島国の詳細はさっぱりわからなかった。
佐吉の沈黙が長くなるにつれ、女は胡散臭そうに佐吉を見る。真吾は机のなかから、自分用にまとめた資料を取り出した。
「これじゃないのかな。ほら、オークランドってある――カリフォルニアじゃないほうだ。このコードでそっちの資料を調べてみるんだ」
真吾が佐吉の資料に指をあてる。指先がぽわっと光り、そこにコードを入力してゆく。すると、たちまちオークランドで最近亡くなった人間のリストが光のパネルとなって頭上に表示される。
「ほら、このなかにこの人の名前があるはずだ」
「おお。助かった」佐吉は明るい表情になった。
それから女の行き先を確認し、案内用の地図を取り出して、説明しはじめる。ところが、女は自分の行き先を確認することより、地上に残してきた身障者の息子が心配で、しばらく地上界にとどまりたいのだと言い出した。佐吉はそれは出来ないと言って聞かせる。女は頑なに「ノー」と言う。
実は、こうしたやりとりは、よくあることだった。地上に未練を残してきた霊人たちほど、霊界に来て、道に迷いやすい。真吾たちも女の言い分は理解できる。だが、霊界の法は厳格で曲げられない。今回の場合も、相手が納得するまで話して聞かせるしかなかった。
佐吉は、かれとしては相当、我慢強く説明しているが、思い通りにならないことに腹を立てた女がだんだん激昂してきている。真吾が慌てて、佐吉を助けようとした時だった。今度は別の役人から声をかけられた。
「桜田。俺はこれから休憩に入るから、悪いが、代わりに外に立ってくれ。二番窓口だ」
「はい。でも――」
真吾が心配そうに佐吉のほうに目を向ける。
「あれは大丈夫だ。放っておけ。何かあったら、俺が対処してやる」
「わかりました」
真吾は腰を押さえながら、よっこらしょと立ち上がる。役人は真吾に言った。
「すまんな」
「いえ」
この詰め所は人使いが荒い。
役人たちは真吾と佐吉がアシスタントであることなどおかまいなしに、自分たちの仕事を押しつけてくる。一応、名ばかりの研修はあった。しかし、仕事のほとんどは実地で覚えるぶっつけ本番だった。
だが、それも仕方のないことだった。
何しろ、この地獄の門の詰め所にはひっきりなしに霊人が押し寄せてくる。窓口に並ぶ霊人たちは常に百人以上いたし、その列が途切れることはない。新人を丁寧に教育する人も時間もないのだ。
(菊音さんもラファエル様の研修がスパルタだったと文句を言ってたけど、ここの忙しさはそれ以上かも――)
仕事の内容はともかく、忙しさにかけては、負ける気がしない。
また、真吾は死んだ人間たちの八割がたが地獄へ行くという事実を、この場所に来てから、はじめて知った。残りの二割は中間霊界に振り分けられ、それより上の高級霊界やパラダイスへ行く霊人などほとんどいない。
あの強力な善霊の菊音にしても、中間霊界なのだ。もっとも中間霊界と言っても幅は広くて、真吾たちがもともと暮らしていた横田四丁目とは比べ物にならないほど、菊音の霊界は上層部に位置していたが。
ともあれ、だから、この詰め所がとても忙しいのは必然なのだった。
◇
(おいらたちは最下層とは言え、中間霊界にいられただけ、まだマシだったのかもしれないなあ)
窓口に立って、判子を押しながら、真吾はそんなことを考えた。列に並んだ霊人たちのほとんどは地獄に行くことが決定されている。真吾はそれを淡々と霊人たちに伝えてゆく。もし、自分が地獄に落とされる立場だったら、目の前の霊人たちほど平静でいられなかったに違いない。
「あんたの行き先は地獄の中間層、ゴールデンブリッジという町だ。そこに管理局のお役人がいるから、その人に登録してもらって、しばらくそこを拠点として暮らせばいい。永遠の地はあんた自身でゆっくり探すことになるけど、多分、この町の近くの霊界になると思うよ。これが地図。それからこれが霊界の基本案内を書いた小冊子だ」
「はいよ。そのゴールデンブリッジってどんな町なんだ?」
顔に傷のある霊人が小冊子を懐に入れて、聞いてくる。地獄行きだと聞かされても、驚いた素振りも見せない。真吾は内心、目の前の霊人の豪胆さに呆れながら、手元の資料に目を落とした。
「炭鉱の町――金が採掘されるらしい。歓楽街なんかも有名だ」
「そりゃ最高だ。仕事もあって、娯楽もあるのか。たまらんね」
霊人は口笛を吹いた。その波動に偽りはなかった。真吾は驚いて相手を見た。
(この男は本当に――地獄の町へ行くことを楽しみにしてるんだ。どうして……地獄はとても怖いところなのに。この男は地獄の恐ろしさを知らないのか?)
戸惑いながら思うが、男が地獄がどういう所なのか知らないはずはないのだ。そのことは霊界に来たごくごく初めの段階で、教えられるはずなのだから。
「行っていいよ。次――」真吾が言う。男は頷くと、去って行った。それから子供をつれた痩せた女が真吾の前に立つ。真吾は言った。
「あんたの名前と死んだ場所を教えてほしい」
大天使ラファエルが真吾に地獄の道案内――門番の仕事を与えたのは、門に集まる膨大な情報のなかから、真吾にかつて生き別れた妻の行方を探させるためだった。
ラファエルによるとお幸は自殺して、今は地獄にいるという。そして真吾を酷く恨んでいて、怨霊となって真吾にとりついているということだった。
(お幸……)
結婚したばかりの頃の、初々しい、可愛らしい顔を思い浮かべてみる。
あのお幸が真吾を裏切って他の男のところへ行こうとは、誰が想像できただろうか。神田で幼馴染みの男と暮らすお幸の姿を実際に見た真吾でさえ、にわかに信じることができなかった。いや、今でも、何かの間違いだったのではないかと思いたい気持ちがある。
(お前は地獄にいるのかぁ)
心の奥がずきんと痛む。
(怨霊――お前には似合わないなあ。なんで、おいらを恨むんだ? おいらはお前に何か悪いことをしたか? お前は生前、幸せだったんじゃないのか? お幸。答えてくれよ。おいらの声が聞こえないのか?)
応えはない。真吾は目を閉じて、自分についているお幸の気配を探ろうとしたが、感じることは出来なかった。だが、かすかに体全体が重くなっている気がした。
(おいらがお前のところに行ってやる。どうせ――地獄にいるお前からは動けないんだろう? だからもう少し待っていてくれ。お前の話を聞かせてくれ、お幸)
かれはもどかしく思った。




