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第2章------(15)



 真吾は新しい横田四丁目に立ち尽くしていた。かれのすぐ近くでは、興奮した様子のマルコとベアトリーチェ、そして佐吉が賑やかに話している。真吾もその会話の輪に入りたかったが、今はとてもそんな気分になれなかった。


 先ほど、菊音に忠告されたことが忘れられない。


(おいらを恨みながら自殺した霊が入り込んで……?)


 全く気がつかなかった。


 そもそも真吾は霊人である。地上界の人間たちに霊人が降臨することはよくあるが、肉体をもたない霊人の体に入り込もうなどと考える霊人がいるのだろうか。そんなことをしても、何の恩恵も受けられないし、苦しみをまぎらわせることも出来ないはずだった。


(どうして……)


 集中して感覚をとぎすませてみたが、自分のなかに他の霊人の存在を感じることはできなかった。


 だが、菊音に言わせると、稀にそうしたことが起こるのだそうだった。


「地獄へ堕ちて怨霊となった霊人は、普通は地上界の子孫のもとへ向かいます。でも、たまにどうしてもその相手自身に恨みをはらしたい時、その恨みの対象人物が死んで霊人になってしまった時などはね、その霊人にとりつく霊がいるのよ」


「霊人にとりつく――?」


 真吾はショックを受けたように呟いた。


 意味がわからなかった。さらに菊音によると、真吾の生前の持病――心臓病や腰痛、そして痔などがこの霊界でも引き続き真吾を悩ませ続けているのは、その怨霊の仕業なのかもしれないということだった。


「普通はね、生前の肉体の不調は霊界ではだんだん消えてゆくのよ。それが死後五十年もたって消えないのには理由があるはずだわ」


 真吾は腰痛持ちだ。生前の持病であった心臓病もあるし、痔も痛い。それらが時々、真吾を苦しめるのは、いつか佐吉にポイントをわけてやったことが関係していると真吾は考えていた。そのことを話すと、菊音はほっそりした肩をすくめてみせた。


「誰かにポイントをわけあたえたら、その分、本人のレベルは落ちます。また、地上界で生きている子孫が悪行ばかりしていたら、やはりレベルは落ちます。レベルが落ちれば、この霊界で地獄からの影響を受けやすくなるから、体の一部が痛むこともあります」


「それは生前と同じふうにということですか」と真吾。


「個人差はあるけど、だいたい違うわね。お前のように生前とそっくり同じところが痛いというのは珍しいわ」


 真吾はすすきのにいる子孫の若者のことを考えた。あの若者は愛嬌があってどこか憎めないが、けして日々、善行をしているとは言いがたい。真吾はあの若者からの影響もあって、腰痛が酷いのだと思い込んでいた。


「わたくしたち霊人は肉体を持っていないから、確かに子孫からの影響を受けやすい。でも、だったら、なぜ同じ子孫を持ちながら、わたくしはお前のように体の痛みを感じないのかしら。わたくしだって、遠いけれど、あの若者の先祖なのよ」


「それは――菊音さんのほうが霊人レベルが高いから……?」


 真吾が心もとなげに言う。菊音は「そうね」と頷いた。


「それもあります。でも、考えてみなさい。だいたい、霊人一人に対して、子孫がいったい何人いるかということよ。わたくしのように千年以上生きていれば、その数は数え切れません。そのひとりひとりの子孫の悪行の影響を受けていたら、いくらレベルが高くても足りません。そうは思わない?」


 言われてみればその通りだと真吾は思う。


 そんなことになれば、霊人たちは常に皆、体の具合が悪いことになりかねない。だが、真吾のまわりには、真吾のように生前の体の不調を訴える霊人はほとんどいない。では、なぜ真吾は今もって生前の持病に悩まされるのか。


「普通は子孫から影響を受けても――全体から見れば、たいしたことはありません。むしろ、霊界にいる悪霊が自分の苦しみを訴えたくて、地上界の子孫に干渉する力のほうが強いものです。だから、お前の体の不調は主に怨霊によるものでしょう」


 菊音はきっぱり言った。





 真吾の顔色は浮かなかった。菊音は真吾のことをラファエルに相談するので、しばらく横田四丁目で待機しているようにと言い残して、去っていた。


(怨霊つきだなんて言われても、ピンとこないし、ちょっと腰が痛くなる程度なんだから、別にたいしたことは……)


 真吾は何とかして自分の状態が深刻なものではないと思いたい。仮に、もし本当に、今の状態を怨霊つきと言うとしても、真吾が実感する限り、そのことが日々の活動に支障を与えることはほとんどないのだ。


 だが、菊音はそれが真吾の霊人を曇らせている原因になっているのだし、このまま放置していれば、やがて取り返しがつかないことになるだろうと言った。


 真吾はため息をついた。


 菊音によると、怨霊は女だという。


 女と聞いて、真吾は内心、ぎくりとするものがあった。


 ひとりだけ、心当たりがあった。


(まさか……まさか――お幸?)


 お幸はかつて真吾が結婚した相手だった。だが、新婚数ヵ月後、ふたりは離れ離れになる。お幸は二度と真吾のもとへ戻ってこなかった。理由は女の浮気であった。だから、真吾がお幸を恨むことはあっても、お幸のほうが真吾を恨む筋合いなどないはずだった。


(どうして……)


 真吾は混乱した。自分についている怨霊はお幸なのか。それとも別の女なのか。

 けれども、お幸以外で、真吾の生前の人生に深く関わった女はいないはずだった。晩年の真吾のまわりは賑やかで、真吾のことを快く思ってくれる女たちもいたが、彼女たちにとって真吾は友達であり、真吾のほうもそれで満足していた。


(おいらは、お幸の死に際を知らない。ずっと会ってなかったから。あのお幸が自殺なんて考えられない……だから、きっとお幸じゃない。でも、もし、お幸がおいらを恨んで、怨霊になっていたとしたら……?)


 考えるだけでも、恐ろしかった。しばらく真吾は考え込んでいたが、おもむろに顔をあげた。かれは心を決めた。


(ラファエル様のところへ行こう)


 菊音の帰りをのんびり待つことはできなかった。そのことを知ってしまった以上、一刻も早く、ラファエルに疑問を解決して欲しい。


 大天使は一目で真吾が怨霊つきであることを見破った。ラファエルなら、その怨霊が誰であるのか、また真吾がどうすれば良いのか教えてくれるだろう。


 何より、かつて心から大切にしていた女が地獄で苦しんでいるかもしれないということが、真吾には耐えられなかった。


 しかもお幸は苦しみを伝えたくて、子孫ではなく、霊人となった真吾のなかに降臨しているかもしれないのだ。霊人に降臨しても、肉体を持っていないのだから、何の救いにもならない。おそらく、そんなことはお幸自身もわかっているだろうに。


(お幸を……救い出してやりたい)


 かれは、それまでお幸に感じていた自身の恨みを忘れて、思った。


 その時、光の輪が空から降ってきた。光はゆるやかに人の形になり、真吾の前に降り立った。翼を広げたラファエルだった。





     ◇





 真吾が二十三歳の時、祝言をかわした相手は真吾がつとめる和菓子屋の番頭の娘だった。


 名を幸といった。


 けして誰もが振り返るような美人ではなかったが、はにかむような笑顔が可愛らしくて、真吾は一目でお幸を好きになった。


 新婚生活は幸せだった。


 だが、その同じ年、東京を中心にした大地震が起こった。後で言う、関東大震災だったが、その報せを聞いた妻の顔は真っ青だった。新聞には「東京崩壊」などの文字が並び、情報が錯綜し、誰もが大きなショックを受けた。その数日後、妻が消えた。


 後になってから、真吾はお幸が東京に行ったことを知った。


 彼女の幼馴染みの男が東京で暮らしていて、お幸はその安否を案じたのだという。


 幸い、幼馴染みは生き残った。だが、倒壊した家屋のなかから助けだされた後遺症で、重い怪我を負った。そしてその看病をするうちに、お幸は幼馴染みと同棲をはじめてしまったのである。


 何年間も、出て行ったきりの妻の帰りを待ち続ける真吾を不憫に思った誰かが、真吾に真実を告げてくれた。真吾は絶望に突き落とされた。


 それでも、お幸の裏切りを信じることができなくて、真吾はついに札幌から東京の神田に辿り着く。男と暮らすお幸の姿を物陰から見て、声を押し殺して泣いた。


 その日、真吾はお幸に声をかけることが出来なかった。


 幸せそうに見えたお幸の姿を見ただけで満足しようと、自分に言い聞かせた。


 けれども、札幌に帰ってからの真吾は荒れた。あの日のことを思い出すと、霊人となった今でも、真吾の心はいたたまれなくなる。





     ◇





 以来、真吾はお幸と会っていない。


 アフターワールドに来てからも、同様だった。時間と空間を超越したこの世界でなら、念じれば、簡単に会うことができるはずだったが、真吾はそうすることが出来なかった。


 また、お幸のほうからも、真吾に呼びかけてきたことは一度もなかった。そのことが、真吾とお幸の関係を如実に物語っているように感じられた。だが、お幸が怨霊となって、真吾のなかに入り込んでいるかもしれないとなれば、話は別だった。





「ラファエル様。おいらに怨霊がついているって、本当ですか」


 真吾はラファエルの姿を認めると、単刀直入に聞いた。ラファエルは既に菊音から話を聞いていたのだろう。すぐ答えた。


「そうだ」


 真吾は一瞬、口を引き結び、勇気をふりしぼるように聞いた。


「その怨霊は――誰なんですか」


「お前の考えているとおりだよ、真吾」


 その声音にはいつにないいたわりの波動があった。それで真吾は、大天使の言葉に偽りはないのだと悟った。


「お幸は、自殺したんですか? なんで。東京で見た時、あんなに幸せそうだったのに」


 たちまち、真吾の感じやすい目に涙がこみ上げてきた。天使は静かな表情でそれを見守り、それから言った。


「理由はわからない。だが、結果はそうだったらしい。本人に問いただせればいいのだが、それはできない。お前についている怨霊は女の恨みの思念だけだ。本体は地獄にいる」


「……」


「どうするかはお前自身で決めればいい。このまま怨霊を放っておくこともできる。菊音の言うように、怨霊はお前を地獄に引き込む要素となるが、それはすぐにどうこうなるという話ではない。地上時間であと千年は大丈夫だろう。ただ、怨霊つきであると、お前の霊人の成長が妨げられることは確かだ。菊音はお前を早く即戦力として使いたいから、怨霊を祓えと言ってきたのだろう」


「怨霊を祓うことができるんですか?」真吾が躊躇いながら聞く。ラファエルは頷いた。


「私なら出来る。ただし、それは強制的に引き剥がすことになるから、怨霊の本体に相当なダメージを与える。それにその怨霊は既にお前に随分馴染んでしまっている。無理に剥がせば、女の自我が壊れるかもしれない」


「――他に方法はないんですか?」


「本人が自発的に離れれば、それで済む。だが、それは無理だろうな。怨霊になるほど、お前に伝えたいことがあるのだ。最後の手段としては、お前自身が怨霊本体のところまで出向き、自分で説得することだ」


「え」真吾は弾かれたように声をあげる。天使は美しい顔で言った。


「もしお前に勇気があるなら、地獄の道案内の仕事を与えてやろう。地獄は広い。会おうとしても、すぐ相手に会えることは少ない。お前は天使の僕としての仕事を地獄の入り口でしながら、女の行方を調べることができる」


「お幸の行方を――」真吾は呆然となった。


「決めるのはお前だ。このまま怨霊を放っておくこともできる。今、強制的に祓うこともできるし、また、お前自身が怨霊を説得して、自ら退かせることもできる」


「お幸が一番、傷つかない方法は……?」


「説得することだな」


 天使の言葉を聞いて、真吾は黙った。躊躇うように何度も唾を飲みこみ、やがてラファエルを見た。


「わかりました。おいらがあいつと話してみます」


 かれは言った。






                             (第2章脱稿)



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