第2章------(14)
ともあれ、菊音の申し出は、真吾にしてみれば、願ってもないものだった。
かれはもともと新しい横田四丁目を作るために天使の僕になったのだ。それが叶うのなら、真吾自身の力によるものではなく、他の誰かに作り出してもらったところで、いっこうにかまわない。
また、その条件として、菊音は生前のあるじを四丁目に住まわせることを言ってきたが、その程度のことなら、全く問題ではなかった。なぜなら、真吾は四丁目を佐吉やマルコたち、あるいは散り散りになってしまった元四丁目の仲間たち、それから新しい移住者たちで賑わう、多彩で明るい町にしたかったのだから。
「本当に四丁目を作ってくれるんですか」
真吾が聞くと、菊音は目元をほころばせた。
「そうよ。この中間霊界のどこかに作りましょう。こちらとしても、姫さまの新しいお住まいを早く見つけて、安定させてさしあげたいのです。真吾、心に念じなさい。あなたの横田四丁目はどのような霊界ですか」
「横田四丁目は――」
真吾はごくりと唾をのみ、思い出すように言った。
平穏だった頃の四丁目を思い浮かべる。真吾はパステルカラーの桃畑を作り、空は鮮やかに色彩が変わってゆき、山々の麓には村があり、町があった。森を抜けたところには海があった。海岸には漁師たちが住んでいて、彼らは小さな舟で毎日、漁に出ていた。そしてたまに驚くような大物を釣り上げてきて、捌いた魚を皆に振舞ってくれる。そういう日は村をあげての祭りのようになった。日々の暮らしは貧しかったけれども、皆、楽しそうにしていた。
懐かしさに涙がにじむ。
真吾が菊音を見る。菊音は真吾が思い描いた横田四丁目を理解したようだった。
「わかりました。平和で住みやすそうな霊界ですね。でも、位置が悪すぎます。中間霊界最下層――これではいつ滅んでもおかしくありません。新しい四丁目はもう少し上に作りましょう」
「上ですか?」
真吾が躊躇いながら聞き返す。霊界の位置が以前より上になるということは、それだけ四丁目を作りだすために消費される霊力も多くなるということだった。菊音はこともなげに「そうよ」と答える。
「このわたくしの個人霊界ほど高い場所でなくても、中間霊界中間層くらいにはしたいところです。とりあえず、お前のイメージで霊界の枠組みだけ作りますから、町の細々したところは、お前たちの望むように変えていけばいい。わかりましたか?」
「は、はい」
真吾は慌てて返事をした。菊音は「よろしい」と言うと、瞼を閉じて、動かなくなった。
「……おい。どうなってるんだ」
一緒にいた佐吉が真吾をつつく。真吾は小声で言った。
「菊音さんが、新しい四丁目を作ってくれているんだよ」
「い、今?」
佐吉が目を丸くする。
「多分……」
真吾は握りしめた手に力をこめて言った。佐吉はうろたえたように真吾を見た。
「嘘だろ、おい。そんなこと――できるのか? 本当に?」
「おいらだってわからない。でも、菊音さんは出来ると言った。だから、出来るんだろう」
「――とんでもねえな」
佐吉が呟く。そして、恐ろしいものを見るような目で菊音を見つめた。佐吉の怯えが波動となってつたわってくる。その気持ちは、真吾も同感だった。
真吾たち程度のレベルの霊人からすれば信じられないことだったが、菊音レベルの霊人なら、可能なのだろう。
レベルとはそういうものであり、霊力が高ければ高いほど、アフターワールドにおいて、その霊人は自由になる。つまり、あらゆる霊界に瞬時に移動することが出来るようになるし、心に思い描くだけで様々なことが魔法のように出来るようになる。
真吾たちも頭ではそのことを理解していた。
だが、中間霊界最下層で桃畑を耕していただけの真吾は、これまでそうした高位の霊人に出会ったこともなければ、その仕事を目の当たりにしたこともなかった。
(本当に――?)
疑うわけではなかったが、信じることができなかった。
そして、菊音の体が少しずつ光り輝いて、白い光の粒子を放ちはじめると、真吾はいやおうなしに菊音の本来の姿に気がついていった。
(そうか。本当に――この人は……)
かれは思った。
菊音は変わり者の、目つきの鋭いだけの女性ではなかった。
(善霊)
その力は四大天使の大天使ラファエルさえ一目置くものなのである。だからこそ、ラファエルは自分の個人霊界に引きこもってしまった菊音を復帰させるために、あれこれ苦心していたのだろう。
(確かに――それはそうなのかもしれないな……そもそも、この菊音さんの個人霊界だって、とてつもない広さだし――さっきのラファエル様との喧嘩だって凄かったし――普通の霊人にあんなことは出来ない)
その菊音が新しい横田四丁目を作ると宣言したのだから、間違いなく作られるのだ。真吾は神妙な面持ちで、菊音が目を開けるのを待った。
「出来たわよ」
菊音の声がして、自分の思いに沈んでいた真吾はハッとなった。
「あ――はい。今、なんて」
「だから出来たって言ってるのよ。時間がないから、さっさと行くわよ。お前たちも自分たちの新しい霊界がどういう場所なのか、見ておきたいでしょう?」
菊音は少し疲れたように言った。真吾が返事をする間もなく、菊音は光の珠を呼び出して、それを真吾と佐吉の頭上に置いた。
「え――」
ふわりと足元が浮く。菊音は驚いている真吾と佐吉を無視して言った。
「新しい横田四丁目はここから少し離れているからね。お前たちが持っている天使の手形を使って、いちいち歩いていたら、日が暮れてしまう。一気に飛ぶわよ。意識をわたくしに同期させて」
「え……えぇ? えぇえ」
真吾と佐吉はわけがわからず、叫ぶように言った。浮遊感の後、急激に落下する感覚に襲われる。彼らは本能的な恐怖を感じて、互いを抱きしめあった。
だが――
落下はすぐ終わった。
気がつくと、真吾の足はやわらかい大地を踏みしめていた。
見ると、豊かな緑の山々と、その向こうに暮れなずむ空があった。空気がすっきりしていて、清々しい。草木の匂いと、お日様の匂い、土の少し湿った匂いがかすかにする。真吾の大好きな匂いだった。
「こ――ここは……」
「新しい横田四丁目よ」
菊音が言った。
「お前の記憶をもとに作ったのだけど、こんな感じでいいかしら?」
「海は! 海はあるのか」
佐吉が興奮したように言った。生前、漁師をしていた佐吉はアフターワールドでも漁師をしていた。菊音は顎をひいた。
「あるわよ。真吾の記憶にあったので、作っておきました。あの山の右側、なだらかになっているところの先が海岸線になっていて、漁ができます」
「ありがてぇ。ちょっと見に行ってもいいか?」
佐吉は菊音の返事を待たず、駆け出していた。その背中を見送って、真吾は菊音を見た。
「本当に、ここが新しい四丁目なんですか……」
「そうよ。何か不満でも?」
「まさか。でも、信じられなくて――」
まだ、家々も畑も道も何もない。だが、ここで真面目に暮らしはじめれば、すぐにそれらのものは出来てゆくように思われた。
「姫さまの庵だけは先に作らせて貰ったわよ。それから、姫さまが修験者のもとに出向くために必要な山と聖域も」
「聖域って」
「わたくしの意識とより深くリンクする場所ということです。聖域はわたくしの意識の一部であるから、その中で行われることは、わたくしの恵みによってなされます。お前、わたくしの個人霊界の聖域で食事をしたでしょう。そのことで気づいたことはありませんでしたか」
「そういえば……」
普段、凍ったジャガイモなどしか取り出せない真吾が、肉と野菜をとりだして、白い米の粥を作ることが出来たのだ。それはすばらしい味だった。
「あれは聖域の恵みによるもの。けしてお前の力によるものではありません」
「なるほど」
心のなかでは、もしかしたらこの短期間で霊人レベルが上がり、それによって取り出せる食料の質が大幅に向上したのではないかと期待しないこともなかったのだが、真吾は素直に頷いた。
「この新しい横田四丁目にもあのような聖域を作ります。よろしいですね」
と聞かれても、真吾は何て答えていいのかわからない。
「姫さまには条件が必要です。それも大至急に。その条件を積ませるために、姫さまは山を登って、毎日、修験者のもとへ供え物を届けなければなりません」
「山と聖域はそのために必要なんですね……?」
真吾が確かめるように聞く。菊音は大きく頷いた。
「そうです。姫さまはこれまであまりに自己中心的でいらっしゃいました。元の霊界でもそれがもとで揉め事になり、追放されてしまいました。それでわたくしが姫さまをひきとり、少しずつではありますが、善のための条件を積んでいただいていたというわけです。姫さまはわたくしをたいそうお嫌いなので、わたくしは姿を見せず、父に生前の修験者に成りすましてもらい、姫さまと相対してもらってましたが」
真吾は老婆の作った握り飯が、修験者の錫杖の輪のひとつになったことを思い出した。だが、そうしたことは霊界の管理局の役人の仕事のはずだった。すると、菊音は真吾の思念を読んだように言った。
「下位の霊人の教育もわたくしの仕事のひとつです。わたくしにはその権限が与えられています」
菊音は役人ではないが、菊音ほどの善霊となれば、そうしたことも出来るらしい。真吾は納得した。
「わかりました。聖域のことはおいらにはよくわからないので、お任せします。けど、それ以外は、おいらたちでこの四丁目を好きに作っていいってことなんですよね?」
「そうよ。家々を作ったり、学校を作ったり、そういうことは好きにしなさい。ある程度、霊人が集まってきて集落が出来たら、ラファエル様に頼んで、正式に役人を置いてもらいましょう。それまでは聖域に供物を捧げることで、条件を積めるようにします」
「わかりました」
真吾は期待に胸を躍らせながら言った。そうして、あらためて新しい自分たちの霊界となった四丁目を見渡す。この美しい霊界にどんな畑を作ろうかと、真吾の心はいっぱいになる。やはり、綺麗で美しいものが作りたかった。皆が笑顔になるような、幸せを運ぶようなものがいい。
(やっぱり桃かな)
そんなことを考えていた時だった。菊音がふと気づいたように言った。
「真吾。あなたもしかして――怨霊つきなのではありませんか?」
「怨霊つき?」
真吾はきょとんと聞き返す。確か、ラファエルも出会ったはじめの頃、同じようなことを言っていた気がするが、真吾はそれについて深く考えなかった。菊音は真吾の背後を見透かすように、目を凝らした。その表情が厳しいものになってゆく。
「――菊音さん……?」
その目つきの鋭さに真吾はぞくりとする。菊音は怒っていない。だから、例によって怒りを向けられているわけではないのだろうが、菊音の眼光の鋭さは心臓に悪い。真吾はいたたまれなくなって言った。
「あ、あのう」
「お前、怨霊がついてるわよ。変だと思っていたのよ。わたくしの子孫らしく、なかなか善い霊人のようなのに、どうも波動に光が少ないと思っていたら、怨霊がお前の足を引っ張っていたのね」
真吾は目をぱちくりさせた。
「そ、それはどういう?」
「お前を恨みながら自殺した霊人がお前のなかに入り込んでいるということよ。お前、生前に誰かにとても恨まれたことがあるでしょう? 女よ。ああ、恨んでいるというか、慕っているのかしらね。どちらにしても、お前が忘れられなくて、苦しみを伝えたくて、お前のなかにいるわ。放っておくと、お前、地獄に引きずりおろされるわよ?」
菊音は恐ろしいことを告げた。




