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第2章------(13)



 菊音と大天使が真吾たちのほうに向かってきたのは、しばらく経った頃だった。激しい戦いを繰り広げ――いや、双方の言い分をつたえあい、誤解をとき、解決策を探るための努力をしていた彼らだったが、結論から言えば、その話し合いは成功したようだった。


 成功したようだったというのは、どちらもすっきりした顔をしていたからだ。


「待たせたな」


 ラファエルが言った。ラファエルの後からついて来た菊音も口もとを袖で隠しながら、コホンと咳払いした。


「お待たせしました。問題は解決しましたわ。見苦しいところを見せてしまったわね」


「……解決、したんですか」


 真吾はやや疑わしそうに聞く。


 戦いから避難するため離れた場所にいた真吾たちに、詳細はわからない。けれども、暗雲がたちこめていた空は今はすっかり晴れわたり、嵐も消え、清々しい山々の景色がどこまでも見えている。真吾は心配そうに菊音を見た。


「大丈夫だったんですか。あの羽のこと――」


「ああ、そのことなら」


 菊音は袖口から天使の羽をとりだした。彼女はにっこり微笑んだ。


「ここにあります。でも、これはラファエル様にお返しすることになりました」


「え?」


 真吾は吃驚する。菊音はその羽を返したくないといって、般若のような顔で泣き叫んだことなどけろりと忘れたように続けた。


「これはわたくしの大切なものでしたが、話し合いの末、ラファエル様がもっと良い物を下さることになったので、お返しします」


「もっと良い物……」


 真吾がラファエルを見る。ラファエルは渋い顔つきをしたが、菊音の気が変わらないうちにと言うように、指をパチンと鳴らした。


「新しい羽だ」


 ラファエルの手のなかに白い羽が現われた。菊音が持っている羽とそっくり同じ形だったが、菊音のものより白く、光り輝いている。


「前のは効力が薄れていたから、新しいものに取り替えたかったのだ。それで羽を返すよう言ったのだが、菊音が誤解して、こんなことになってしまった」


「効力?」と真吾。


 菊音は「そうよ」と頷いて、少し言いにくそうに言った。


「この羽にはラファエル様の霊力が込められているのです。随分、昔のことでわたくしすっかり忘れていましたが……そういえば、昔、四人分の仕事を任されたばかりで大変だった頃、霊力の不足分をこの羽で補って仕事をしていたかなあと――」


「……」


 真吾は呆れた。


 すると、ラファエルは別に菊音ひとりに仕事を押しつけ、無理をさせ続けてきたわけではなかったことになる。ラファエルは不機嫌そうに説明した。


「あの頃から菊音の霊力は飛びぬけていた。それで他の者のぶんの仕事もこなせるだろうと思ったが、もしもの時のために、私の羽を渡しておいた。この羽があれば、菊音の霊力が限界まで失われることはない。不足分を私が助けるからだ」


「成る程」


 ラファエルはちゃんとフォローしていたのだ。真吾が問いかけるように菊音を見ると、菊音は目をそらした。


「で、でも。天使の羽に助けられていたのは、初めのうちだけでしたわよ。その後はわたくしはずっと自分の力だけで仕事をこなしてまいりました。ええ、それはもうずっと」


 だから、羽に霊力が宿っていたことなどきれいに忘れてしまっていたのだと言いたいのだろう。ラファエルは嘆息した。


「私は何度も羽を返すよう言ったはずだ。だが、そのたびにお前ははぐらかしたり、逆切れしたり、こちらの話を聞かず逃げ出したりして、取り付く島もなかった」


「ま――そんな……」


 菊音がラファエルをぎろりと見た。例によって凄まじい眼力だったが、これは菊音なりの愛情表現であるのだと今の真吾は知っている。だが、菊音の気持ちを知らないラファエルは憮然と睨み返した。それからさりげなく目線をそらす。どうやら、ラファエルは菊音に睨みつけられることが、苦手なようだった。菊音はすまして言った。


「でも、今は何の問題もありません。たとえ、この羽の効力がなくなっていたとしても」


「それはお前自身の霊力が上がり、私の助けを必要としなくなったからだ」


「なら、そのままで良かったでしょう」


「新しい羽を授けたかったのは、お前にさらに働いてもらう予定があったからだ。お前は善霊として大きな霊力を持っているが、新しい仕事をしてもらうには、今の状態のままでは不足がある。それで羽を取り替えようとしたのだ」


 大天使が苦りきった顔で言う。


「まあ、大天使さまは今までさんざんわたくしを働かせてきたくせに、もっとこき使うおつもりですね。何て人使いの荒い……」


 文句を言いながらも、菊音の声は弾んでいる。やはり、一千年以上昔の羽を大事に持っているより、新しい羽を与えられることのほうが嬉しいのだろう。


「では、残念ですが、お返しします」


「わかった。これを代わりにするといい」


 ラファエルはホッとしたように菊音から羽を受け取り、新しい羽を渡す。だが、菊音の指が古い羽をなかなか離さない。


「菊音……?」


「あの、お願いがあるのですが、この効力がなくなった羽も菊音のものにしてはいけないでしょうか。二つあれば、わたくしもっとラファエル様のために頑張れると思うのですが。三十年間分のお休みの希望も、十五年分にまけて差し上げますわ」


「ふざけるな」ラファエルが怒気をはらんだ声で言った。





     ◇





 ラファエルは帰った。


「いいか、新しい羽を受け取ったからには、サボった分も含めて、これからしっかり働いてもらうからな。休暇なんてもってのほかだ。我々など、創生の時より、ずっと天の御使いとして働き通しだ。この個人霊界を始末し終えたら、すぐ私のところへ来い。いいか、命令だぞ、菊音」


 という、長い捨て台詞を残して。


 菊音はしかし上機嫌だった。新しくもらったラファエルの羽を大切そうに懐にしまうと、晴れやかな顔つきで真吾と佐吉を見た。それから、信じられないことを言った。


「さて、桜田真吾とやら。今後のことについて話しましょう。わたくしは大天使ラファエル様よりお前たちのことを任されました。今から、わたくしはお前たちの上司です」


「えぇ?」


 真吾と佐吉は驚きの声をあげる。


「上司? 菊音さんが?」


「驚くことはないでしょう。お前たちは天使の僕。わたくしはその先輩。霊力も経験もお前たちの比ではありません」


「それはそうかもしれないけど……」


 腑に落ちない。真吾はきょとんとして菊音を見た。佐吉もわけがわからず、立ち尽くしているようだった。菊音はかまわず続けた。


「わたくしがお前たちを助けましょう。有り難く思いなさい。そして、お前の新しい横田四丁目がこの霊界に構成されたおりには、その一画に庵をむすび、我があるじなる姫を住まわせなさい」


 あるじなる姫というのは、おそらく、生前の菊音が仕えた宮家の姫――つまり、この菊音の個人霊界に住まう老婆のことであるらしかった。


 今、老婆はここにいない。山の天候が回復したので、自分の家に帰ってしまっている。菊音の父親である修験者も山に戻っている。真吾はぽかんと口を開けた。


「あのお婆さんを――引き取れと……?」


「そうではありません。姫さまの面倒はわたくしが見ます。ですが、姫さまはもとのご自分の霊界から追い出されてしまい、このアフターワールドで行き場がありません。放っておいたら、そのまま地獄へ落とされてしまうような危機的状況にあるのです。それでわたくしの個人霊界にお暮らしいただいていたのですが、わたくしが天使の僕として本格的に働くようになったら、それが難しくなります」


「……」


「承諾してくれるのなら、お前に力を貸しましょう」


 菊音は静かに言った。


「わたくしなら、すぐにでも、新しい横田四丁目を作ることが可能です。もっともそれは枠組みだけですので、細かいところは、お前たちが作りあげてゆくことになるでしょうが」


「…………」


 真吾は耳を疑った。


「四丁目を――今、作れる……だって?」


 ラファエルからは、天使の僕として働き、霊力を高めてゆけば、いずれ新しい横田四丁目を作ることができるようになるだろうと言われていた。だが、それがまさか、こんなに早く実現するかもしれないとは思っていなかった。


 第一、真吾はまだ天使の僕として、何の仕事もしていない。


 すると、真吾の思考を読んだように、菊音が鼻で笑った。


「お前は働いたではありませんか。わたくしを探しだして、大天使に会わせた」


「それだけ……で?」


 真吾が聞き返す。だいたいラファエルは今回の件を”私用”と言っていた。だから、真吾もこの仕事――菊音を探し出して、連れ戻すこと――を天使の僕としての仕事とはとらえず、どこか軽く見ていた。


「実はラファエル様がわたくしに遣いをよこしたのはお前たちが初めてではありません。過去にもありました。でも、その者たちはわたくしに会う前に逃げ去ってゆきました」


「逃げ去った?」


「少し脅かしてあげただけなのだけどね。山で遭難させかけたり、落石に巻き込まれそうにさせたり、まあ、色々と。お前たちにもやったでしょう。あれは一定以上の霊人レベルがないと、あからさまにひっかかる」


 真吾は佐吉を見た。菊音の話を聞いていた佐吉の顔が、怒りで赤くなってゆく。山のなかで、佐吉ばかりが不幸に見舞われていたのには、やはり理由があったようだった。菊音は涼しい顔で言った。


「実際、わたくしが直接、言葉をかわした使者はお前がはじめてだったわ、真吾。また、自分を犠牲にして友を庇うお人好しな性格も、嫌いではありません。それで、わたくしはお前たちを姫さまの庵に案内したのよ。でもまあ、そのことが原因で、結果としてわたくしが直接、お前たちに会うことになってしまったのだけれど」


 彼女は「ホホホ」と笑った。



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