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第2章------(12)



「今、何と言った。もう一度、言え」


 大天使ラファエルは美しい顔を真吾に向けた。真吾は「ひえぇ」と震えあがる。大天使は怒っている。それは間違いない。天使の眉間にかすかな皺が刻まれている。口調は静かだったが、その分、内に秘めた怒りの波動を感じる。


「……菊音さんはラファエル様に会うそうです」


「その後」


「そのことについて、少しだけ、条件があると言いました」


 真吾は言葉を切って、大天使の反応をうかがった。ラファエルは無言だ。先を続けろということなのだろう。真吾は仕方なく、先ほど伝えたばかりの内容を繰り返した。


「その条件ですが、まず、天使の僕として働くようになってから休暇があまりにも少なかったというので、地上時間で三十年間分の休暇の要求。それから、霊力を超えた仕事を押しつけたことへの手当ての要求。菊音さんの養っている動物と霊人たち専用の霊界を中間霊界に用意すること。ラファエル様の羽は永遠に返さないということ。そして一番大事なのは、今後はけして自分への気遣いと感謝の気持ちを忘れないこと――だそうです」


「……」


 ラファエルの眉間の皺がさらに深くなった。天使はゆっくり聞き返した。


「たかだか一霊人が、この私にそんな要求をするのか」


「……はい」


 真吾は消え入りそうな声で答えた。このまま大天使の逆鱗に触れて、地獄の果てまで飛ばされてしまうのではないかという恐怖にかられながら、それでも何とか菊音の要求を伝える。


「その条件を承知してくれなければ、会わないと……」


「ふざけるなと伝えろ」


 ラファエルは一蹴した。


「そんな要求をのむわけにはいかない。天より与えられた仕事があるにもかかわらず、それを長期間にわたり放棄し続けた罪は重い。そもそも本来なら、菊音のほうから私のもとに出向いてきて、謝罪するのが筋だろう。それを待ち続けてやっている私の寛大な心もわからず――あの女は」


「あのう」


 真吾はおそるおそる言った。天使が「何だ」と冷ややかな目を向ける。真吾は目をそらして、喘ぐように言った。


「……ラファエル様のお気持ちはごもっともですが、菊音さんも――思うところがあるみたいで――いくらなんでも四人分の善霊の仕事まであの人ひとりにさせていたというのは、無理があるのではと……」


「それはお前が考える問題ではない」


 ラファエルはにべもなかった。だが、真吾はいくら大天使の怒りが恐ろしくても、引き下がるわけにはいかなかった。かれは菊音と約束をしたのだから。


「ラファエル様、菊音さんだって、ラファエル様のために――天のために働きたいと思っているんです。あの人はとても大きな力を持ってますが、それでも、あなたが言ったように、ただの霊人にすぎません。しかも繊細な女性……です。あまり重圧をかけたら、可哀相です」


「繊細? あの菊音が?」


 ラファエルの声にせせら笑うような響きが混じる。内心、真吾も同感だった。菊音は強い。その気性も霊人としての力も、呆れるほど、強い。けれども、ラファエルに恋をして、泣いていたのもまた事実だった。


「あの」


 真吾は渇いた唇を舐めた。


「菊音さんは女性なんです。男のように単純じゃありません……色々、考えてます。気丈にしてますけど、脆いところもあるんです。それをわかってあげてください」


 ラファエルは黙り込んだ。


 創造主の御使いである天使に性別はない。


 だから、人間のように男女が愛し合って、子をなすということ自体がない。ラファエルは男性格の天使だったが、それだけだった。人間の男のように女を愛することはないし、男女のやりとりの機微など全く理解しない。


 菊音の恋は完全な片思いなのだ。それがわかるから、いっそう菊音は切ない気持ちになるのだろう。天使は少し考えるようにしてから、口を開いた。


「私は菊音に辛くあたりすぎたのか?」


 それが、天使が想像できる精一杯なのだろう。真吾は大きく首を縦に振った。


「そうです! よかった。わかってくれて」


「菊音が仕事を放棄したのは……私のせいだったのか?」


 今、はじめて気がついたと言うように、ラファエルが聞く。真吾は何度も頷いた。


「そうです、そうなんです」


「……」


 天使は納得がゆかないという顔をする。


「だが、他の者たちはそんな面倒なことは言わないで、命令に従うぞ。霊人の男も――女たちも。菊音もはじめはそうだった」


「ラファエル様、あなた、自分で菊音さんにあげたものを後になって返してくれと言いましたよね?」


 真吾は指摘した。


「そんなことで?」


「はい。そんなことです」


「……」


「おいらが思うに、菊音さんがへそを曲げた本当の理由はそれだと思います。仕事が多いとか、休みが少ないっていうのは――あの人の場合、大丈夫だと思います。多少、無理してでも、ラファエル様のために働くはずです。でも、あの羽だけは――」


「あの羽だけは?」


 ラファエルが聞き返す。その続きを言いそうになって、真吾は慌てて口を閉ざした。


「それは菊音さん本人から聞いてください」


 かれは言った。





「ふん。それであの天使がわたくしの霊界まで出向いて来るということになったのね」


 真吾を再び自分の個人霊界に迎え入れた菊音は、仁王立ちのように立ちながら言った。彼女は真吾を睨みつけた。


「それで? わたくしの出した条件はのんだのかしら」


「それなんですが……」


 真吾は菊音の凄まじい視線にひるみながら答える。だが、恐ろしいと感じていた菊音の眼光にもだんだん慣れてきていた。菊音は別に怒っているわけではない。通常の状態でこれなのだ。彼女はラファエルの回答の内容を知りたくて、例によって、目に力が入りすぎてしまっているのだろう。


「条件については、会ってから話し合いの上、決めたいということで」


「それじゃ、話が違うじゃないっ!」


 菊音がくわっと目を剥く。真吾は「ひっ」と後ずさりした。今は怒っている。怒りの波動を痛いほど感じる。真吾はいつでも逃げ出せる態勢を作りながら、小声で言った。


「あのう……でも、いくらなんでも、いきなり条件だけをのむことは、立場上、ラファエル様には難しいかと」


「……」


「ラファエル様のほうから内密にこちらに出向いてきてくれるんです。それから、天使の羽のことだけは絶対に譲れないということも伝えてあります。それについては、ラファエル様も”わかった”と言ってました」


「そ――そうなの」


 菊音の怒りが少し弱くなった。彼女は顔を赤らめ、横を向いた。


「それじゃあ、特別に、あの天使に会ってあげてもよろしいわ。そう伝えなさい」


「……はい」内心、ため息をついて、真吾は言った。





      ◇





 女心は難しい。


 それはまるで天気のようだと誰かが例えたが、真吾も全くその通りだと思う。ついさっきまで快晴だったのが、前触れなく雨になったり、曇ったりする。男が良かれと思ってやったことが、女の気まぐれひとつで、台無しになる。かと思えば、思わぬところで、女のほうから身を投げ出してきたりする。


 真吾も六十四年の地上界での生涯のうちで、そうしたことを学んだはずだった。かれ自身について言えば恋愛経験はほとんどなかったが、女たちの相談にのったり、またその亭主たちから話を聞いてやったりしているうちに、自然と知っていった。


 だから、目の前で繰り広げられている男女(?)の会話もまた、真吾にとってはお馴染みのものであるはずだった。





 だが――


「どうして、あなたはそうなのですか! あまりにも身勝手ではありませんか」


「お前にだけは言われたくない。お前こそ、私の命令に逆らって、こんな辺境に自分の霊界を作って、無駄に善行に励んでいたとは馬鹿馬鹿しいにもほどがあるだろう」


「何ですって」


 爆破音が轟いた。


「……なあ」


 佐吉が呆れた声をだした。


「あれは、いわゆる痴話喧嘩なのかな」


「さあなあ。菊音さんの片思いだから、ちょっと違うと思うけど」


「あの女は本当に大天使に恋してるのか」


 とてもそうは見えないといったように佐吉が言う。真吾は同意するように言った。


「確かになあ。でも、そうなんだよ。あの人は自分の気に入ったものを凄い目で睨みつけてしまうんだよ。好きになればなるほど……」


「あれじゃ、通じないだろ」


「まあな。でも、それでいいんじゃないか。相手は天使なんだし。本当に大天使と相思相愛になって、万が一にも一線を越えてしまったら、霊界をゆるがす大問題になる」


「……お前、のんきな顔して、恐ろしいこと言うなよ」


 佐吉はぶるっとした。


 菊音がラファエルに恋をしてることは確かだが、ラファエルが菊音に特別な感情をいだくことはない。だから、彼らの喧嘩は男女の痴話喧嘩とは違う。彼らの関係を考えれば、師弟の喧嘩といったところだろう。


 だが、その言い争いは、親しくしていたからこその怒りと苛立ちに満ちていて、あまりにも周囲に迷惑なものだった。一言、どちらかが怒鳴るだけで、旋風が吹き荒れ、落雷が起こり、大雨が降る。あたりは凄まじい様子になっていた。


 喧嘩は、菊音の霊界の入り口付近で行われていたが、山の頂上の天気も最悪だった。真っ黒な雲が空全体に覆いかぶさり、あちこちで稲光が光っている。


「俺の娘はいったいどうなってしまったのだ……」


 修験者がわなないた。そのすぐ隣では、老婆が背中を向けて両手をこすり合わせている。


「なんまいだなんまいだ、どうかお山のお怒りを鎮めくだされ~」


 どうやら、老婆には菊音と大天使の姿は見えておらず、ひたすら霊界の天気が荒れ狂っているようにしか感じられていないようだった。


 また、爆発が起こった。


 山の一端が噴火している。


 地鳴りが響き、大地が不気味に振動している。


 真吾と佐吉は顔を見合わせた。まるで横田四丁目が失われたあの日のような不気味さだったが、この霊界が地獄から攻撃を受けることはあり得ないだろう。


「もう少し、待ってみるか」と佐吉。


 真吾も頷いて、


「ああ。やっぱり喧嘩は当事者同士で解決させたほうがいい。それにおいらにはあんな喧嘩は止められない」


 と言った。


 菊音と大天使の攻防はもうしばらく続くようだった。



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