第2章------(11)
「ラファエル様の教育は厳しかった……」
うっとり呟く菊音の横顔は恍惚としていた。
「一人、またひとりと脱落していってね。最後に残ったのは、わたくしだけでした」
真吾と佐吉は「なるほど」と頷く。菊音はカッと目を見開いた。
「でも!」
「は、はい!」
真吾は思わず、背筋を伸ばす。菊音はその時の怒りを思い出したように、声を震わせた。
「あの天使はあろうことか、脱落していった四人の善霊たちの仕事までわたくしに押し付けてきたのよ。いくらわたくしが優秀でも、そんなこと出来るわけがない。無理に決まっている。けれども、不幸なことに、わたくしは負けず嫌いだった……」
「――」
「あの地獄のような研修が終わった後も、わたくしはあの天使の期待に答えるために、無理に無理をかさねて、天使の僕としての仕事をこなしてきました。出来ません、というその一言がどうしても言えなくて――あの天使を見返したい、少しでもわたくしを認めさせたい、そんな気持ちばかりでした」
それがなぜ恋心を抱くようになったのだろう、と真吾は小首を傾げる。
ラファエルが厳しいのは頷ける。
あの天使なら、きっとさぞ容赦ない態度で、善霊たちの教育にとりくんだだろう。それに耐えきれなかった霊人たちが、逃げ出したのもわかる。また、勝気な菊音がそれに反発したのも想像できる。だが、
(――どこに、ラファエル様に恋する要素が……?)
真吾は悩んだ。すると、菊音が真吾に目を向けた。その目は、再びまた、親の敵でも見るような凄みを宿していた。真吾はぞわっと身震いした。
(怒ってる……?)
思った瞬間だった。間髪いれず、菊音が叩きつけるように言った。
「怒ってないわよ!」
その返事の速さに、真吾はさらにびくっとなる。まるで、ラファエルが真吾の心の声を聞いて、即座に答えてくるような速さだった。だが、菊音はラファエルとは違って、真吾の全ての思いを聞けるわけではないようだった。真吾は確かめるように聞いた。
「菊音さん――もしかして、あんたはおいらの心が……?」
「盗み聞こうとしたわけじゃないわよ。お前の心の声が大きすぎるのが悪いのです」
そんな理不尽な、と真吾は思ったが、その思いを慌ててひっこめる。
「じゃあ、なんでおいらをそんな目で睨むんだ……」
「ただ見ただけでしょ。人聞きの悪い。わたくしはね、興味のある人間をじっと見つめてしまう癖があるのよ。あまり見つめすぎて、目が時々、痛くなることはあるけどね」
と言って、菊音は本当に痛そうに、目をこする。確かに、あの眼力でいつも周囲を見回していたら、目の筋肉は疲れるだろう。
「じゃあ、もしかして、あんたは怒っているように見えるけど、そうじゃない……?」
「ええ」
「なら、今の本当の気持ちはどんな気持ちなんだ?」
「悲しい気持ちよ」
菊音は断言した。
「泣き出したい気分。ほんのり甘くて、切ない気分。けしてわたくしに振り向かないあの人を呪い殺したい気分――わかるかしら」
「……わかりません」
真吾は言った。また、その問題は深く追求してはいけない気がした。かれは質問を変えることにした。
「それじゃ、あんたはラファエル様のどこを好きになったんだい?」
「ま」
菊音の頬がピンク色に染まった。途端に彼女は目をうるませ、恥らうように答えた。
「そんなことを女性に聞くなんて、失礼でしょう」
「あ。いや、答えたくなかったら、いいんです。すみません。忘れてください」
素早く真吾は言ったが、菊音は覆いかぶせるように言ってきた。
「答えたくないなんて、言ってません。どうしても知りたいなら、教えてあげましょう。ラファエル様の好きなところ――」
結局、強気を装っていても、菊音も誰かに自分の気持ちを聞いてもらいたかったのだろう。恋する女はだいたいそうだ。気持ちを聞いてもらい、共感してもらいたい。励ましてもらいたい。生きた時代が違っても、女の本質は同じであるに違いない。真吾は生前出会ったマリコちゃんを思い浮かべながら、「やっぱりなあ」と嘆息した。
「好きなところ」
菊音は恥ずかしそうに言った。
「冷血なところ――人を人とも思わない尊大なところ、自分にも他人にも厳しくて、仕事が出来るところ。恐ろしいほど公正で、一切の甘えや言い訳を許さないところ。そしてあのお顔……天使であの美しさなんて、凶器のようなものだと思いませんか? わたくしは、一度、戦場に出るあの方を見て、その凛々しさに、失神しそうになりました」
要するに、菊音は面食いなのだ。真吾はそう確信した。ラファエルの性格がきついことは、菊音自身も性格がきついので気にならないのだろう。
「わたくしが京の都で生きていた頃、そのような殿方はひとりとしておりませんでした。わたくしの仕えていたお邸にも、姫と交友のあった公達にも、誰ひとりとして――あの頃の貴族たちは、優しい者もそうでない者も、常にわが身の保身と出世のことしか頭になく、金銭に汚らしい連中ばかりでしたわ」
それはかなり偏った主観のように聞こえたが、真吾は、
「……なるほど」と言った。
「その点、ラファエル様は違います。あの方は私心を持たず、その心は常に光の君の目的に向かって、公正です」
そうかなあ、と真吾は思ったが、やはり口では「なるほど、なるほど」と言った。女の愚痴に逆らってはならない。まずは菊音の心の鬱憤を吐き出させなければならない。真吾の”心得”はそう告げていた。
同意されたことで気分をよくしたように、菊音の話はさらにヒートアップした。
「ラファエル様に冷たく命令されると、わたくしはぞくぞくします。それがどんな無茶な命令であろうと、成し遂げようと決意できます。そしてわたくしは身を粉にしてはたらき続けました。いつも自分の霊力の限界まで、無理をして。でも、いつしかあの天使はそれが当たり前だと思うようになったのです……はじめの頃にあった、無理をさせていることへの僅かなねぎらいの言葉もなくなりました」
「気遣いがなくなったんですね」
「そうです。いくらわたくしが優秀でも、無理なものは無理なんです。それにわたくしにだって個人の事情があります。天使の仕事以外で守らなければならない者もいるし、面倒を見なくてはならない霊人もいます。あの天使はいささか調子に乗りすぎました」
「そうですか」
「だいたい、脱落した四人の仕事を、ずっと、このわたくしに押しつけ続けたというのはいったいどういうことでしょう。普通なら、新たな霊人を追加して、わたくしの負担を軽減させるとか考えるでしょうに」
話がはじめに戻った。
真吾は注意深く菊音の次の言葉を待った。このまま菊音の話は無限ループに陥るかもしれなかったが、それはそれで仕方がない。気が済むまで話させてやるしかなかった。
「しかも、あの天使は、わたくしの心の支えであった宝物まで、取り上げようとした。それがどうしても許せなかった。それで、わたくしはもうラファエル様の下では働けませんと書置きを残し、全ての仕事を放棄し、もとの自分の霊界を出たのです」
ループには陥らなかった。ちょっと居眠りしかけていた真吾は慌てて起きた。
「そ、それで、この個人霊界にこもったんですか」
「そうよ」と言って、菊音は胸をそらす。真吾は菊音の顔色をうかがいながら言った。
「その宝物って――もし、聞いてもいいなら……?」
「これよ」菊音は袖のなかに手を入れると、大事そうにそれを取り出した。真吾は菊音の手元を覗き込んだ。白い、ふわふわした小さいものがある。
「羽……?」
菊音は「ええ」と頷いて、その一本の白い羽を指でなぞった。
「ラファエル様の翼の羽。昔――地上界の時間でもう千年以上の昔になると思うけど、ラファエル様がこれをくれたのよ。あの地獄のような研修が終わった記念にね。この羽があったから、わたくしはラファエル様の容赦ない仕打ちに耐えられた……辛くなったとき、もう駄目だと思ったとき、この羽に何度も助けられました」
「……」
「なのに、ラファエル様はこの羽をわたくしから取り上げようとした。もうそろそろ返して欲しいと言って。わたくしは拒否しましたわ。すると、あの方は力づくで羽を取り戻そうとした。わたくしは全力でそれを撃退し、霊界の果てまで、逃げました」
撃退したのかよ、という突っ込みを真吾は飲みこむ。
もし、ラファエルが本気で羽を取り戻そうとして、それを菊音が退けたというのなら、菊音は本当に大した力を持った霊人だということになる。
思えば、ひとりの霊人が個人霊界として、このような広大な霊界を作り上げてしまうこと自体が尋常ではなかった。変わり者ではあるが、菊音は善霊として、ラファエルの強力な手駒なのだろう。だからこそ、ラファエルは真吾に菊音を連れ戻すよう命じたのだ。
「菊音さん」真吾は唇を舐めた。
「あんたの気持ちはわかった。あんたが悲しいのは当然だ。おいらからもラファエル様に、あんたの仕事を減らしてくれるように頼んでみるよ。あんたからすればたいした力は持ってないけど、おいらはあんたに協力したい」
「ラファエル様がお前などの言うことを聞くものですか」
「そうかもしれないけど、でもあの大天使は意外と話せると思うんだ。横田四丁目がなくなった時も、結局、おいらたちを助けてくれた」
「単にそれがラファエル様の仕事だったからでしょう? あの方は私情に流されません」
菊音がぷいと横を向く。真吾は懸命に言った。
「それでも、あの天使はおいらにまたこの霊界で生きる目的と希望をくれたんだ!」
菊音が真吾を無言で見つめた。真吾は叫ぶように言う。
「ラファエル様のところへ行って、ちゃんと話したほうがいい。このまま逃げていたって、何もならないだろう? あんたの事情だって、ラファエル様はわかってくれるはずだ。口では冷たいことを言うけど、あの天使はそれほど悪い天使じゃない。おいらはそう思う」
「……」
「菊音さんっ――」
「お黙り」
菊音はぴしりと言った。真吾はハッとして、口をつぐむ。
「……知ったふうな口をきいて、お前は生意気だわ。今、この場で雪崩を起こして、生き埋めにしてやることだって、わたくしには出来るのよ。でも、あの大天使ラファエルをそんなふうに庇った霊人は、あなたが初めてよ」
彼女は仕方なさそうに息をついた。
「いいわ。会いましょう」
真吾の顔がぱっと明るくなる。菊音はそれにやや冷たい一瞥をくれた。
「ただし、条件があります。今からその条件を言うから、それをあの天使に伝えなさい」




