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第2章------(10)



「い――いきなり、何よ……っ!」


 菊音が真っ赤になった顔を袖でかくして、叫ぶ。佐吉はあんぐり口を開け、修験者もひきつった表情のまま硬直している。佐吉は真吾を止めるように言った。


「おまっ――、それは直球すぎるぞ」


「菊音が大天使を?」


「違います!」


 菊音は大声で否定した。だが、彼女の首から上は真っ赤に染まっていて、否定すればするほど、それが本心でないことを暴露してしまうような状態である。真吾は菊音を見つめて「うん」と頷き、菊音に負けない大声を張りあげた。


「大丈夫です。安心してください。天使に恋愛感情を抱くだけなら霊界の法に触れませんから。結婚したいとか、肉体関係を結びたいというのは駄目ですが」


「な、な、なんてこと言うのよ!」


 菊音の声は悲鳴に近くなった。


 真吾の言葉は真実である。だが、真実であるからといって、会話のなかで、最適な言葉であるとは限らない。佐吉は空の向こうから、不吉で巨大な暗雲が近づいてくるのを見て、慌てて言った。


「とりあえず、お前は黙れ。もう何も言うな!」


「でも、佐吉」


「でもじゃない。これ以上言ったら、嵐になるぞ。俺はこんな山のてっぺんで嵐に遭うのなんて、イヤだ。ここは菊音の霊界なんだ。その霊界のあるじの機嫌をそこねて、無事にいられるわけないだろ」


 暗雲がものすごい勢いで近づいてくる。ピカッと何かが光った。稲光だった。佐吉はその稲光が、真吾を目指して落ちてくるのを予感したように、身を震わせた。


「お前はいい奴だが、だから女にもてないんだ。デリカシーがなさすぎる」


「でも、菊音さんは泣いてるんだぞ。ラファエル様のせいで」


「今はお前のせいで泣いていると思うぞ」


 佐吉は言った。だが、真吾は佐吉の腕をふり払って、菊音の前に出た。


「菊音さん……あんたを傷つけてしまったのなら、謝ります。すみません。でも、おいらで良かったら、話を聞くよ。あんたはどうして泣いているんだい。ラファエル様のことで、何かあるんだろう?」


「やめろったら!」


 ぽつっ、と頬に雨水があたった。上空は既に真っ黒な雲に覆われている。佐吉は本当に恐怖を感じているようだった。けれども、真吾は怯まなかった。


「放せ、佐吉。おいらはマリコちゃんの愚痴にずっと付き合ってやってたんだ。大丈夫だ」


「マリコちゃんて、誰だよ」


 佐吉がわめく。真吾は佐吉の脳にマリコちゃんの容貌を叩きつけるように送った。


 髪を肩のあたりで切りそろえた、むっちりした体つきの、色っぽい娘の体(それは着衣のものだったが)の映像を送りつけられて、佐吉は「わっ」と声をあげた。佐吉の頭のなかに、在りし日の真吾(老年)のもとに駆け込むマリコちゃんの姿や、マリコちゃんの長い長い愚痴を辛抱強く聞いてやってる真吾の姿が浮かぶ。


 確かに、真吾は自分の娘のような年頃の女の恋愛相談にのってやっていた。そして相談事を持ち込むのはマリコちゃんだけではなかった。


 晩年になって、ますます穏やかになった、人畜無害そうな好々爺だった真吾のキャラクターが女たちの警戒心をといたのだろう。


(けして彼女たちの言い分に逆らわず、気持ちに共感してやること)


 それが真吾のつかんだ相談事の心得だった。


 佐吉は唸った。


「なるほど……」


 自分自身の恋愛は奥手で、はじめの結婚以降、浮いた話のひとつもなかった真吾だったが、意外なところで、もてていたのだ。真吾は力説した。


「だから、大丈夫だ。多分。おいらには”心得”がある」


「わ、わかった」佐吉は言った。真吾は頷くと、あらためて、菊音に向き合った。


 だが、あたりはすっかり暴風雨になっている。大粒の雨が地面を叩きつけ、その音で声が聞こえないほどである。風もすごかった。凄まじい勢いの横風があちこちから吹いていて、ややもすると、飛ばされそうになる。そうして、ピカッと不気味な光が走る。


 その雨のなか、菊音は立ち尽くしていた。


「……」


 ぐっしょり濡れた長い黒髪の下から、物凄い表情で真吾を睨みつけている。佐吉は思わず「ヒッ」と悲鳴をあげそうになった。父親である修験者も、自分の娘の恐ろしい姿に震えあがっていた。真吾も足が震えそうになったが、踏みとどまった。


「菊音さんっ、おいらが話を聞いてあげるよ。何か、ラファエル様のことで、困ってるんだろう?」


「……――」


「気丈なあんたが泣くほどのことがあったんだ。何があったか、話してみないかい。力になれるかどうかわからないけど、おいらで出来ることなら、何でもしてやるよ」


 真吾は暴風雨のなか、叫んだ。


 菊音の顔が歪む。眉間にくっきり縦皺が刻まれ、目は見開かれたまま吊り上がり、鼻腔がふくらみ、口元が真一文字に結ばれる。


 その般若のような表情は誰もが怒りの感情をあらわしたものだと思った。少なくとも、佐吉と修験者はそう思った。だが、実際はそうではなかった。


「お前……」


 菊音は鼻をすすりあげた。


「お前はラファエル様の何なの?」


 彼女の真吾を見る目が少し変わった。それは信じられないものを見るような目であり、呆れ果てたような目でもあり、同時に、すがるような目でもあった。


 その眼差しを向けられた瞬間、真吾の胸のなかに暖かい気持ちがわきあがってきた。それは真吾が本来が持つ、やさしい、同情心だった。かれはおひさまのような笑顔を向けた。


「おいら? ただのお遣いだけど」


 かれはやさしい声で言った。


「桜田――真吾。わたくしの――遠い子孫だったわよね」


 菊音は初めて真吾に興味を持ったように、もう一度、真吾を見た。


「あの大天使が……ただの霊人を自分の遣いにするわけはないはずだけど。お前はどこの霊界の霊人なのですか」


 菊音が聞いた。心なしか、雨の勢いが弱まっている。ひっきりなしに光っていた稲光もいつしかやんでいた。


「横田四丁目。でも、それはなくなってしまった。だから、おいらは今はどこの霊界にも属していない」


「なくなった……? そんなことがあるの?」


「うん。こんな上の霊界に住んでるあんたには信じられないかもしれないけど、四丁目は中間霊界最下層だったから。地獄から突き上げられて、地獄に落ちてしまったんだ」


 真吾はそっと菊音の手に触れた。


 横田四丁目が悪魔の竜に攻撃されて失われてゆく様子、仲間たちと引き裂かれた悲しみ、そして新たな四丁目を作りだすために天使の僕となった真吾の決意が、伝えられてゆく。


「そう」


 沈黙の後、彼女は言った。


「それはお気の毒様だったわね。でも、自分の霊界が崩れてしまっても、あなたたちは大天使に気に入られて、ここにいる。珍しいわね。あの天使がたかだか中間霊界の人間に興味を持つなんて。本当に、珍しい」


 最後の言葉は、奇妙な実感が込められていた。それで真吾も、菊音はラファエルの性格をよく知っているのだと感じた。


 菊音は真吾を見た。きれいな顔を歪ませ、少しだけ、照れたように頬を緩める。それが菊音の微笑みなのだと真吾は気がついた。菊音が躊躇うように真吾の指に触れてきた。


「わたくしは――」


 そう言って、自分の過去を送ってきた。


「あ……」


 真吾の目が大きく見開かれる。


 菊音は確かに善霊だった。気が強く、言葉が乱暴で、誤解されやすい性格をしていたが、その根底にあるのは、自分を捨てて、他人に尽くしてきた圧倒的な善の性質だった。


 気がつくと、雲の合間から青空が見えていた。嵐を巻き起こした雨雲はゆっくり去ろうとしていた。





 菊音は生前の功労が認められて、善霊となった霊人だった。


 善霊たちのなかで選ばれた者、あるいは志願した者は、さらに善のために生きることができる道が与えられている。それが、天使の僕として、アフターワールドの創造主のために働くことだった。


 菊音は志願したわけではなかったが、成り行きで、そのグループに振りわけられた。


「その時の教育係があの大天使だったというわけよ。最低でしょう」


「ラファエル様が?」


「そうよ」菊音は顎をひいた。


 真吾は驚いた。ラファエルは四大天使のひとりである。天使軍を率いる長であり、地上と霊界にいる天使たちを統率し、人間たちを導き、また、長年にわたる堕天使軍との戦争の指揮もとらなければならない。


 だから、ラファエルは多忙だ。そのラファエル本人がただの霊人グループの教育係になるというのは、ただ事ではなかった。


 真吾の驚きの波動を感じたように、菊音はちょっと得意そうに言った。


「わたくしたちは選ばれたエリートだったのよ」


「エリート?」


「そう。勿論、アフターワールドの戦争のことは知っているわよね」


「え。ああ、うん」


「天使と堕天使の戦いは、人間に直結しているわ。結局、彼らは創造主の命を受けて、わたくしたち人間のために戦っているのだもの。戦いそのものは天使たちが戦場に出て、戦うけど、人間たちのなかでも選ばれて、天使たちに協力する者がいるわ。それが天使の僕」


 真吾はびっくりして菊音を見た。


「地獄との戦いが、人と直結してる……て?」


 それは初耳だった。真吾は霊界での戦争は人間たちとは関係のないところで繰り広げられているものだと思っていた。菊音はわかりやすく説明するように言った。


「お前たちのような――偶然、天使の僕になった霊人もいるけど、普通は管理局の役人なんかに推薦されて、試験を受けて、それに合格すると、見習いになって、少しずつ、条件をつんで、天使の僕として昇格してゆくのよ」


「……」


「それで、まあ、わたくしはそのグループに選ばれてしまった。でも、直属の上司があのラファエル様だったのよ。わかるかしら? あの信じられないような美貌の、それでいて有能で、辛辣な天使がいつも手に届く場所にいるのよ」


 彼女はほっと吐息をついた。その表情は恋する女のものだった。



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