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第2章------(9)



「お断りいたします」


 菊音は凛とした声で言った。その目は真吾を親の敵のように睨みつけ、口元は厳しく結ばれている。その険しい表情から、取り付く島もない様子であることは明らかだった。だが、真吾はまだ用件を何も伝えていない。真吾はぽかんとなった。


「あの、おいら、まだ何も話して――」


「口に出さずとも、お前の用向きはわかっています。わたくしはずっとこの霊界に入ったお前たちを見ていましたから」


 と菊音。


 真吾は助けを求めるように佐吉と修験者を見た。佐吉はやはり菊音の態度に度肝を抜かれたように目を丸くしていて、修験者は慌てて真吾から目線をそらした。自分でどうにかしなくてはならないことを悟った真吾は、途方に暮れた。


(どうしよう)


 昔から、女性は苦手だった。


 女たちは往々にして、口に出す言葉と頭で考えていることが違っている。


 いや、男もそれは同じなのだが、男のそれはわりと単純だ。だが、女たちの本心は複雑怪奇で、その日の天気によっても異なったりする、非常にわかりにくいものだ。それが真吾が地上界で生きた六十四年間で学んだことのひとつだった。


 この、目の前で断固とした態度を見せている女性の本心は、真吾にとって宇宙の神秘より深い謎だった。真吾は途方にくれた。心のなかで、大天使ラファエルを呼び出そうとして、もう一度、思念を送ってみる。だが、やっぱり返答はなかった。かれはため息をつき、諦めたように菊音を見た。


「あのう」


 菊音が吊り上がった目で「何よ」と言うように、真吾を睨む。父親である修験者の話では、菊音は誤解されやすいが、本当はとてもやさしい女性なのだと言う。だが、真吾を見る菊音の目にはやさしさのかけらもなかった。


「き――菊音さんは、ずっとおいらたちを見ていたんですか」


 ようやくしぼりだした言葉は、先ほど、菊音が言った言葉を繰り返しただけのものだった。後ろで佐吉が苛立ったように、「しっかりしろ」と励ます。だが、佐吉はけして真吾の前に立とうとはしない。


 菊音は胸をそらして、両腕を組んだ。


「そうですわ」


「……そうですか」


 真吾はまた繰り返した。


 沈黙が落ちる。


 真吾自身もひそかに感じていたことだったが、やはり菊音はこの霊界に入った真吾たちを見ていたのだ。そうして、真吾たちが誰の遣いでやって来たのか、その目的が何なのか、何もかも承知の上で、カモシカを追わせたり、山で遭難するよう仕向けていたのだろう。


 菊音はすっかり黙ってしまった真吾を睨み、叩きつけるように言った。


「個人霊界にひきこもった、暇を持て余した、根暗でひねくれ者のわたくしですから」


 真吾がいつか言った嫌味もしっかり聞いていたようだ。真吾もあの時は、菊音に聞かせるつもりでこの嫌味を言ったのだが、まさか当人から面と向かってそれを非難されるとは思っていなかった。真吾は慌てた。


「あ、あれは……その――聞いていたんですか」


「聞いてましたわ。お前の声は大きいから、この霊界中に轟いておりましたわよ」


「轟くって――大袈裟な」


 真吾は呻くように言った。その返答は、菊音に気に入られなかったようだった。菊音の目がいっそう鋭くなってゆく。真吾は眩暈を感じた。目線で人を殺せるとしたら、きっとこんな目なんだろうな、などと言ったことをかれは考えた。


「そうね」


 菊音はふっと吐息をもらした。おもむろに足を踏み出す。その歩みは、ちょうど獲物を追い詰めた肉食獣のように見えなくもない。


「確かに、わたくしはお前たちを少しからかってやりました。でも、それは当然でしょう? 何の挨拶もなく、不躾に他人の個人霊界に踏み込んできたお前たちが非礼だったのです。それに本当に危険な状態にはしなかったわ。危なくなったらちゃんと助けてやったし、感謝して欲しいくらいよ」


「……」


 真吾は無言で菊音を見る。真吾の反感を感じとったように、菊音は目を吊り上げた。


「何よ、その顔は」


「…………」


「何か答えなさいよ、このお人好し!」


 菊音は鋭く言った。


「じゃあ、言うけど――」


 真吾は菊音の迫力に怯えながら、勇気をかきあつめて言った。


「もし、おいらたちがただの好奇心で、この霊界に入ったなら、それは失礼かもしれないけど、おいらたちは挨拶をしたし……大天使のお遣いだということだって、おいらたちを見ていたなら、わかっていたんだろう?」


 すると、菊音は一呼吸おいてから認めた。


「まあね。わかってたわ」


「だったら、なんですぐ会いに来てくれなかったんですか」


「それは――こっちの勝手でしょう。わたくしはあの天使が嫌いなのよ」


 菊音はぷいと横を向いた。


 その瞬間、真吾はかすかな違和感を感じた。「おや」と思って、菊音を見ると、彼女の白い首筋がほのかに赤く染まっている。彼女は怒っている。怒りの波動を発しているのは間違いないのだが、その怒りは先ほどまでとはどうも違う種類のものになっているようだった。


(菊音さん――もしかして……?)


 真吾は思った。


 かれは、菊音のなかの地雷を踏まないよう細心の注意を払いながら、聞いた。


「この霊界はあなたが作った霊界だ。あなたは最後までおいらたちに会わないで済ませることも出来たはずだ。でも、二日前、あのお婆さんは突然、お山の修験者に弁当を届けて欲しいと言い出した。それは、もしかして、その前日に、大天使ラファエル様がこの霊界の入り口まで来たことが関係してるんじゃないんですか」


「……」


 菊音は唇をきゅっと結んだ。その横顔を見て、真吾は自分の思いつきが当たっているのではないかという確信を深めた。


「ラファエル様が来たから、あなたはおいらたちを修験者の――あなたのお父上のところまで、来ることを許したんだ。自分で会うつもりはなかったけど、父親に会わせて、おいらたちに菊音さん本人には会えなかったが、その父親には会えたというラファエル様に報告できる結果を少しだけ与えて、おいらたちを帰らせようとした……」


 真吾は菊音の返答を待つように黙ったが、菊音は口を開かない。仕方がないので、真吾は続けて言った。


「でも、父親があなたの事情をおいらたちに話しすぎてしまったから、慌てて、出てきた。そんなところなんじゃ……?」


「お前」


 菊音が低い声で言った。地獄のような目で睨みつけている。白目が血走って、もともと冷たかった眼光がさらにその鋭さを増して、今にも真吾を貫きそうだった。真吾は内心、「ヒッ」と悲鳴をあげた。


(おいら、失敗した?)


 かれとしては慎重に言葉を選んだつもりだったが、どこかで菊音の逆鱗に触れてしまったのだろうか。自分たちは無事にこの霊界から出られるのだろうか、そんなことを遠い意識で考えた。


 けれども、その心配は杞憂にすぎなかったようだった。なぜなら、


「あの大天使――ラファエル……最低なのよぉぉっ!」


 菊音が両手の拳を握りしめ、突然、泣き崩れたのだから。





「き、菊音さんっ」


「娘よ。どうしたのだ! なぜ、泣いている。お前が泣いているのか! なぜだ」


 菊音の号泣に、男たちは狼狽した。生前、菊音が飼っていたという猫――今はカモシカの姿にされている藤だけが冷静で、カモシカは菊音のほうに歩みよると、その巨体をすり寄せるようにした。


「ああ、藤……お前はやさしいのね」


 菊音は藤の首に腕をまわし、その毛皮に顔をうずめた。真吾と佐吉、それから修験者は顔を見合わせた。佐吉が真吾をつついて、真吾が男たちを代表して、おそるおそる声をかける。


「あ、あのう……お話しても――いいでしょうか」


 菊音の細い肩がぴくりと動く。少しして、彼女は「いいわよ」と答えた。真吾は胸をなでおろした。


「もし、失礼なことを言ってしまったなら、謝ります。あの、ラファエル様に何かされたんですか――?」


 真吾は大天使ラファエルの完璧な容姿を思い浮かべる。ラファエルは白銀の炎の髪をもつ美しい天使だったが、その性格は尊大で冷徹だ。気の弱い女性なら、ラファエルの心無い一言で泣いてしまうこともあるかも知れない。


 だが、その可能性は、菊音についていえば、絶対にあり得ない気がした。すると、菊音は真吾のその考えを読んだように、真吾を怖い目で見た。


「失礼ね! わたしだって、か弱い婦女子にすぎないのに」


「……」


 佐吉と修験者が意味ありげに互いの顔を見る。彼らはともに同じことを思ったようだが、賢明にもその思いを言葉にすることはなかった。真吾は眉間に皺を寄せて、自分の心に浮かんだ、ある恐ろしい可能性について聞いてみた。


「あの、もし、勘違いだったら、すみません」


「……」


「ラファエル様は多少、性格に問題があるかもしれないけど、一応、天使です。人間に酷いことはしないはず……だったら、もしかして、菊音さん、あんたは――」


 真吾は一言ずつを区切るように言った。


 かれの脳裏には、生前、真吾がだいぶ老年になってから知り合った、同じ長屋に住んでいたマリコちゃんの姿が浮かんでいた。マリコちゃんは惚れっぽく、男に惚れて、尽くしては捨てられる、可哀相な娘だった。


 そして理由はわからなかったが、真吾には今の菊音と失恋したてのマリコちゃんがどうしてもかさなって見えてしまうのだった。


「菊音さん、もしかして、あなた、ラファエル様が好きなんじゃないですか」


「!」


 空気が凍った。


 修験者が〈聖域〉と呼んだ、この霊験あらたかな山の頂は、さらに凍てつく空気に包まれた。



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