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第2章------(4)



「なあ」と、佐吉が声をかけた。真吾は疲れた足を止めて、振り向いた。


「さっきもここを通ったような気がするんだが」佐吉は顔をなでた。


「ほら、この石の感じ。見たような気がする」


「……似たような道が多いから、気のせいじゃ」と真吾。


「だといいけどね。でも、俺たちはちっとも前に進んでいない気がするぞ」


 真吾は「うーん」と唸って、ため息をついた。


 あたりは、またしても、一変していた。


 彼らは木々が鬱蒼と茂った、深い森の中にいた。おまけに日はとっくに落ちて、真っ暗だ。幸い、月が出ていたので、木々のあまり茂っていないところを歩けば、夜でもどうにか足元は見える。


 だが、彼らは完全に道を見失っていた。


 真吾は自分たちが歩いてきた道を頭のなかで振り返った。


 はじめは順調だった。穏やかな山道からはじまり、それからだんだん斜面がきつくなって、岩が多くなっていった。やがて斜面は地獄のような急斜面に変わったが、斜面を登りきると、ゆるやかな花畑になっていた。


(あそこまでは良かったんだ)


 真吾は思う。


(でも、おいらたちは、あのまま先に進まないで、横道にそれた)


 思えば、それが失敗だった。


 あくまで本道を見失わない範囲で付近を調べるつもりだったのが、つい、わき道を進みすぎてしまった。すると、わき道は少しずつ下ってゆくようになり、一本、二本と木々が現れはじめ、それがだんだん増えて、気がつくと、森になってしまった。あたりのあまりの変貌ぶりに二人は不安になって引き返そうとした。だが、ちょうどその時、佐吉が「水音が聞こえるぞ」と言った。


「川か!」


 真吾は叫んだ。佐吉は言った。


「わからねえ。でも、多分、そうだ。おれぁ、新鮮な水が飲みたい」


 真吾もごくりと咽喉を鳴らした。


 アフターワールドで生きるために必要な最低限のもの――粗末な食べ物や汚れた飲み水を彼ら自身の霊人の力で作り出すことはできたが、真吾や佐吉のそれはあまり美味くない。


 また、どのみちこの山で野宿するなら、水は必需品だ。少しでも安定した、上質な水があるにこしたことはない。


 それで彼らは水音のするほうに進路を変えた。不安はあったが、「あと少しだけ」と思いながら、わき道からはずれ、木々の生い茂った斜面を下りていった。すると、それを待っていたように、水音がさらに近くなった。


 真吾は声を浮き立たせた。


「本当だ。水だ。おいらにも聞こえる」


「な、そうだろ? 川があるんだ」


 佐吉が得意そうに言う。普段、何かと真吾のお荷物になっているかれとしては、少しでも真吾の役に立てることがあって、嬉しいようだった。


 おそらく、水音の正体は、大きな川ではないだろう。


 険しい山のなかで水音が近く聞こえるということは、山頂の雪解け水が小さな沢になって流れている可能性がある。それで真吾と佐吉には充分だった。


 けれども、それでふたりは道に迷ってしまった。


 耳をすまして、水音のするほうに下りてゆくのだが、沢にたどり着けないばかりか、もともと歩いてきたわき道すら見失っていた。森はどんどん深くなるばかりで、不安は大きくなる一方だ。ふたりはそれでも冗談をかわしたり、わざと明るい会話をしたりして、どうにか焦る気持ちを誤魔化していたのだが、ついに真吾が宣言するように言った。


「迷った!」


 その言葉が森の中に響く。


 少し後ろを歩いていた佐吉が足を止めた。かれは真顔になって言った。


「……わかってるさ、そんなことは」


 ふたりは暗闇のなかで、目を凝らすようにした。真吾は嘆息した。


「もう歩くのはやめよう。今日はここで野宿だ」


「ああ」


「水はあきらめるぞ。朝になって明るくなったら、最後に少しだけこの辺を探してみよう。それで川が見つからなかったら、上に戻ろう」


「――わかった」佐吉は短く言った。


 その時はそれで済むと思っていた。翌日、日があがってからわき道へ戻り、花畑の本道に戻れば済むだけの話なのだと。


 ところが、彼らはそれから三日間、森をさまようことになった。





 彼らは、本格的に遭難しかけていた。


「し、真吾……」


 佐吉が死にそうな声を出す。かれは大きな古木の根元に座り込み、腫れた足首をいたわるようにさ

すっていた。真吾は佐吉の前にしゃがみ、佐吉の様子を眺めていたが、思い切ったように立ち上がった。


「やっぱり、おいらが行って、助けを求めてくる」


「助けって、誰にだよっ」


 佐吉が弱々しく叫ぶ。真吾は困ったように微笑んだ。


「マルコだよ。この森の中だとマルコと会話できないけど、マルコの波動の気配はうっすら感じ取れるんだ。その気配を探って、もう少し波動を強く感じられるところまで移動して、マルコに連絡するから。それで、大天使様に救援を出してもらおう」


 佐吉は唇を噛んだ。マルコに助けられることが気に食わないのだ。だが、そんなことを言っている場合でないこともわかっている。それで、かれは無言なのだった。真吾はやさしい目で佐吉を見た。


「さすがにおいらの霊力で食べ物を出すにしても、そろそろ限界だ。もう三日も――この山のなかにいるんだから。山には少しは食べられる木の実や草もあるけど、それじゃ、腹はふくれない。わかるだろ、佐吉。このままここにいても、どうにもならない」


「お前が助けを呼びに行くにしても、もし途中でまた迷ったら、俺たち離れ離れになっちまうんだぞ。そしたら俺は――」


 佐吉はぐっとこらえるように言葉を切った。


 真吾は心配そうに友人を見た。佐吉が不安にかられるのには理由がある。


 この三日間、山中を迷い続けながら、佐吉は三度も斜面から転がり落ちていたのだ。一度目と二度目は軽い打撲と擦り傷で済んだ。だが、三度目は骨こそ折らなかったものの、足首を強くひねってしまった。


 佐吉は歩くことが出来なくなってしまった。それで真吾は佐吉を古木の根元に休ませ、自分はなるべく佐吉から離れない程度の範囲であたりを歩いて、日々の食料を探しまわっていたのだが、そうすることも限界に近づいていた。


「俺を見捨てるのかよう」


 佐吉が情けない声をあげる。真吾は首を横に振った。


「そうじゃないったら。このままふたりでここにいても、何もならない。お前が歩けない以上、おいらが行って助けを求めてこないといけない。わかるだろう」


「わかるさ。けど、この山は俺を殺そうとしている。お前がいなくなったら、俺はどんな目に遭わされるかわかったもんじゃない」


「まさか」真吾はきょとんとなった。「山がお前を――? なんで」


「知るかよっ! でもおかしいだろ。この山に入って、俺ばかり災難に遭ってるんだ。坂から落ちたり、うっかり触った木の樹液にかぶれて、痒い思いをしたり、虫に刺されたり、だいたい、三日前の、あの水音を聞いたのだって、俺のほうが先だった。あの水音さえなければ、いくらなんでもこんな森の奥まで誘い込まれなかったはずだ。あれさえなけれりゃ、もう少しマシな状態だったはずなんだ……」


 真吾は考えるように黙った。


 確かに言われてみれば、この山に入ってから、佐吉のほうが圧倒的に不運に見舞われている。偶然と言えば、偶然と思えることばかりだった。だが、それが三度、四度と続くと、あながち偶然とも思えない部分がある。


 そして三日前の水音は確かに奇妙なものだった。真吾もその音を聞いたが、音のするほうへ進めば進むほど、その音が遠ざかってゆく――そんな不思議な水音だった。


(まさか――)


 真吾はふいにわきあがった想念を慌てて消した。今、佐吉の不安をさらにかきたてるような波動は出さないほうがいい。真吾は咳払いした。


「じゃあ、お前はどうしたいんだ」


「助けを呼びに行くなら、俺も一緒に連れてゆけ」


 真吾は佐吉をまじまじと見た。


「それはいいけど、歩けるのか、お前」


「歩けない」佐吉はきっぱり言う。


「だから、お前の肩を貸してくれ」


 真吾は宙を仰いだ。





 結局、真吾は佐吉に肩を貸してやって歩いていた。


(困ったな。これじゃ二人とも――行き倒れるかも……)


 不安は少しずつ確かな現実となりはじめていた。今はいいかもしれない。明日もなんとかしのげるかもしれない。だが、明後日になれば、もう、どうなっているか真吾には分からなかった。


「う……痛ぇ――すまない。少しやすんでくれ」


 佐吉が真吾の肩にしがみつきながら、申しなさそうに言う。真吾は息をついて「いいよ」と答えた。


 佐吉もなるべく真吾の負担にならないように、歩こうと努力しているのだ。それは真吾にもわかる。だが、どうしても、佐吉を庇いながら歩くことは真吾の負担になってゆく。


(まあ、でも――仕方ないか)


 真吾はそう思うことにした。横田四丁目で暮らしていた頃からそうだった。佐吉は真吾に迷惑ばかりかける。だが、どうしても憎めない。佐吉に泣きつかれると、それがどんなに無茶な頼みでも、真吾はたいてい聞いてやってしまう。


(お人好しなのね!)


 いきなりだった。


 真吾の脳に誰かの――苛々した女の思念が聞こえてきた。真吾は、びくっとなって顔をあげた。佐吉を見るが、佐吉は苦しそうに立っているだけで、今の声が聞こえた様子ではない。真吾は心のなかで恐る恐る呼びかけた。


(……どちら様でしょうか――)


 応えは無い。


 真吾は、気のせいだったのかな、と小首をかしげる。と、真吾は目をしばたたいた。前方に、民家の屋根らしきものが見えた。人の気配がした。耳をすますと、犬の吠える声と誰かが薪割りをしている音が聞こえる。真吾は体中から力が抜けてゆくのを感じた。


 彼らは助かったのだった。


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