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第2章------(5)



 山のなかにふたつの薪割りの音が響く。


 ひとつの音はリズムよく刻まれて、いったん止まって、すぐまた再開する。けれども、もう一方の音は薪に斧を突き立てる音と音の間が長い。コツッ、と音がすると、次のコツッはかなり後だ。その理由は佐吉にあった。


「うー、腰が痛ぇ」


 佐吉は身を起こすと、腰をいたわるように「よいしょ」と伸ばした。


 佐吉の足元の丸太はまだ少しも割れていない。玉切りにされた丸太の同じところを何度か叩いて、ヒビが入ったら、その割れ目に斧の刃先を押し込んで、二つに割る。それが二人に与えられた仕事なのだったが、佐吉は斧を振り下ろすたびに休憩しようとするので、全く、はかどらない。


 真吾は斧を持つ手を止めた。


「おい。また休憩か? お前、おいらの半分も仕事してないだろう」


「そんなことねえよ」


 佐吉は薪割りの台代わりの大きな丸太に腰かけて、ふーと息をついた。


「俺はあんなに酷く足をくじいたんだぞ。不安定な姿勢でするから、お前より疲れるんだ」


「とっくに治ってるだろ。だいたいそれを言うなら、おいらだって腰痛もちだ」


「だったら、お前も少し、休め」


 佐吉は無責任に言った。


「腰痛の痔もちだもんな。同情するぜ。ガキみたいな顔して、中味は爺ィだもんな」


「……お前もだろう」


 真吾はムッとして友人を見る。佐吉はとぼけた。


「さて、どうだったかな。誰かさんと違って、俺は生前のことは忘れる主義だから」


「……」


 真吾は憤然とした顔つきになって、息をつく。それから、手にしていた斧を丸太に突き刺すと、地べたに座り込んだ。顔をあげると、空がよく晴れている。家のまわりは緑の木々に囲まれていて、はるか向こうには彼らが近いうちにまた登らなければならない険しい山がそびえている。顔に、お日様があたって気持ちよい。


「なあ、おいらたち、どうしてこんなところで、こんなことしてるんだろうなァ」


 真吾はしみじみした口調で言った。





 五日前、真吾と佐吉は遭難しかけた。


 だが、山道を見失い、迷い迷ってたどり着いた先にこの民家を見つけたことで、かろうじて助かることができた。


 民家にはやたらと元気な老婆と、うるさく吠える犬がいた。老婆は疲労しきった真吾たちを見ると、快く食事と寝床を提供してくれた。だが、その代償も求めた。それがこの家での労働だった。


「わしは見てのとおりの年だからね、肉体労働はこたえるのだよ。だからしばらくの間、若い者たちにこの家の仕事を手伝ってもらえたら、とても嬉しいのだよ」


 老婆は皺だらけの顔をくしゃっとさせて笑った。真吾と佐吉もつられて笑い返してから、自分たちの手元にある、すっかり空になったお椀を見た。老婆が言った。


「お代わりはどうかね」


「……いただきます」


 老婆の粥はうまかった。





「だいたいあの婆さん、俺たちより元気じゃないかよ。朝から晩まで動きまわってて、足腰も丈夫そうだし、腕力もなかなかある。労働の助けなんていらねえんじゃないのか」


 佐吉はぶつぶつ言う。真吾は「まあまあ」と言う。


「でも、おいらたちが助けられたのは事実だし、お礼をするのは当然だろう。それに、菊音さんのことも何か知ってそうだし」


「本人は知らねえって言ってたけどね」


 佐吉が言った。真吾も困ったように唸る。


「うーん」


 そうなのだった。五日前、老婆の家の戸を叩いて、家に入れてもらった後、すぐに彼らは菊音のことを聞いたのだった。けれども、老婆は「そんな者はここにはおらん」と答えるだけだった。また、老婆から嘘をついている波動は出ていなかった。


「いないって言うのは本当だぞ、きっと」と佐吉。


「そうだなあ」真吾は腕を組む。


「だけどさ、おいら、地上界で菊音さんの霊人の波動を教えてもらっただろう? その波動の残留をあの家に強く感じるんだよ。だから、菊音さんはここに来てるはずなんだ」


「あの婆さんが菊音本人っていうことは? そもそもここは最近作られたばかりの、菊音自身の、個人霊界なんだろう? だったらそこに赤の他人がまぎれこんでいること自体がおかしいんじゃないのか? あの婆さんの正体は菊音自身か、それとも極めて近い家族か――」


 佐吉が言う。真吾は考えるように黙って、首を横に振った。


「家族かどうかはわからないけど、少なくとも、あのお婆さんは菊音さんじゃないよ」


 老婆の霊人の波動は、教えられた波動とは異なっている。それに真吾には思うところがあった。


(多分、菊音さんはあの人だ)


 五日前、真吾たちがこの山で遭難しそうになっていた時、真吾の脳に直接、声を送りこんできた女がいた。その女が菊音なのだと、今では真吾は確信していた。


(あの時はびっくりして、話もできなかったけど――)


 鮮烈な波動だった。その瞬間、真吾の脳裏に凛とした女の立ち姿が見えた気がした。


(あの時、もう少し、会話することができていれば)


 後悔したが、どうしようもない。


 老婆の家には菊音の波動の残留が感じられる。それで真吾は老婆に言いつけられた仕事をしながら、もう一度、菊音から接触してくるのを待っていたのだ。


「お若いの。薪は割れたかね」


 道の向こうから老婆が犬を連れて現われた。老婆の背中には背丈ほどもある大きな荷物がある。それを担ぎながら、確かな足取りで歩いてくる。その様子を、真吾と佐吉は呆れたように見た。





「今日は修験者のところに弁当を持っていってもらう」


 翌朝、老婆が言った。真吾と佐吉は「へ?」と聞き返した。


「修験者?」


「知らんのか。山中で修行をする修道者の行者のことだ」


 老婆が囲炉裏で朝食の火の始末をしながら言う。真吾は慌てて言った。


「いえ、それは……この霊界にはまだ他に人が住んでいたんですか」


「住んでいるも何も、あの修験者がこの霊界の長だからな」


 老婆の言葉を聞いて、真吾は「え」と言葉を漏らす。


「この霊界の長。つまりそれは……」


 この霊界を作った菊音のことではないのだろうか。真吾は老婆をじっと見つめた。


「菊音さんのことですか」


「知らん。そんな者は」


 言ってから、老婆の波動がわずかに揺れた。真吾はそれを見逃さなかった。


「お婆さん、本当にあなたは菊音さんという女の人を知らないんですか。今じゃなくても、生前、あなたが生きていた頃、どこかで会ったことは」


「……わしの父宮の邸には多くの使用人がいたから、そういう名の者もいたかもしれぬ。いいか、わしは偽りは言うてない。ここにそんな者はおらん。だが、生前は、その名を持つ者もわしの近くにいたかもしれないということだけだ」


 老婆はもごもご言う。昨日までは「おらん、おらん」としか言わなかった老婆が、急に違う受け答えをしたことに驚いて、真吾と佐吉は顔を見合わせた。


(だいたい父宮って――皇族ってことか。まさか……?)


 老婆の言葉には問いたださなければならない内容がたくさんあった。しかし、真吾は一番、肝心なところをもう一度、聞いた。


「修験者は菊音さんですか」


「違う」


「――お婆さんはその修験者に会ったことがあるんですか」


「ある!」


 老婆は高らかに宣言した。それから老婆は、老婆の言葉に混乱している真吾と佐吉を見下したような目で見た。


「ならば、言おう。わしは、生前、京の都に暮らしておった頃、それはそれは高貴な姫として大切に育てられ、皆に敬愛されておった。かの修験者は当時、陰陽道の達人としても知られており、貴族たちの邸に呼ばれることが多かった」


「……――」


 突然、はじまった身の上話に二人はぽかんとなった。


「わしは高貴な姫であったゆえ、生前、修験者に会ったことはない。だが、母上がよくこの修験者を邸へ呼び、悪霊祓いの儀をさせておった。わしに通う殿方がいないのは、世間の悪評と悪霊のせいだと仰ってな。ともあれ、かの修験者にはひとかたならず世話になった。それで、こちらの世界に来てから、わしがあやつを世話してやっているのだ」


 真吾と佐吉には何のことだかわからない。佐吉がコホンと咳払いした。


「お婆さん、失礼ですが、現世でのあなたのお父上の冠位とお名前は?」


「無礼者!」老婆は一喝した。


「わしを誰だと心得る。本来なら、そなたたちのような下賎の者が目通りを許されることもない身なのだ。そのわしが直々に声をかけ、こうして世話してやっているのが、どれだけ有り難いことであるか考えるがよい」


「でも、お婆さん。それは――」


「もうよせ、真吾」佐吉が止めた。佐吉は真吾の口を塞ぐと、「いいから」と目配せした。


「わかりました、姫君。俺たちはその修験者のところへ行きます。道を教えて下さい」


「わかれば、よろしい」


 老婆は満足そうに頷いた。





 その後、真吾と佐吉は身支度を整えて、老婆の家の前にいた。老婆は今、修験者に与える弁当を用意していて、それが出来次第、真吾たちは出発することになっていた。真吾は低い声で言った。


「佐吉。さっきのはどういうつもりだ」


「どういうつもりもなにも、頭のおかしな婆さんの言うことを真に受けるんじゃない。それにそろそろ、ずらかったほうがいい。わけがわからんが、いい機会だ」


「おい、どいう意味……」


 真吾が聞き返そうとした時だった。ガラッと粗末な木戸が開いて、老婆が姿を現した。真吾は今の会話を聞かれたのではないかと怯えるように老婆を見る。幸い、老婆は何も聞いてないようだった。彼女は地味な色の風呂敷包みを差し出した。


「これを渡してくるのだ」


「は、はい」真吾は頷く。


「修験者は常に違う場所にいる。今、このお山のどこにいるかは誰にもわからん。だから、あのカモシカについてゆくがいい。あれが修験者のもとへ連れて行ってくれるだろう」


 老婆が顎をしゃくった。


 すると、家の前に、大きなカモシカがいた。勿論、それは山に入ったはじめの頃、真吾たちを見下ろしていた、白い、年老いたあのカモシカだった。



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