第2章------(3)
白い、大きなカモシカが、斜面の上から真吾と佐吉を見つめている。黒い、賢そうな瞳は、何かを語りかけてくるようだった。その圧倒的な存在感に真吾は息をのんだ。
(やっぱり、このカモシカは――ただの動物じゃない)
直感だった。
勿論、アフターワールドにも普通の動物は存在している。地上界でお馴染みの、犬や猫といった動物もいるし、地上界には決して存在しないユニコーンだの、妖精、あるいは妖怪だのといった奇妙な生き物たちも生息している。
だから、このカモシカが本当のカモシカである可能性は捨てきれない。けれども、真吾はどうしてもこのカモシカはただの動物ではなく、霊人が姿を変えているもののように思えてならなかった。力のある霊人なら、一時的に自分の形状を変えることも可能なはずだった。
真吾はカモシカを真っ直ぐ見た。思い切って、声をかけてみた。
「あの――菊音さんですか? はじめまして。おいら、桜田真吾と言います。すみません、いきなりお邪魔しちゃって」
カモシカは不思議そうに目を向けている。真吾の言葉が自分にかけられたものであることを理解しているのか、耳のあたりがぴくぴく動いている。
「おいらは、あなたの遠縁です。あなたが自分の霊界にいなかったので、こちらまでおしかけてしまいました」
真吾はいったん言葉を切って、返答を待った。だが、いくら待っても、返事はなかった。カモシカはしばらく二人の侵入者を見つめていたが、やがて、太い首を振りあげ、背を向けた。そうして、上に向かって駆けだした。
「あっ! 待ってください」
真吾は声を張りあげた。
だが、カモシカは止まらなかった。岩だらけの斜面を器用にのぼってゆく。一回だけ、はるか下方にいる二人を振り向くように見たが、それだけだった。その目はまるで「登ってこられるものなら、登っておいで」とでも言っているようだった。
真吾と佐吉は顔を見合わせた。
「どうするよ……」
佐吉が途方にくれたように言う。真吾は息をついた。
「どうするって、このまま山頂に向かって歩くしかないだろう。おいらたちは、あんな斜面のぼれない」
カモシカはどんな岩山でも楽々と上り下りできるが、霊人たちはそうではない。もしくは、この霊界の住人だったら、霊人であっても、自分のテリトリーの範囲内で瞬時に移動することは出来たかもしれない。だが、真吾たちはそうではない。ただの来訪者だった。しかもこの霊界は菊音というひとりの霊人が作り出した個人霊界であり、その他の霊人が住むことは前提とされていない。
真吾は自分の足を見た。
「この二本の足で歩くしかない。たいしたことはない。いつだって、おいらたちはそうやってきたんだから」
「そりゃそうだけどよう。不公平だよなぁ。たとえばあの大天使なら、どんな霊界でも一瞬で好きなところへ行けるはずだ。なのに、俺たちはいつだって歩かなきゃならない。おまけに、どんなに歩いたって、着けない場所もあるし」
佐吉がぶつぶつ言う。真吾は「仕方ないさ」と肩をすくめる。
「だいたい、おいらたちがこんな遠い霊界まではるばる来れたのだって、ラファエル様からもらった天使の手形のおかげだろう。手形がなかったら、元四丁目付近の霊界から一歩も出られなかったさ」
「まあな」佐吉は認めた。
「俺はこんな上の霊界に来たことない。こんな霊界があるなんて、想像もできなかった」
「おいらもだよ」
真吾は感嘆するように言った。
「こんな大きな霊界が、たった一人で作り出した霊界だなんて、信じられない。横田四丁目がいったいいくつ入るんだろう……ここなら地獄の堕天使たちに攻撃されることもないだろうし、霊人のレベルが高いってのは、本当に、こういうことなんだな」
彼らは山道を登りはじめた。
山道はだんだん険しさを増していった。真吾たちが、ようやく先ほどのカモシカが登っていった斜面のあたりに辿りついた頃には、付近は、はじめの比較的歩きやすかった道とは全く異なったものになっていた。
「おい――」
佐吉は苦しそうに言った。
「休憩しようぜ。少し、疲れた。水……」
「さっきも休憩したばかりだろ」
真吾も肩で息をしながら、汗でぬれた額を手でぬぐった。だが、佐吉はもう斜面に背中をつけて寝転んでいる。真吾は「仕方ないな」と呟くと、佐吉のために竹筒に入れた水を取り出してやった。
「ありがとよ。生き返るぜ」
佐吉は竹筒の水をぐいと飲むと、真吾に渡した。真吾も一口、水を口に含んだ。佐吉は眼下の景色を見下ろしながら、呟いた。
「俺たち、かなり上がってきたよな。まだ山頂じゃないのか」
「さあ、まだじゃないかな」
真吾は途方にくれたように上を見た。彼らがいるあたりは完璧な岩山で、視界を遮るものがなかったから、山の様子はよく見えるのだ。だが、彼らの頭上で大きく反り返っている頂はどう考えてもこの山全体の頂ではなかった。
しかもその間近にあるはずの、単なる通過点に過ぎないはずの頂にさえ、いくら歩いても近づけない。見あげると近く見えるが、実際はとても遠いところにあるのではないかと真吾は思いはじめていた。
「マルコ。聞こえるか?」
真吾は心を集中させて、宙に向かって呼びかけた。耳をすましていると、少し間をおいて、答えがあった。
(はい。聞こえます)
真吾は、ほっとした顔になった。
「おいらたちがどこにいるか、そこからわかるか」
また間があった。マルコが躊躇いがちに答えてきた。
(多分、わかります。だんだん波動の気配をたぐるのが難しくなってるんですが、まだ今のところは)
「おいらたちはどこにいる。山の下なのか、中ほどなのかだけでいいから、教えてくれ」
(……山すそのほうですね)
「頂上までは?」
(まだ全然、ありますよ。それから、知らせておいたほうがいいと思うんですが、その、山の上のほうの雲行きが怪しくなってます。上のほうは猛吹雪になっているかも――)
マルコの言葉を聞いて、山の中の二人はぎょっとなった。佐吉が叫んだ。
「てめぇ、適当なこと言うんじゃねえぞ! こっちは晴れてる。雲ひとつない、真っ青な空だ。何が吹雪きだ」
(――……だから、それは、まだあなたたちが山のずっと下のほうにいるからですよ。それに空が……向こうの空が少しずつ暗くなって来てます。夜が来るかも)
とマルコの声。佐吉がまた何か言いかけようとするのを真吾は制した。
「わかった。有り難う。お前たちは、そのままそこにいてくれ」
(わかりました)
マルコの気配が消えた。真吾は立ち上がった。
「休憩は終わりだ。とにかくこの斜面を登りきって、今夜、休めそうな場所を見つけるぞ」
「こ、今夜?」
佐吉がびっくりして聞き返す。真吾は頷いた。
「そうだ。どっちにしろ、暗くなる前までに山を登りきるのは無理だ。おいらたちはこれだけ歩いて、まだ下のほうにいるんだ。この霊界の朝夕がどれくらいの割合なのかはわからないけど、このまま日が暮れて、ずっと夜が続いてみろ、そこを吹雪きに見舞われたらどうなる?」
「とんでもねえな」
佐吉は短く答えた。
開拓時代の北海道を知っている二人は吹雪の恐ろしさは身に染みている。戦後、近代化の波に乗り、北海道も都市部はそれなりに暮らしやすくなったが、都市部から切り離された町や村では厳しい環境に変わりはなかった。僻地の漁村で漁師をしていた佐吉は、札幌暮らしの真吾より、自然の恐ろしさについて知っていた。佐吉がマルコに言った言葉はあながち誇張ではなかった。
真吾は「そういうことだ」と言った。
「山上を目指すのは後回しだ。多分、あの突き出た岩を登りきれば、斜面がゆるくなるはずだ。そこで横道を探して、野宿できそうな洞窟とか窪みを探そう」
「わかったよ」
佐吉は、もう文句を言わなかった。
果たして、真吾の言ったとおり、山は急勾配のあと、ならだかな斜面になった。彼らの頭上で反り返っていた岩山をどうにか上りきると、突然、視界が開けた。
真吾と佐吉は歓声をあげた。
彼らの腕の筋肉は痺れてガクガクになっていたし、手足は岩でひっかけた小さな擦り傷や切り傷だらけになっていたが、彼らはかまわず、広々とした斜面にまろびでた。早速、あたりを見回し、野宿できそうな場所がないか探す。
「おい。緑があるぞ」
佐吉が叫んだ。真吾は目を丸くした。
「花もある! 綺麗な花だ。なんて豊かな自然なんだろう」
彼らは目を疑った。その場所に辿り着く直前までは、枯れかけた草の一本も生えていない岩山だったのに、その頂の先はなだらかな斜面になっていて、一面に豊かな草花が生えている。その花畑は、あの殺風景な岩山の直後であるだけに、生き生きと美しい。
「凄いな。ああ、それに見てみろ――マルコの言ったとおりだ」
はるか向こうに見える、この山の本当の頂を真吾は指差した。
まるで天に突き出るような鋭い峰だった。その上のほうが不気味な雲に覆われている。雲のなかはおそらく、吹雪だろう。
「冗談だろ」佐吉は唸った。
「ひと山登ったと思ったら、その上にまた山があって、おまけに吹雪かよ。おい、本当にあんなところ、行くのか。俺たちで行けるのか?」
「わからない」
真吾は正直に答えた。はじめた菊音の個人霊界に行って、隠れている菊音を探すだけの簡単な仕事だと思っていたが、この霊界は想像以上に広く、手ごわいものだった。
(あの大天使め……)
それでラファエルは真吾に菊音を探してくるよう命じたのだ。天使は、この霊界がたいへん面倒であることを承知していたのだ。真吾は前方を見据えながら、言った。
「……行けるところまで行ってみよう。さっきのカモシカが菊音さんだとしたら、カモシカさえ見つけられれば、いいはずなんだ」
「ただのか弱い霊人が山であんな動物に追いつけるもんか。あれが本当に探してる霊人だったとしたって、向こうにその気がない限り、永遠に会えるわけないぞ」
佐吉は弱音を吐いた。
「大丈夫だ、佐吉。たとえカモシカが菊音さん本人じゃなくたって、もう、向こうはおいらたちがここに入っていることは知っている」真吾は振り向いて言った。
「個人霊界に二人も他の霊人が入り込んでいるんだ。向こうだって気持ち悪いから、早く出て行って欲しいはずだ。おいらたちがこのまま山中をうろついていたら、そのうち向こうから顔を出すさ」
「――だと良いけどな」
佐吉は真吾ほど状況を楽観できないようだったが、それ以上は言わず、歩き出した。
彼らは野宿できる場所を探すために横道にそれた。
この霊界には横田四丁目ほど明確な朝夕の区別はないようだったが、それでもゆっくりと付近の様子が変わって来ているのがわかった。風に冷気がまざりはじめ、明るかった空が少しずつ、暗くなりはじめた。そうして、気がつくと、彼らは道に迷っていた。




