第2章------(2)
真吾は、ぽかんと口を開いた。
かれは霊界に戻っていたが、目の前には堂々たる山脈がそびえている。険しい山の頂には白いものがあり、切り立った岩壁が山々の険峻さをあらわしている。それらの山の他にあたりには何もない。山すそに僅かな緑があったが、小さな集落さえなかった。青い空とその空に突き刺さるような山脈。それだけだった。
そしてこの場所こそ、地上界で教えられた菊音の波動をたどって行き着いた霊界だった。
「ねえ、真吾。本当にアレに登るんですか」
マルコが呆れたように言った。マルコの手を握ったベアトリーチェも珍しそうに山々の威容を眺めている。
「山だね。兄さま」
「うん」
「誰がこんな山を作ったの」
「さあ」
「この山はどこまで続いているの」
「さあ――霊界の山だからね。無限かもしれないよ」
マルコはさらりと恐ろしいことを言って、感心したように山々を見つめた。
「これが一個人の霊界だとしたら、その菊音さんという人は凄い霊人ですね。と言うか、本当に誰とも会いたくないという気持ちが滲み出ているというか……誰とも会わず、誰からも干渉されない空間に引きこもりたくなってしまったんですね。そういう気持ち、僕は少しわかります」
マルコが言うと、佐吉が横から口を出した。
「なんだ。お前、引きこもりたいのか。だったら、遠慮しないでいつでも引きこもってくれていいんだぞ。このイタリアオタクめ」
「人生のなかでは、時には引きこもることも必要です」
マルコは佐吉を怖い目で見た。だが、もとが可愛らしい顔立ちなので、睨みつけても迫力にかける。佐吉はおどけたように言った。
「おお、怖い。怖い」
「怒りますよ、佐吉さん。人はたまには自分の世界にこもって、本当の自分と向き合う時間を持つべきなんです。そのことを知らない浅はかな人間は、ただその場だけ楽しく、表面的に生きて、それが人生の充実だなんて勘違いしているけれど、彼らは自分たちの薄っぺらさに直面するのを恐れているだけなのです」
「偉そうに。お前なんて、引きこもったって、昭和アニメを見てるだけじゃねえか」
「アニメを馬鹿にしないで下さい。アニメは芸術です」
マルコは熱をこめて言う。途端だった。マルコの波動から、マルコの人生のなかで見聞きしたあらゆるアニメーションの音声と画像が、佐吉の脳に向かって勢いよく流れだしてきた。膨大な情報の洪水を受け止めきれず、佐吉は「わっ」と叫んだ。
頭のなかで、はいからさんが「にひひ」と笑っている。一方では、佐吉が知らない白い人型ロボットが敵ロボットと戦っている。かと思えば、キラキラ光る杖を持ったミニスカートの少女がポーズを決めている。
「やめろ。俺が悪かった!」
佐吉はわめいた。
マルコが送ってきた情報のなかには、既存のアニメや漫画の他にもマルコ自身が描いた作品も混ざっていて、佐吉はますますわけがわからなくなった。その情報の洪水が、ふっと消えた。
「わかればいいんです」
マルコはすまして言う。
佐吉は肩で息をしながら、マルコを睨んだ。お返しに佐吉もマルコに何かダメージを与えられる情報をぶつけてやりたがったが、佐吉の霊人レベルではその力はない。佐吉は横を向いて、ぶつぶつ言った。
「とにかく、問題はあの山だ。あれに登るなんて信じられない。登らなくて良いやつは気楽なもんだよな。お気楽だから、くらだねえこと言いやがる」
「なんですって」
「おい。やめないか、ふたりとも」
真吾が見かねて口をはさんだ。佐吉とマルコの言い争いはいつものことだったし、この霊界に来るまでの間にも、彼らは何度も口論していた。真吾はふたりの言い争いは、通常は放っておくことにしている。だが、今はさすがに焦っていた。
「あの山が珍しいのは皆同じだ。あんな山、四丁目にはなかった」
「あるわけないですよ。それに死後、永遠の地を探すためにまわったいくつかの霊界にだって、こんなものなかった。地上界にいた頃だって、僕らはローマ暮らしが長かったから、山なんて日常では見なかった」
マルコは言った。すると、佐吉がまた口を出した。
「北海道には日高山脈っていう山があってな、あれよりずっと大きかった」
「本当ですか」とマルコ。マルコが感心したような声を出したので、佐吉は胸を張った。
「ああ」
「登ったこと、あるんですか」
「十勝平野から見ただけだ。登ってたまるか、あんな山」
「なら、僕らと変わらないじゃないですか」
「そんなことはない、全然、違う」と佐吉。
「第一、ローマでぬくぬく暮らしていたお前たちに北海道の自然がわかるか? 俺たちは開拓時代の、あの厳しい冬の北海道で生き抜いたんだ」
「それがあなたの自慢ですか」
マルコはがっかりした声を出す。佐吉はムキになった。
「何だと、こら。それがわかってないって言うんだ。家の前の、たった十メートル離れた場所でも、吹雪に視界をやられて、行き倒れることだってあったんだぞ。なあ、真吾」
「うん。まあ、そうだな……」
真吾は曖昧にこたえた。かれは仕方なさそうに息をつくと、佐吉とマルコを眺めた。
「いいか、ふたりとも。喧嘩はここまでだ。マルコ、お前はあまり佐吉の神経を逆撫でするな。佐吉もいちいちマルコの言葉尻をつかまえて、ああだこうだ文句を言うな」
「だって!」
「真吾」
佐吉とマルコが不満の声を出す。真吾は「やめないか」と強い口調で言った。普段、温厚な真吾にしては珍しい厳しい声だった。ふたりは驚いて口を閉ざした。
「とにかく」真吾は咳払いした。
「あの山に菊音さんがいるはずなんだ。だから、おいらと佐吉は山へ行く。マルコとベアトリーチェはここで待機して、異変があったら、すぐ知らせてほしい」
「――わかりました」
マルコは真吾をリーダーとして認めている。驚くほど素直に言った。佐吉はそれがまた気に食わないらしく、マルコを凄い目で睨みつける。マルコは佐吉の視線など気にする様子もなく言った。
「気をつけて行ってきてください。僕たちは霊人で、たとえ山から足を滑らせて数十メートル滑落したところで死にませんが、死ぬ恐怖や痛みは感じるし、全く霊人にダメージを受けないわけじゃありませんからね」
「わかってるよ」
真吾はやさしい目でマルコを見た。佐吉が「ちぇ」と漏らす。
「いい気なもんだよな。妹はともかく、どうして、お前が留守番で、俺たちが危険な山に登らなくちゃいけないんだ。お前だっていい年した男だろーが」
霊界でのマルコの外見は愛らしい少年だが、地上界では三十八歳まで生きた。それを考えれば、立派な成人男性である。よって、マルコが自分より年下だから、危険を免れさせるべきだという考えは佐吉の頭にはない。
マルコはちらっと真吾を見た。それから、言った。
「理由を知りたいなら教えてあげますよ。僕たちがここに残るのは、僕のほうが佐吉さんより霊人の力があるからです。単純な話です」
佐吉はカッとなった。
「てめえ」
「おいおいおい。いい加減にしろ。お前たち」
性懲りもなく口論をはじめかける二人を見て、真吾はうんざりした。
「おいらと佐吉が山を登る。そう決めたんだ」
「でもよぉ」
「こら、佐吉。わかってるだろう? あの山は何が起こるかわからない。あれが菊音さん個人の霊界だとしたら、中は閉ざされている。外部と連絡がとれなくなってしまうだろう。それでマルコたちを残すことにしたんだ」
「……」
佐吉は膨れっ面になった。真吾は言った。
「それじゃあとを頼んだぞ、マルコ」
真吾は佐吉の背中をかるく叩いて、マルコを振り返った。マルコはにっこり微笑んだ。
「行ってらっしゃい。無事のお帰りをお待ちしてます」
「うん」真吾は頷いた。
そんなやりとりがあって、真吾と佐吉は山へ入った。
登りはじめは、山道は緩やかだった。岩が目立つ、ごつごつした歩きにくい道だったが、一応、道の脇には草花が生い茂っていたりして、豊かではないけど、夏の高山のような雰囲気をかもし出していた。
山道へ入り、真吾とふたりきりになると、佐吉はマルコの悪口を言いはじめた。
「ったく、あのガキには人を思いやる心ってもんがない」
真吾は時々、立ち止まって、あたりの風景を観察しながら「まあまあ」と言った。
「まあまあ、じゃねえ。あいつは俺の顔さえ見れば、力がないとか、自分より劣ってるとか、そんなことばかり言う。いつも人をお荷物扱いして、ムカつく奴だ」
「うーん」
真吾は道端の岩に手を置きながら、唸った。
「でも、マルコはお前のことを嫌っているわけじゃないぞ。むしろ好きだと思う」
「あいつは日本人なら誰でも好きなんだ」佐吉が吐き捨てる。真吾は友人の苛立ちをなだめるように言った。
「それにお前だって、言うほど、あいつのこと嫌いなわけじゃないだろう? この前、マルコの知識の深さについて褒めていたことがあったじゃないか」
「あいつは才能を無駄遣いしてる」
むっつりと佐吉。真吾は微笑んだ。
「それを言ってやればいいんだ。お前たち、仲良くなれるぞ。趣味だって似てるんだし」
「できるか! そんなこと。それに俺とあいつじゃ、目指すところが全然っ違う」
佐吉はむくれた。それから、「あ」と声をあげた。
「見ろよ。あそこ、何かいる」
「本当だ」真吾も言った。山道からはずれた斜面のところに、大きな、白いカモシカがいた。かなり年老いていそうなカモシカだったが、その目は驚くほど賢そうだった。
「もしかして――菊音さん?」
真吾は呟くように言った。




