第87話 泥濘の絶対防壁と、すり減る命の兵站線
春の雪解け水が作り出した広大な泥濘の平原は、数万の兵と馬に踏み荒らされ、底なしの沼のような惨状を呈していた。
東国軍十万の先鋒が、わずか半日で瓦解したという事実は、旭州の本陣に重く冷たい衝撃を与えていた。
トクナガが率いる東国軍は決して烏合の衆ではない。豊かな財力で武装を整え、陣形も定石通りに組まれていた。それにもかかわらず、シュウスイ率いる北国軍は、泥濘という地形を完璧に味方につけ、伝令を遮断し、各個撃破するという神業のような分断戦術で、二倍の兵力をあっさりと食い破ったのである。
金牙城から前進し、国境付近に構築された旭州の巨大な本陣。
その中心にある大天幕の中で、覇王ジンは戦況図を睨みつけたまま、深く重い息を吐き出した。
「……完全に読み違えてたな。あのおっさん、大義を得て熱り立ってるどころか、氷みたいに冷え切った頭で、この泥沼の盤面を完全に支配してやがる」
ジンの呟きに、車椅子に座る悪魔の軍師クロウもまた、珍しく忌々しげに舌打ちをした。
「ええ。怒りや焦りで突出してくるのであれば、いくらでも罠に嵌める隙はありました。しかし、現在のシュウスイ軍は、全軍がまるで一つの生き物のように完璧な統制を保っています。こちらの十万の大軍という質量の暴力を、まともに受け止めようとはせず、柳のように躱しながら急所だけを的確に削り取ってくる。……まともに正面からぶつかり合えば、東国軍の二の舞になりかねません」
クロウの紫色の瞳が、戦況図の上に散らばる駒を冷酷に見据える。
「ジン殿。我々の目的は、あの鬼神の首を討ち取り、この乱世を終わらせること。しかし、現在のシュウスイ軍を相手に速期決戦を挑むのは、あまりにも下策です。十万の兵が半減するほどの犠牲を覚悟しなければ、あの男の喉元には届きません」
「十万の兵が半減、だと」
ジンは顔をしかめた。
「俺たちが天下を獲った後、誰が荒れ果てた土地を耕す。誰が橋を直し、国を立て直す。兵士だって、田舎に帰ればただの農民だ。これ以上、無駄な死体を積み上げて勝ったところで、誰も飯を食えねえ天下になっちまう」
ジンは、戦況図に置かれた北国軍の駒を、指でゆっくりと押し返した。
「クロウ。速攻は諦める。……あの化け物を相手に、鮮やかな勝利なんざ狙うだけ無駄だ」
ジンの顔に、最下層の薬草売りとして泥水の中から生き抜いてきた、這い蹲るような執念の色が浮かび上がった。
「あのおっさんが完璧な戦術で来るってんなら、こっちは一切の華やかさを捨てて、ただひたすらに泥臭く、しぶとく戦う。……戦を、底なしの泥沼の持久戦に引きずり込むんだ」
ジンのその決断は、旭州軍の戦術方針を根本から転換させるものであった。
「ガク! ゲント!」
ジンの呼びかけに、十文字槍を手にした無口な青年と、冷徹な軍規を司る元黎州の将が同時に歩み出た。
「お前たち二人に、最前線の全指揮を任せる。攻撃に出る必要は一切ねえ。ただひたすらに、あのおっさんの軍勢が南へ一歩も進めないような、分厚くて嫌らしい防衛線を構築しろ」
「承知いたしました。親父」
ガクが短く頷く。
「……御意。私とガクの二人が並び立てば、いかなる軍略をもってしても容易には崩せぬ『正道の絶対防衛陣』を敷いてご覧に入れます」
ゲントの無機質な声に、確かな自負が宿っていた。
「リョウガのおっさん!」
ジンはさらに、天幕の隅で酒瓶を傾けていた海狗衆の頭目を呼んだ。
「おうよ、大将。俺の出番か」
「ああ。シオンが遺した火薬兵器の筒、ありったけ前線に並べろ。敵が密集してきたら、容赦なくぶっ放して足止めしてやれ。……それと、これが一番重要だ」
ジンは、戦況図に描かれた、南の海から暴牙川を通り、西国の国境へと至る巨大な水路を指差した。
「十万の大軍をこの泥沼に長期間釘付けにするには、飯が要る。圧倒的な量の飯と物資だ。お前の水軍の船を総動員して、南国と西国の蔵から、兵糧を絶え間なく前線に運び上げろ。一食でも兵の飯が途切れたら、俺たちの負けだと思え」
「ヒヒッ、任せときな。海狗衆の操船技術を舐めちゃいけねえ。血の雨が降ろうが槍が降ろうが、大将の兵隊たちの胃袋は、俺たちが水運でパンパンに満たしてやるよ」
リョウガが胸を叩いて請け負った。
「ゴウ、レン。お前らは遊撃だ。ガクたちの防衛線が危なくなった箇所にピンポイントで突っ込んで、敵を押し返せ。ただし、絶対に深追いはするな」
「チッ……ド派手に大将首を狙いに行けねえのはストレスが溜まるが、親父の命令なら仕方ねえな」
「ああ。我慢の戦いってわけだ。付き合うぜ、ジン」
それぞれの役割を与えられた旭州の将たちは、一斉に天幕を飛び出していった。
ここに、十万の大軍のすべてを「防衛と兵站」に極振りするという、天下分け目の大戦において類を見ない、極めて泥臭い持久戦の幕が上がったのである。
翌朝。
泥濘の平原に、旭州軍の新たな陣形が姿を現した。
それは、東国軍が用いたような単調な方円の陣ではない。
ガクとゲントが指揮を執るその陣形は、平原の起伏や泥の深さを完璧に計算し尽くし、幾重にも連なる「波」のような複層的な構造を持っていた。
最前列には、巨大な木盾を地面に突き刺した重装歩兵が壁を作り、その後ろから無数の長槍が棘のように突き出している。さらにその後方には、弓兵が弓を引き絞って待機し、一定の距離ごとに、ゴウやレンが率いる機動力に優れた遊撃部隊が遊軍として配置されていた。
この陣形の真骨頂は、その「柔軟性」にあった。
どこか一点に攻撃が集中すれば、その部分の盾部隊が泥濘を利用してゆっくりと後退し、敵の突撃の威力を吸収する。そして、敵が陣形の奥深くに誘い込まれた瞬間に、左右から遊撃部隊が挟み撃ちにするという、巨大な蟻地獄のような構造である。
「……ほう」
遥か前方、北国軍の本陣からその陣形を観察していたシュウスイは、感嘆の息を漏らした。
「あれは、かつてメイカク殿が考案し、机上の空論として封印されたはずの『千波万波の陣』……。それを、この泥濘の平原で完全に実戦配備してみせたか」
シュウスイの鋭い眼光が、旭州の陣形の中心で采配を振るう二人の将を捉えた。
「ゲント。お前の規律の正しさが、あの複雑な陣形に命を吹き込んでいるのだな。そして、ガクとやら。あの若さで、地形と兵の疲労度を完璧に読み切る築城の才能……。ジンの下には、恐ろしい将が育っているものだ」
シュウスイは、しかし焦ることはなかった。
どのような絶対防衛陣であろうとも、軍を動かす人間がいる限り、必ず綻びは生じる。彼は自軍の精鋭部隊に命じ、陣形の最も脆いと思われる側面へと、試験的な波状攻撃を仕掛けた。
「突撃ィィッ! 泥犬どもの盾を叩き割れ!」
北国の重装歩兵たちが、かんじきを履いた足で泥濘を滑るように駆け抜け、旭州の防衛線の側面に激突する。
ガクの指揮する盾部隊が、計算通りにゆっくりと後退し、敵を陣形の奥へと誘い込もうとする。
だが、シュウスイはそれを見越していた。
「退くな! 踏み止まって盾を押し返せ! 後続の槍隊、前の部隊の肩を踏み台にして跳躍し、敵の弓兵を直接狙え!」
シュウスイの神業のような指揮伝達により、北国軍の突撃部隊は誘い込まれる寸前で急停止し、逆に盾の壁を強引に押し潰しながら、後方の弓兵部隊へと直接肉薄しようとしたのである。
陣形の柔軟性を逆手に取った、あまりにも鋭く、暴力的な戦術。
ガクの表情が初めて険しくなり、ゲントが迎撃の号令を口にしようとした、その瞬間。
ドゴォォォォォンッ!!!
戦場の空気を切り裂くような、凄まじい爆発音が泥濘の平原に轟いた。
「な、なんだ!?」
北国の兵士たちが、耳を覆って足を止める。
旭州の陣形の後方、小高い丘の裏側に隠されていた巨大な鉄の筒から、漆黒の煙と火柱が噴き上がっていた。
リョウガ率いる海狗衆が操作する、シオンの遺した設計図を元に造り上げられた新兵器。南の海から運び込まれた硝石を用いた、初期の大砲である。
放たれた黒色火薬の塊は、北国軍の突撃部隊のすぐ数十メートル手前の泥濘に突き刺さり、大音響と共に炸裂した。
爆風と熱波が吹き荒れ、大量の泥が雨のように降り注ぐ。直撃こそ免れたものの、未知の轟音と閃光に、訓練され尽くした北国軍の兵士たちの足並みが完全に乱れた。
「ヒャハハハ! ビビったか雪国の田舎者ども! 暴牙川の海狗衆特製、火吹き竜の咆哮だ! 続けざまに撃ちまくれェ!」
リョウガの号令と共に、さらに数発の砲弾が、今度はシュウスイ軍の後方、増援部隊が待機している位置を正確に狙って撃ち込まれた。
ドォン! ドォン! と連続する爆発音が、大地を揺るがす。
「……退け!」
シュウスイは、一瞬の躊躇いもなく撤退の銅鑼を鳴らさせた。
彼の判断は氷のように冷徹であった。未知の火薬兵器の威力を瞬時に計算し、これ以上あの轟音の中で陣形を維持することは不可能であり、無駄な犠牲を増やすだけだと悟ったのだ。
「全軍、陣形を維持したまま、砲撃の射程外まで後退せよ。決して背中を見せるな」
シュウスイの完璧な統制により、北国軍はパニックを起こすことなく、盾を構えたまま整然と後退し、旭州の射程外へと離脱していった。
その見事な引き際に、旭州の将たちは誰も歓声を上げることができなかった。
「……恐ろしいおっさんだ。あの爆発を目の前で見せられて、一人の兵も混乱させずに撤退させやがった」
前線で様子を見ていたジンが、冷や汗を拭いながら呟く。
「新兵器の初見殺しが通用しないとは。……ですが、これでシュウスイ軍は、我々の防衛陣に迂闊には近づけなくなりました」
クロウが、車椅子の肘掛けを指で叩きながら分析する。
「ええ。ガクとゲントの防衛陣を崩そうと密集すれば、リョウガの新兵器の的になる。散開して近づけば、遊撃部隊の餌食になる。……これで、戦線は完全に膠着します」
ジンの狙い通り、戦いは泥沼の持久戦へと突入した。
シュウスイは、旭州軍の防衛陣と新兵器の威力を正確に測り切ると、無理な攻撃を一切控え、射程外の泥濘に自らも強固な陣地を構築し始めた。
彼は兵士たちに泥を掘らせ、土塁を築き、矢を避けるための防壁を幾重にも巡らせていく。彼もまた、この戦いが数日で終わるものではないと理解し、腹を据えて旭州軍の兵糧が尽きるのを待つ構えを見せたのである。
季節は春から、じっとりと汗ばむ初夏へと移り変わろうとしていた。
泥濘の平原を挟んで、十万の旭州軍と、数万の北国軍が、互いに一歩も退かずに睨み合う。
小競り合いは毎日起こるが、決定的な衝突には至らない。双方が極限まで洗練された戦術と防衛力を持っているため、一度でも大きく動いた方が致命傷を負う、恐るべき緊張状態が続いていた。
この膠着状態を支えていたのは、両軍の背後に延びる、血の滲むような「兵站線」の維持であった。
旭州の本陣のさらに後方、西国を縦断する大河には、毎日数え切れないほどの輸送船が行き交っていた。
リョウガが束ねる海狗衆の船団である。彼らは南の海や西国の豊かな穀倉地帯から、文字通り山のような米や麦、塩を積み込み、逆巻く川の流れを必死に遡って前線へと物資を運び続けていた。
「おい、もっと早く荷を下ろせ! 十万の胃袋が待ってんだぞ!」
「雨で米が濡れねえように覆いをしっかりかけろ! 腐らせたらジン大将に殺されるぞ!」
船着き場では、何千人もの兵士や人夫たちが泥にまみれながら、重い米俵を肩に担いで本陣の蔵へと運び込んでいる。
ジンは、自らも泥だらけになって船着き場に立ち、荷下ろしの指示を飛ばしていた。覇王となった今でも、彼の根底にあるのは「民を、兵を食わせる」という薬草売り時代の泥臭い哲学である。彼が自ら汗を流す姿を見て、兵士たちは疲労を忘れ、必死に兵站を支え続けていた。
対するシュウスイ軍の兵站もまた、驚異的であった。
彼らは北国の雪中備蓄を完璧に管理し、後方の砦から特殊な荷車を使って、一切の無駄なく前線に食糧を供給し続けていた。シュウスイの冷徹な計算により、兵士たちの食事の量は厳密に規定され、一粒の麦すら無駄にすることは許されなかった。
「……腹の探り合いと、我慢比べ。どっちの胃袋と忍耐が先に限界を迎えるか、って戦いだな」
夜の帳が下りた本陣の天幕で、ジンは泥のついた手で握り飯を頬張りながら、遠く北に瞬く敵陣の篝火を睨みつけた。
「シュウスイのオッサンも、こっちが音を上げるのをじっと待ってやがる。……だがな、俺たちは泥水すすって生きてきた旭州の野犬だ。我慢強さじゃ、誰にも負けねえよ」
静寂に包まれた泥濘の戦場。
そこには、華々しい一騎討ちも、奇をてらった奇策もない。あるのは、数万の命を繋ぐための食糧の確保と、互いの精神を極限まで削り合う、気の遠くなるような忍耐の連続であった。
二百年の伝統を背負う完璧な鬼神と、泥から這い上がった十倍の覇王。
二人の巨人の意地と意地がぶつかり合う、終わりの見えない「一年戦争」の泥沼は、いよいよその深さを増していくのであった。




