表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

95/111

第86話 老狸の誤算と、泥濘に沈む東の軍勢

春の雪解けがもたらした西国と北国の国境地帯は、見渡す限りの泥濘と化していた。

馬の蹄は深く沈み込み、重装備の歩兵は一歩を踏み出すのにも多大な体力を奪われる。冷たい風が吹き抜けるこの大平原に、旭州の覇王ジンが動員した総兵力は、シュウスイ率いる北国軍の実に十倍という、歴史上類を見ない絶望的な規模に膨れ上がっていた。

黒々とした軍勢の波が地平線を埋め尽くす中、その最前線を任された先行部隊があった。

かつて東国を支配し、今は旭州に完全な臣従を誓った「老狸」ことトクナガの軍勢である。

「カッカッカ! 見よ、この泥濘すら埋め尽くす我が東国の威容を!」

本陣の中央、豪奢な装飾が施された軍馬に跨り、トクナガは扇子を打ち鳴らして不敵な高笑いを上げた。

彼の率いる先鋒軍だけでも、シュウスイの北国軍の二倍の兵力を持っている。釜田峡谷でジンに敗れ、全領土を差し出す屈辱を味わったトクナガにとって、この戦いは旭州内での自らの地位を確固たるものにするための重要な試金石であった。

「相手は北の田舎に引きこもっていた残党と、大義を掲げて狂乱するシュウスイただ一人。……ジン殿は私を捨て駒にするつもりかもしれんが、そうは問屋が卸さんぞ。我が東国の誇る分厚い槍の壁で、北の鬼神をすり潰し、一番槍の功名を我が手に収めてくれるわ!」

トクナガの号令のもと、東国軍は泥濘の平原に広大で重厚な「方円の陣」を敷いた。

全方位からの攻撃に備え、盾と長槍を幾重にも重ねた防御重視の陣形である。兵力で勝る側がこの陣形を組めば、相手はどこから攻めても分厚い壁に阻まれ、やがて数の暴力に飲み込まれる。いかにも老獪で計算高いトクナガらしい、絶対に負けないための定石であった。

「トクナガ様! 前方の霧の中から、シュウスイ軍の姿が確認できました!」

物見の兵からの報告に、東国の将軍たちが一斉に色めき立った。

「来たか! 弓隊、前へ! 敵が射程に入り次第、矢の雨を降らせてやれ!」

「槍隊は一歩も引くな! 敵の突撃をこの泥濘の中で完全に受け止めるのだ!」

しかし。

彼らの視界の先に現れた北国軍の姿は、トクナガの予想を根底から覆す異様なものであった。

「な……なんだ、あれは?」

東国の将軍の一人が、信じられないものを見るように目を瞬かせた。

地平線の彼方から現れたシュウスイ軍は、一つの巨大な塊ではなく、数百人単位の極めて小さな部隊に細かく分割されていたのである。

しかも彼らは、泥濘の中で足を取られる東国軍を嘲笑うかのように、恐るべき速度で平原を滑るように移動していた。

「馬鹿な……! あの重装備で、なぜこの泥濘をあのような速度で走れるのだ!」

トクナガが扇子を握りつぶさんばかりの力で握りしめ、驚愕の声を上げた。

その秘密は、北国の兵士たちの足元にあった。

彼らは靴の裏に、北国の深い雪原を歩くための「かんじき」を改良した、泥濘用の特殊な歩行具を装着していたのである。一年間、北国の厳しい自然環境の中で泥と雪にまみれて農地を開拓してきた彼らにとって、この程度の泥濘は庭を散歩するようなものであった。

「ト、トクナガ様! 敵の小部隊が、我々の陣形の隙間を縫うようにして、左右に展開していきます!」

「弓が当たりませぬ! 敵の動きが早すぎます!」

シュウスイの真の恐ろしさは、ここからであった。

細かく分割された北国の小部隊は、一切の伝令や合図を必要とせず、まるで一つの巨大な生き物の神経のように、完璧な連携をもって動いていた。

彼らは東国軍の分厚い正面装甲を完全に無視し、泥濘を滑るようにして両翼へ回り込むと、陣形の最も脆い接合部分に局所的な突撃を繰り返したのである。

「うわァァッ! 右翼が崩される!」

「左翼の背後に回られた! 槍の向きを変えろ!」

「慌てるな! 陣形を崩すな! 数の力で押し返せ!」

トクナガが血相を変えて叫ぶが、その命令が末端の兵士に届くことはなかった。

シュウスイ軍の遊撃部隊が、本陣と前線を結ぶ伝令兵を、白狼の毛皮を纏った精鋭の弓兵によって次々と正確に射殺していたからである。

指揮系統の分断。

これこそが、大軍が最も恐れる事態であった。圧倒的な数を誇りながら、東国軍は自分たちが今どこから攻撃されているのか、味方がどのような状況にあるのか、全く把握できなくなってしまったのだ。

「トクナガ様! 輜重部隊が背後から奇襲を受けました! 食糧と矢弾が燃やされています!」

「後方の退路が完全に塞がれました! 我々は包囲されています!」

「馬鹿な……馬鹿な馬鹿な馬鹿な!! 我が軍は敵の二倍の数だぞ! なぜ包囲されるのだ!」

トクナガは完全にパニックに陥り、馬上で顔を青ざめさせた。

二倍の数があろうと、指揮系統が崩壊し、各個撃破の対象になれば、ただの烏合の衆に過ぎない。シュウスイは東国軍の「数の暴力」という最大の武器を、泥濘という地形と完璧な分断戦術によって、一瞬にして無力化してしまったのである。

その圧倒的な混乱と絶望の中心に、死神のような黒い影が迫っていた。

ズゴォォォォォンッ!!

東国軍の本陣を囲む分厚い盾の壁が、凄まじい衝撃と共に内側へと吹き飛ばされた。

宙を舞う東国の兵士たちの血飛沫をくぐり抜け、泥を蹴り立てて飛び出してきたのは、巨大な黒毛の軍馬に跨り、血に濡れた大槍を構える最強の鬼神、シュウスイであった。

「ヒィィッ……!! しゅ、シュウスイ……!」

トクナガは、その姿を見た瞬間、全身の血の気が引くのを感じた。

シュウスイの瞳には、かつてトウガに仕えていた頃の抑圧された色は微塵もなかった。

あるのは、大義を背負い、一国の主として天下を獲るという、純粋で恐るべき覇気。二百年の歴史を研ぎ澄ませた、完全なる武神の姿がそこにあった。

「東国の老狸よ。貴様の小賢しい計算など、この泥濘の中では何の役にも立たん」

シュウスイの低く響く声と共に、大槍が風を切り裂いた。

トクナガを守ろうと飛び出した東国の誇る近衛武将たちが、まるで枯れ木のように次々と薙ぎ払われ、胴体を両断されて泥の中に沈んでいく。

悲鳴を上げる間すらない。一突き、一薙ぎで、東国の最高戦力がいとも容易く肉塊へと変わっていく。

「ひっ、ひぃぃぃッ! 陣を解け! 退却だ! 全軍、後退せよォォォッ!!」

ついにトクナガの老獪な計算も、覇侯としての矜持も完全に砕け散った。

彼は将軍としての体面など全て投げ捨て、無様に馬の首にしがみつき、自軍の兵士たちを突き飛ばしながら、後方の旭州本軍がいる南へ向けて狂ったように逃げ出したのである。

総大将が逃亡した東国軍は、もはや軍隊の体をなしていなかった。

彼らは武器を放り出し、泥に足を取られながら我先にと逃げ惑い、北国軍の追撃によって背中から次々と槍に貫かれていった。

シュウスイは、逃げ惑うトクナガの背中を追うことはしなかった。

彼は血濡れた大槍をゆっくりと下げ、冷徹な目でその無様な敗走を見送った。

「……追うな。ここまでは、準備運動に過ぎん」

シュウスイは、自らの後ろに控える北国の精鋭たちに命じた。

「あの老狸が逃げ込む先には、ジンの十万の大軍が控えている。……パニックに陥った数万の敗残兵が、巨大な陣形に雪崩れ込めばどうなるか。ジンよ、お前の軍律と器、見せてもらおうか」

シュウスイは、敵の敗走すらも自らの戦術の駒として利用し、旭州の十万の大軍を内側から崩壊させるための「生きた大岩」として投げつけたのである。

一方、その頃。

戦場から数里南に位置する、旭州軍の本陣。

「……報告! 先鋒のトクナガ軍、完全に瓦解! 敵の奇襲により指揮系統を喪失し、現在、数万の敗残兵が我々の本陣に向かって敗走してきております!」

血相を変えた伝令の報告に、陣幕の中にいた旭州の将たちは息を呑んだ。

「なんだと!? あの狸じじい、二倍の兵力を持っていながら、半日も持たずに崩れやがったのか!」

ゴウが鉄砕棒を地面に叩きつけて怒鳴る。

「親父! このままじゃ、逃げてきた東国の連中が俺たちの陣形に激突して、陣が滅茶苦茶にされちまうぞ!」

「落ち着け、ゴウ。シュウスイの狙いはまさにそれだ」

車椅子に座るクロウが、杖を握る手を白くさせながら冷ややかに言った。

「自軍の敗残兵は、時に敵の突撃よりも恐ろしい凶器となります。恐怖に駆られた数万の兵が味方の陣に雪崩れ込めば、十万の大軍であろうと瞬く間に同士討ちと大混乱に陥る。……見事な戦術眼です。あの一年で、あの鬼神は戦の何たるかをさらに一段深い次元へと昇華させている」

「どうします、親父殿! このままでは第一陣が飲み込まれます!」

レンが切羽詰まった声でジンに指示を仰いだ。

陣幕の中央で、ジンは巨大な戦況図を見つめたまま、微動だにしなかった。

彼の顔には、東国軍が壊滅したことに対する焦りは微塵も浮かんでいない。むしろ、シュウスイという男の底知れぬ恐ろしさを肌で感じ、覇王としての闘志を不気味なほどに静かに燃やし上がらせていた。

「ガク。ゲント」

ジンは、短く、しかし絶対的な重みを持つ声で、二人の将の名を呼んだ。

「はっ」

「ここに」

二人が同時に一歩前へ出る。

「陣形を開け。東国の負け犬どもを後方へ通してやれ」

ジンは、戦況図に突き立てていた短剣を乱暴に引き抜いた。

「だが、恐怖で周りが見えなくなり、俺たちの陣形を乱そうとする馬鹿がいたら……容赦はいらねえ。一線を超えた者は、味方であろうと全て斬り捨てろ」

「……御意。軍規第三項『陣形を乱す者は斬罪』。厳格に執行いたします」

ゲントが冷徹に一礼し、ガクと共に陣幕を飛び出していった。

数刻後。

逃げ惑う東国軍の敗残兵たちが旭州の最前線に到達した時、彼らが見たのは、救いの手ではなく、ガクとゲントが指揮する氷のように冷酷な「正道の絶対防衛陣」であった。

「た、助けてくれ! 陣の中に入れてくれェッ!」

パニックに陥った東国兵が、旭州の隊列に無理やり割り込もうとした瞬間。

ズバァッ!!

一切の感情を持たない旭州の長槍が、味方であるはずの東国兵の胸を無慈悲に貫いた。

「な……!?」

「止まれ。これより先は旭州の正規陣形である。左右に開かれた退路を通れ。陣を乱す者は、例外なく処断する」

ガクの無機質な宣告が、血の雨と共に戦場に響き渡った。

十万の大軍の規律を守るため、ジンはあえて味方を見殺しにし、斬り捨てるという冷酷な決断を下したのである。その凄惨な光景に、東国軍のパニックは強制的に冷や水を浴びせられ、彼らは怯えながら左右の退路へと逃げ込んでいった。

混乱は最小限に抑えられ、旭州の巨大な陣形は一寸の乱れもなく保たれた。

「……やるじゃねえか、泥犬」

遥か彼方、泥濘の平原の向こう側で。

その一部始終を双眼鏡のような筒で見届けていたシュウスイは、微かに口角を上げた。

「十万の大軍の動揺を、冷徹な軍律と恐怖で一瞬にして押さえ込んだか。……やはりお前は、私が全霊を懸けて討ち果たすにふさわしい、本物の王だ」

シュウスイは全軍に停止の号令をかけた。

これ以上深追いし、陣形を整えた十万の旭州本軍と正面衝突するのは下策である。彼は自軍の被害を最小限に抑えたまま、泥濘の平原を挟んで、旭州軍と真っ向から対峙する形を作り上げた。

金牙城の陣幕から前線へと歩み出たジンもまた、冷たい風の中で、遥か北に陣取る黒い軍勢の波を睨みつけていた。

「速攻で決着をつけるのは無理だな。あのおっさん、地形も数も、全部自分の掌の上で転がしやがる」

ジンは、泥に汚れた顔を拭いながら、隣に立つクロウに言った。

「ええ。東国軍という巨大な盾を失った今、我々は自らの手で、あの完璧な氷の要塞を一つずつ崩していくしかありません。……ジン殿、覚悟をお決めください。この戦い、数日や数ヶ月で終わるような代物ではありません」

クロウの紫色の瞳が、長い泥沼の戦いを予見して暗く沈む。

「分かってるさ。……腹を据えろ、お前ら。ここからが、一年がかりの本当の地獄だ」

ジンの重い宣告が、旭州の将たちの胸に深く響き渡った。

東国軍の壊滅という波乱で幕を開けた北国戦役。

二百年の歴史と完璧な軍略を誇る鬼神シュウスイと、十倍の兵力と泥臭い執念で天下を背負う覇王ジン。

互いの首を狙い、泥濘と氷雪の中で繰り広げられる、血を血で洗う「一年戦争」の本当の絶望が、今まさに始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ