第85話 氷雪の進軍と、十倍の覇王
北国の空は、長く厳しい冬の終わりを告げるように、薄雲の向こうから力強い陽光を落としていた。
しかし、大地を覆う分厚い雪は未だ完全に溶け去ることはなく、冷ややかな風が吹き抜けている。その白銀の大平原を、一つの巨大な「黒い塊」が南へと向かって這い進んでいた。
シュウスイ率いる、北国の全軍である。
その進軍の様は、かつてトウガが西国へ向けて行った無軌道な強行軍とは、根本から異なっていた。
先頭を進むのは、雪と氷を砕きながら進むための分厚い盾を構えた重装歩兵。その後方には、整然と隊列を組んだ長槍部隊と、北国の寒冷地に特化した白狼の毛皮を纏う弓兵部隊が続く。彼らの足並みは恐ろしいほどに揃っており、数万という大軍でありながら、軍靴が雪を踏みしめる音と、風に翻る黎州の旗の音以外、一切の無駄な私語が存在しなかった。
そして何より異様なのは、軍の中央から後方にかけて延々と続く「補給部隊」の完璧さであった。
雪道を滑らかに進むように改良された特製の巨大なそりが何百台も連なり、その上には塩漬けにされた肉、乾燥させた根菜、そして兵の体を温めるための大量の薪が隙間なく積載されている。さらに、進軍ルート上の要所要所には、この一年の間に密かに建設されていた前線基地がすでに機能しており、兵士たちは飢えや凍えとは無縁の状態で、常に最高の士気と体力を保ったまま南下を続けていたのである。
それは単なる軍隊の移動ではない。
完璧な統制と兵站を備えた「氷雪の要塞」が、そのままの形で大地を滑り、南へと移動しているような、絶望的なまでの質量と秩序の体現であった。
その完璧なる軍勢の中央、最も全体を見渡せる位置に、巨大な黒毛の軍馬に跨るシュウスイの姿があった。
彼は新たな黎州の覇侯としての豪奢な陣羽織を纏い、傍らには常に血を求めて鳴動する大槍を携えている。彼の深く刻まれた皺の奥にある双眸は、いかなる感情の揺らぎも見せず、ただ冷徹に前方の地平線を見据えていた。
「……シュウスイ様。全軍、予定通りに南下の第一防衛線を通過。兵士たちの疲労も皆無、食糧の消費量も完全に計算通りでございます」
横に並ぶ副将が、感嘆の声を漏らしながら報告する。
「一年前、トウガ様が指揮された軍とは、まるで別の生き物のようです。これほどまでに完璧な進軍、かつてのソウガ様でさえ成し得なかった偉業でございましょう」
「驕るな」
シュウスイの短く重い一喝が、副将の背筋を正させた。
「我々が向かうのは、西国、南国、そして東国をも飲み込んだ巨大な怪物、ジンが待つ死地だ。……奴らは我々の戦術を研究し尽くしている。少しでも兵站にほころびが出れば、悪魔の軍師クロウがそこを突き、瞬く間に軍を内部から腐らせるだろう。一歩、一歩の歩みを、氷を踏むように慎重に進めよ」
「は、ははっ!」
副将は冷や汗を拭い、後方の部隊へと伝令を走らせた。
シュウスイは再び前を向いた。
彼の手には、カレンから託された新しい黎州の旗印が握られている。北国を出発する直前、カレンは生まれたばかりのルリを抱きながら、シュウスイにこう言ったのだ。
『どうか、生きて帰ってきてください。この子に、父親の顔を覚えさせるために』と。
守るべき妻と子があり、背負うべき二百年の歴史がある。
大義を得た鬼神の心は、かつてなく澄み渡っていた。怒りも、憎しみも、焦りもない。ただ純粋に、武人としてのすべてを懸け、天下の覇権を争うという極限の集中状態にある。
(待っていろ、ジン。お前が泥から創り上げた新しい時代、この私の全力をもって、その真贋を確かめてやる)
一方、その頃。
はるか南、西国の本拠地たる金牙城の広大な練兵場もまた、天地を揺るがすほどの異様な熱気に包まれていた。
「第一陣から第五陣まで、兵糧の積み込み完了! 輜重部隊は直ちに北上ルートを確保しろ!」
「海狗衆の船団が川を上ってきたぞ! 弓矢と火薬の補充を急げ!」
「ガク将軍の部隊はすでに前線へ出発した! 続け、遅れをとるな!」
怒号のような号令が飛び交う中、金牙城から吐き出されるようにして出陣していく旭州の軍勢は、まさに桁違いの規模であった。
シュウスイが北国の残党と精鋭をかき集めた数万の軍勢も確かに強大である。しかし、西国、南国を平定し、さらに東国の兵力を丸ごと吸収した旭州の総兵力は、シュウスイ軍の優に十倍に達していた。
平原を埋め尽くす兵士の波は、見渡す限り地平線の彼方まで黒々と続いており、一つの国を根こそぎ動かしているかのような圧倒的な暴力の渦であった。
その無数の軍勢を見下ろす城の天守閣。
覇王ジンは、漆黒の外套を風になびかせながら、眼下でうねる自軍のうねりを静かに見つめていた。
「……すげえ数だ。昔、俺が薬草を売ってた頃の草間の集落の連中が見たら、腰を抜かして死んじまうだろうな」
ジンは、無骨な手で首筋を掻きながら、ふっと泥臭い笑みをこぼした。
「兵力差は十対一。圧倒的ですな、ジン殿」
車椅子に乗ったクロウが、杖を鳴らしながら歩み寄ってくる。その後ろには、軍規を司るゲントが控え、厳しい目付きで進軍の列を検分していた。
「ですが、ジン殿。これほどの大軍を動かすということは、それだけ食糧を消費する巨大な胃袋を抱えるということ。兵站の維持は、これまでとは次元の違う困難を伴います」
ゲントが、一切の楽観を交えずに指摘する。
「分かってる」
ジンは振り返り、悪魔の軍師と冷徹な軍法官を見据えた。
「だからこそ、お前たちとリョウガの水軍をフル稼働させて、この一年間、西国中から米をかき集めて兵站線を整備したんだ。……トウガのお坊ちゃんみたいに、大軍の数に胡座をかいて自滅するような真似は絶対にやらねえ」
ジンは、自らの腰にある長剣の柄を強く握りしめた。
「相手はあのシュウスイのオッサンだ。こっちが十倍の数だろうが、百倍だろうが、一寸でも隙を見せれば一撃で総大将の首を掻き切ってくる本物の化け物だぞ。……数の有利なんてものは、あのオッサンの前じゃただの肉の壁でしかねえ」
「ご明察です。大軍は兵法において有利ですが、大軍ゆえの動きの鈍さや指揮系統の遅れは、シュウスイのような百戦錬磨の戦術家にとっては絶好の的になります」
クロウが紫色の瞳を妖しく光らせた。
「ゆえに、我々は『使い捨ての盾』を前線に配置しました。……東国の狸殿に、存分に働いてもらいましょう」
クロウの視線の先、旭州軍の遥か前方を先行する巨大な部隊があった。
それは、釜田峡谷でジンに敗北し、旭州に完全な臣従を誓った東国の覇侯、トクナガが率いる東国軍であった。
その数だけでも、シュウスイ軍の二倍に達する大軍勢である。ジンは、この天下分け目の大戦において、トクナガを先鋒として最前線に配置したのだ。
「……トクナガの狸じじいは、狡猾で計算高い。死兵となって突っ込んでくる北国の鬼神を相手にするには、あいつの粘り強さと数の暴力が一番の壁になる」
ジンはニヤリと笑った。
「それに、あいつはここで俺に恩を売って、戦後の新しい天下で少しでも良い思いをしようと必死だからな。簡単には崩れねえよ」
「東国軍を削り役に使い、シュウスイの兵站と体力を消耗させた上で、我々旭州の本軍が正道と邪道のすべてをもって完全にすり潰す。……完璧な布陣です」
ゲントもまた、その冷酷な作戦に深く同意した。
「さあて。準備は全部整った」
ジンは天守閣の縁に立ち、遥か北の空を睨みつけた。
「ゴウ! レン! 行くぞ!」
「おうよ! 待ちくたびれて鉄砕棒が錆びちまうところだったぜ!」
「六文銭の誇り、北の鬼神に見せつけてやる!」
階下で待機していた二人の猛将が、馬に跨りながら威勢のいい声を張り上げる。
ジンは深く息を吸い込み、城全体に響き渡るような声で叫んだ。
「これより旭州全軍、北へ進軍を開始する! 相手は二百年の黎州の歴史を背負った最後の化け物だ! 油断した奴から死ぬぞ! 泥水すすってでも生き残って、この戦乱の世を俺たちで終わらせるんだ!!」
「おおおおおおおォォォッ!!」
覇王の泥臭く、しかし熱狂的な号令に、十万の大軍が天地を揺るがす雄叫びで応えた。
かくして、金牙城から溢れ出した黒い鉄の波は、北から迫り来る氷雪の要塞を迎え撃つべく、北国の国境へと向けてうねり始めたのである。
数日後。
西国と北国の国境付近、春の雪解けによって発生した広大な泥濘の平原にて。
先鋒を任された東国軍の総大将トクナガは、本陣の天幕の中で、豪華な床几に腰掛けながら、不敵な笑みを浮かべていた。
彼は恰幅の良い体を揺らし、部下の将軍たちを見回す。
「カッカッカ! ジン殿も人が悪い。私のような老骨を先鋒に使い、しかも相手はあの鬼神シュウスイときた。……だが、これは我ら東国にとって最大の好機であるぞ」
トクナガの細い目が、狡猾な光を放つ。
「我らの兵力はシュウスイ軍の優に二倍。相手は確かに精鋭かもしれんが、所詮は北の田舎に引きこもっていた残党の寄せ集め。……ここで我々がシュウスイを打ち破る、あるいは甚大な被害を与えれば、ジン殿も我ら東国の武力を認めざるを得なくなる。旭州の中で、我らが絶対的な地位を築くための足がかりとなるのだ」
「御意にございます、トクナガ様! 我ら東国の陣形は鉄壁。シュウスイの突撃など、分厚い槍の壁で跳ね返してご覧に入れます!」
東国の将軍たちが、功名心に目をギラつかせて息巻く。
彼らは、トウガの無軌道な突撃とは違う。トクナガの軍は、長年の東国の豊かな経済力で培われた重武装と、計算し尽くされた防衛戦術を持っていた。相手の動きを冷静に読み、数の暴力で包み込んで押し潰す。それが東国が「狸」と恐れられてきた所以である。
しかし、その時。
「と、トクナガ様ッ! ほ、報告申し上げます!!」
天幕の入り口から、顔面を蒼白にした物見の兵が転がり込んできた。
彼は恐怖で歯の根を合わさず、震える指で北の平原を指差した。
「しゅ、シュウスイ軍が……現れました……! しかし……!」
「しかし、どうしたというのだ。慌てるな。敵は真っ直ぐに突っ込んできたのか?」
トクナガが眉をひそめて立ち上がる。
「い、いえ……! 敵は……陣形を組んでおりませぬ……! いや、陣形どころか……」
物見の兵が言葉を失ったその直後。
東国軍の本陣を、地盤そのものがひっくり返るような、凄まじい地鳴りが襲った。
ズゴォォォォォンッ!!
「な、なんだ!? 地震か!?」
トクナガが床几から転げ落ちそうになり、将軍たちが慌てて天幕の外へと飛び出す。
そして、彼らは信じられない光景を目の当たりにして、全員がその場に縫い止められたように絶句した。
遥か前方の地平線。
そこに姿を現したシュウスイ軍は、彼らが予想していたような密集陣形ではなかった。
北国の軍勢は、数千人単位の小部隊に完全に分割され、東国軍の視界を覆うほどの広大な平原のあちこちに、まるで碁盤の目のように散開していたのである。
そして、その一つ一つの小部隊が、まるで独立した生き物のように、一切の乱れもなく、恐るべき速度で東国軍の両翼、そして後方へと回り込もうとしていた。
「バ、馬鹿な……! あのような広範囲に軍を分散させれば、指揮系統が伝達するはずがない! それに、泥濘の平原でなぜあんな速度で移動できるのだ!」
トクナガの額から、滝のような冷や汗が噴き出した。
彼らは見ていなかったのだ。
シュウスイの兵士たちが、足に北国特製の「かんじき」のような雪と泥を捉える道具を装着し、泥濘を滑るようにして移動していることを。
そして、シュウスイの徹底した訓練によって、各部隊の将がシュウスイの意図を完全に理解し、伝令なしでも阿吽の呼吸で連動して動く「自律型の軍隊」へと進化していることを。
「ト、トクナガ様! 右翼の部隊が敵の奇襲を受け、崩壊しつつあります!」
「左翼の背後にも敵の伏兵が! いつの間に回り込んだのだ!」
「補給部隊が分断されました! このままでは完全に包囲されます!」
次々と飛び込んでくる悲報に、トクナガの狡猾な計算は一瞬にして粉々に砕け散った。
「迎撃せよ! 密集して槍衾を作れ! 数の力で押し返せェェッ!!」
トクナガが絶叫するが、もはや手遅れであった。
シュウスイの真の恐ろしさは、単なる武力ではない。
地形を完全に掌握し、敵の心理の隙を突き、自軍の能力を極限まで引き出して、相手が最も嫌がる戦局を強制的に創り出す「軍略の極致」。
北国の冷たい風と共に、戦場の中央を切り裂くようにして、巨大な大槍を構えた鬼神シュウスイが、黒毛の軍馬を駆って真っ直ぐに突進してくる。
その後ろには、死を恐れぬ黎州の古参兵たちが、恐るべき気迫で東国の分厚い陣形を紙屑のように食い破っていく。
「我らは新たな黎州の軍なり! 泥犬の先鋒ども、一人残らずこの泥の底に沈めてくれる!」
シュウスイの咆哮が戦場に轟き、東国兵たちの血飛沫が春の空高く舞い上がった。
かくして。
後に「一年戦争」と呼ばれることになる、天下を二分する壮絶な北国戦役。
その歴史的な第一戦は、圧倒的な数と油断を誇っていた東国軍が、シュウスイの完璧な軍略の前に瞬く間に敗走していくという、戦慄の幕開けによってその火蓋が切られたのである。




