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草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


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第84話 瑠璃色の産声と、誕生する新たな覇侯

北国の長く厳しい冬が終わりを告げ、分厚い氷の底から力強い若草が顔を出し始めた頃。

雪解け水が小川となってせせらぐ春の陽気とは裏腹に、北国の主城の奥深くは、かつてないほどの張り詰めた緊張感に包まれていた。

城の最奥にある寝所の前。

天下の鬼神と恐れられる巨漢、シュウスイは、腕組みをしたまま石造りの回廊を大股で何度も往復していた。

彼の顔には、数万の大軍を前にした時ですら決して見せることのない、明らかな焦燥と動揺が浮かんでいる。額には汗が滲み、すれ違う侍女や護衛の兵士たちが思わず道を空けるほどの威圧感を無意識に放っていた。

「……シュウスイ様。どうか落ち着きくだされ。床板が抜けてしまいますぞ」

見かねた副将が苦笑混じりに声をかけるが、シュウスイの耳には入っていない。

寝所の奥からは、陣痛に耐えるカレンの苦しげな息遣いと、産婆たちの慌ただしい声が絶え間なく聞こえてくる。

ソウガの死から一年近く。過酷な雪原の逃避行を乗り越え、この北国の凍てつく冬を耐え抜いたカレンの体は、すでに限界に近い負担を強いられていた。医官からは、母子ともに命の危険がある過酷な出産になるかもしれないと、事前に告げられていたのである。

(頼む……。無事でいてくれ。カレン様……そして、新たな命よ)

シュウスイは目を閉じ、天に向かって強く祈った。

神仏など信じない彼が、この時ばかりは目に見えぬ何かにすがりたかった。

彼女は、自らの武人としての檻を壊し、再び天下と向き合うための覚悟と誇りを与えてくれた、かけがえのない伴侶である。彼女を失うことなど、到底耐えられるものではなかった。

どれほどの時間が過ぎたであろうか。

回廊の窓から差し込む陽光が、西の空を赤く染め始めたその時。

「オギャアアッ! オギャアアッ!!」

石造りの冷たい壁を震わせるほどの、力強く、生命力に満ち溢れた産声が響き渡った。

「産まれました! カレン様、元気な女の子でございます!!」

産婆の歓喜の声が聞こえた瞬間、シュウスイは大きく息を吐き出し、その場に片膝をついて深く頭を垂れた。彼を支えていた副将や近衛兵たちも、一斉に安堵の涙を流し、互いの肩を抱き合って喜びを分かち合った。

「……シュウスイ様。どうぞ、中へ」

扉が開き、汗だくの産婆が笑顔でシュウスイを招き入れた。

シュウスイが静かに寝所へ足を踏み入れると、そこには、真っ白な産着に包まれた小さな赤子を胸に抱き、疲労困憊でありながらも底知れぬほど穏やかで美しい微笑みを浮かべるカレンの姿があった。

「カレン様……! よくぞ、よくぞご無事で……!」

シュウスイは、ベッドの傍らに膝をつき、震える声で絞り出した。

「ええ……。この子は、とても強い子です。過酷な旅にも、厳しい冬にも耐え抜いて……こうして元気に産まれてきてくれました」

カレンは、愛おしそうに赤子の頬を撫でた。

シュウスイは、恐る恐る赤子の顔を覗き込んだ。

かつて天下を恐怖で震え上がらせた魔王ソウガの血を引く子。しかし、その小さな顔に魔王の恐ろしい面影は微塵もない。透き通るような白い肌と、微かに開かれた瞳の奥にある澄んだ輝きは、ただ純粋な無垢なる光そのものであった。

「シュウスイ。抱いてあげてください。この子の、新しい父親として」

カレンの言葉に、シュウスイは激しく狼狽した。

「わ、私がですか!? このように血に汚れ、武骨な手で……この小さな命に触れるなど……」

「何を言っているのですか。あなたは、この子を守り抜く強き盾にして、天下を統べる覇侯となる男。……さあ」

カレンに促され、シュウスイは震える両手を差し出した。

数万の敵兵を撫で斬りにしてきた巨大な手が、壊れ物を扱うように、極めて慎重に赤子を受け取る。

腕の中に伝わってくる、驚くほどの温かさと、小鳥の心臓のような力強い鼓動。

赤子はシュウスイの大きな指を小さな手でギュッと握りしめ、不思議そうな顔で鬼神の顔を見つめ返した。

「ああ……」

シュウスイの目から、大粒の涙が溢れ落ちた。

それは、純粋な感動の涙であった。これまでの人生で、殺し合いと血の匂いしか知らなかった彼にとって、この汚れなき生命の重みは、どんな大軍のプレッシャーよりも尊く、重いものだった。

「名前は……カレン様、いかがなさいますか」

「ルリ、と名付けようと思います」

カレンは、窓の外の澄み切った青空を見つめながら答えた。

「瑠璃色の空のように、澄み渡り、決して濁ることのない強い光。……この終わりのない乱世を照らす、新しい希望となるように」

「ルリ……。ルリ様」

シュウスイは、腕の中の小さな命に向かって、静かに、そして絶対の誓いを込めて囁いた。

「私の命に代えましても、あなたとカレン様を、そしてこの北の地をお守りいたします。……そして、あなたがお歩きになる未来に、泥犬の影一つ落とさせはしませぬ」

シュウスイの心の中で、最後の一欠片の迷いすらも完全に消え去った。

彼が背負うべきは、もはや過去の亡霊や二百年の伝統だけではない。この腕の中にある「確かな未来」を切り拓くため、彼は自らが天下の頂点に立ち、すべての敵を排除する真の王となるのだと。

数日後。

北国の主城、その広大な大広間には、かつてないほどの熱気と興奮が渦巻いていた。

旧黎州の将軍たち、旧ハクヤ軍の武将たち、そして北国各地から集められた民の代表者たち。彼らの視線の先、一段高い玉座の前に、新調された豪奢な陣羽織を纏い、威風堂々と立つシュウスイの姿があった。

「皆の者、聞け!」

シュウスイの腹の底から響く号令に、大広間は水を打ったように静まり返った。

「過日、我が妻カレンが、ソウガ様の血を引く正統なる後継者、ルリ様をご出産なされた! 母子ともに健やかであり、我が軍の希望はここに完全に結実した!」

その報告に、大広間を揺るがすほどの地鳴りのような歓声が上がった。

「おおおおおっ!!」「黎州の血脈、万歳!」「シュウスイ様、万歳!!」

歓声が収まるのを待って、シュウスイはさらに声を張り上げた。

「私はこれまで、亡き主君の留守を預かる一介の将として、この北国の防衛に徹してきた! 民を休ませ、軍を鍛え、蔵に兵糧を満たすため、旭州の泥犬どもが西国で好き勝手に振る舞うのを、ただ歯を食いしばって耐え忍んできた!」

将兵たちの顔が、怒りと決意で引き締まる。

「だが、時は満ちた。守るべきものは全て整い、我らには旭州を討つ絶対の大義が生まれたのだ。……これより私は、留守役という立場を捨てる。カレン様を正室とし、ルリ様を後継ぎとして擁立したこの私が、本日をもって『新たな黎州の覇侯』を代行する!!」

ドォォォォォンッ!!

という、城全体が震えるほどの凄まじい足踏みと雄叫びが、全軍から巻き起こった。

ついに、天下最強の鬼神が、その名実ともに一国の主として立ち上がったのである。

主君の仇討ち、奪われた領土の奪還、そして新たな希望であるルリの未来を守る。これほどまでに完璧で、純粋な戦いの大義名分は他にない。彼らはもはや「残党」でも「反乱軍」でもない。天下の覇権を正当に争う、真なる王国軍として生まれ変わったのだ。

「春の雪解けは近い! 各地の砦に伝令を走らせよ! これより我々は防衛の任を解き、全軍をもって南下を開始する! 旭州の泥犬どもに、一年間鍛え上げた氷雪の軍の恐ろしさを、骨の髄まで刻み込んでやるのだ!!」

「応ォォォォォッ!!!」

北国の将兵たちの士気は、文字通り天を突く勢いであった。

一年間、一切の隙なく備蓄された完璧な兵站。寒冷地で鍛え抜かれた屈強な兵士たち。そして、大義名分を得て知略と武力のすべてを解き放った最強の覇侯、シュウスイ。

彼らは巨大な雪崩となって、西国の旭州へと牙を剥こうとしていた。

一方、その数日後。

西国、金牙城の執務室。

「……なるほど。産まれたのは娘でしたか。ルリ、良い名です」

車椅子に座るクロウが、北国から届いた詳細な報告書を読み上げながら、口元を妖しく歪めた。

「カレン様はシュウスイの正室となり、シュウスイ自らが新たな覇侯を名乗った。……そして、北国の全軍が、南への進軍準備を完了したとのことです」

その報告を聞き、執務室にいた旭州の首脳陣に、かつてないほどの重い緊張が走った。

ガクは無言のまま十文字槍の柄をきつく握りしめ、ゲントは目を閉じて深いため息をついた。

「最悪のシナリオが、最も完璧な形で現実のものとなりましたな」

ゲントが、冷徹な分析を口にする。

「カレン様という火種は、シュウスイという氷の亀を、最強の『龍』へと変態させてしまった。大義を得て、兵糧も完璧に整えたシュウスイ軍は、我々がこれまで戦ってきたどの軍勢よりも強大で、恐ろしい相手になります」

「ハッ、上等じゃねえか」

壁際で鉄砕棒を肩に担いでいたゴウが、獰猛な牙を剥き出して笑った。

「一年も北国で大人しくしてやがったんだ。こっちだって、十分に準備する時間はあった。おっさんが覇侯を名乗るってんなら、俺たちの親父が『真の覇王』だってことを、戦場で分からせてやるだけだろ」

「その通りだ、ゴウ。手加減無用、全力でぶつかり合うのみだ」

レンもまた、真紅の甲冑を鳴らし、瞳に熱い闘志を燃やしている。

彼らの視線の先。

執務机の奥に座る旭州の覇王ジンは、静かに報告書を見つめていた。

「ルリ、か。……あのオッサン、守るべきものを手に入れて、すっかり肚が決まりやがったな」

ジンの顔には、恐怖も焦りもなかった。

あるのは、互いの存在を懸けて真っ向から殺し合う宿敵に対する、最大級の敬意と、燃え上がるような戦意であった。

ジンはゆっくりと立ち上がり、自らの腰にある無骨な長剣をポンと叩いた。

「クロウが蒔いた火種とはいえ、あのおっさんが大義を掲げて正々堂々と出てくるってんなら、俺たちも真っ向から受けて立つのが筋ってもんだ」

ジンは、ガク、ゲント、ゴウ、レン、そしてクロウの顔を順番に見渡した。

「兵站の準備は済んでるな。東国のトクナガにも出陣の号令をかけろ」

「はっ。すでに東国軍への通達は完了しております」

ゲントが即座に答える。

「よし。二百年の歴史を背負った旧き王と、天下万民の胃袋を背負う新しい覇王。……どっちの意地が上か、最後に泥に沈むのはどっちか、とことん決めようじゃねえか」

ジンは、力強く拳を握りしめ、高らかに宣言した。

「旭州全軍、出陣! 標的は北国覇侯、シュウスイ! 天下分け目の大戦の始まりだ!!」

春の雪解けと共に。

二百年の歴史を持つ旧き時代の集大成たる北国軍と、泥から這い上がり新たな天下を創る旭州軍。

互いに一切の言い訳を捨て、完璧な準備と絶対の大義を掲げた両軍による、一年という長きにわたる壮絶な総力戦の火蓋が、ついに切って落とされたのである。

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