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草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


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第83話 武人の檻と、雪解けの誓い

長く厳しい北国の冬が、ついにその牙を収めようとしていた。

分厚い雪雲の切れ間から、微かに春の気配を帯びた陽光が差し込み、城下町の屋根に積もった雪をゆっくりと溶かし始めている。軒先から滴り落ちる雪解け水の音が、静かな北の大地に心地よい旋律を奏でていた。

かつて略奪と反乱によって荒廃しきっていたこの地は、シュウスイという一人の類稀なる将軍の統治によって、わずか一年の間に劇的な豊かさを取り戻していた。

地下に建造された巨大な貯蔵庫には、塩漬けにされた肉や魚、寒冷地で育つ根菜類が天井に届くほど山積みになっている。民の顔から飢えの恐怖は消え去り、彼らは薪の火で温まりながら、北国を守り抜いてくれた鬼神への感謝を口々に語り合っていた。

軍の士気もまた、過去最高潮に達していた。

旧ハクヤ軍の残党と黎州の古参兵たちは、共に農作業で汗を流し、砦の修築で肩を並べたことで、かつての遺恨を完全に払拭していた。彼らは今や「北国を守る」という絶対的な共通の目的のもと、一つの巨大な家族のように強固な連帯感で結ばれている。

文字通り、一寸の隙もない「氷雪の要塞」。

シュウスイが冷徹な理性を研ぎ澄ませて創り上げたこの防衛機構は、旭州の十万の大軍が押し寄せようとも、数年は持ちこたえるだけの絶対的な力を持っていた。

しかし。

その完璧な防衛機構の中心である主城の奥深くで、一つの「歪み」が静かに、しかし確実に限界を迎えようとしていた。

夜明け前の薄暗い練兵場。

まだ誰も起きていない静寂の中、鋭く風を切り裂く轟音が連続して鳴り響いていた。

シュウスイであった。

彼は上半身裸のまま、凍てつく雪の上に立ち、己の身の丈を優に超える巨大な大槍を狂ったような速度で振るい続けていた。

一突きごとに、周囲の空気が爆発したように弾け、舞い上がった粉雪が凄まじい闘気によって一瞬で蒸発していく。彼の全身からは滝のような汗が流れ落ち、無数の古傷が刻まれた強靭な筋肉が、限界を超えた運動によって悲鳴を上げていた。

「……ハァッ……! ハァッ……!」

ズゴォォォォンッ!!

最後の一撃として放たれた突きが、分厚い氷の壁を粉々に粉砕した。

シュウスイは荒い息を吐きながら、大槍を雪に突き立て、その場に膝をついた。

その瞳の奥には、城下町の安寧を見守る為政者としての穏やかさは微塵もない。あるのは、血と鉄の匂いを渇望し、強者との殺し合いを求める「武人」としての、剥き出しの飢餓感であった。

(……足りん。こんな氷をいくら砕こうが、私の心の底で燻っているこの熱は、一向に冷める気配がない)

シュウスイは、自らの震える両手を見つめた。

この一年、彼は己の感情と闘争心を完全に檻の中に封じ込め、ただ「守る」ためだけに完璧な軍略を構築し続けてきた。カレンと、お腹に宿る新たな命を安全に守り抜くこと。それこそが、主君を失った彼に残された唯一の存在意義であり、贖罪であると信じていたからだ。

しかし、春の足音が近づき、ジンとの決戦の時が迫るにつれ、彼の中に眠っていた「武人としての本能」が、激しく檻を叩き始めていた。

泥の底から這い上がり、天下を自らの腕で掴み取ろうとしている真なる覇王、ジン。

あの男の底知れぬ器の大きさと、すべてを巻き込んでいく泥臭い熱量。それと真っ向からぶつかり合い、己の全存在を懸けて矛を交えたいという、抑えきれない渇望。

(私は……狂っているのか。主君の無念を晴らすための戦だというのに、私はあの泥犬との対決を、心のどこかで心待ちにしている……)

「やはり、ここにいらしたのですね、シュウスイ将軍」

不意に背後から声をかけられ、シュウスイはハッと我に返った。

振り返ると、分厚い外套を羽織ったカレンが、侍女の支えを断り、一人で練兵場の入り口に立っていた。彼女の腹部はすでに臨月を迎えており、歩くのもやっとのはずであった。

「カレン様! このような夜明け前の冷え込みの中、外に出られるとは何事ですか! お体に障ります!」

シュウスイは慌てて立ち上がり、自らの平服を羽織って彼女の元へ駆け寄ろうとした。

「ご心配には及びません。この子も、もうすぐ産まれてくる外の世界の空気を、少し味わいたがっているようですから」

カレンは穏やかに微笑みながら、雪の中に突き立てられた大槍と、シュウスイの全身から立ち上る熱気を見つめた。

「将軍。あなたは毎朝、誰もいないこの場所で、一人で槍を振るっているそうですね」

「……はい。武の鍛錬を怠るわけにはいきませぬゆえ」

シュウスイは目を逸らし、短く答えた。

「鍛錬、ですか。私には、檻の中に閉じ込められた手負いの獣が、必死に出口を探して壁に爪を立てているように見えましたよ」

カレンの静かで、すべてを見透かしたような言葉に、シュウスイの肩が微かに震えた。

「……カレン様。私は」

「将軍。あなたは、この一年間、本当に見事でした。黎州の誇りを守り、北国の民を豊かにし、誰一人としてあなたを非難する者はいません。……ですが、私は見ていました。あなたが完璧な防衛の陣を敷くたびに、あなたの武人としての魂が、少しずつ削り取られ、死んでいくのを」

カレンは、ゆっくりとシュウスイに近づき、その無骨な胸に手を当てた。

「あなたは、泥犬のジンと戦いたいのでしょう? ただ守るためではなく、二百年の伝統を背負った武人として、彼と天下を二分する純粋な力のぶつかり合いをしたい。……それが、あなたの胸の奥底で燻っている、本当の願いなのではないですか」

図星を突かれたシュウスイは、反論の言葉を見つけることができなかった。

主君の妻に対し、自らの闘争心のために戦を望んでいるなどと、口が裂けても言えるはずがなかったからだ。

「……お恥ずかしい限りです。カレン様のおっしゃる通り、私の中には、武人としての捨てきれぬ業が燻っております。ですが、ご安心くだされ。いざ戦が始まれば、私は己の感情などすべて捨て去り、完璧な守将として、あなた様と赤子を必ずお守りしてみせます」

シュウスイは、自らに言い聞かせるように、強く、硬い声で宣言した。

しかし、カレンは首を横に振った。

「駄目です。それでは、あの泥犬のジンには決して勝てません」

「……何とおっしゃいますか」

「ジンという男は、自らの欲望も、泥臭さも、天下の重みも、すべてを背負って前に進んでくる本物の覇王です。対するあなたが、自らの魂を鎖で縛りつけ、ただの留守役の盾として戦うのなら……その重さの違いで、あなたは必ず敗北します。……私は、あなたに死んでほしくない。そして、黎州の誇りを、あのような形で終わらせたくはないのです」

カレンの瞳に、激しい決意の炎が宿った。

「シュウスイ将軍。ソウガ様の無念、そしてトウガの無念を晴らすため。……何より、あなたに武人としての最高の戦いをさせるため。私と、夫婦になってください」

吹雪の音が止んだかのような、深い沈黙が練兵場に落ちた。

シュウスイは、自分の耳を疑った。

あまりの衝撃に、天下の鬼神が、まるで雷に打たれたように完全に硬直してしまったのである。

「……な、何を……今、何とおっしゃいましたか……?」

「私を、あなたの妻にしてくださいと言ったのです」

カレンは一歩も引かず、シュウスイの深淵のような瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

「ご冗談を!!」

シュウスイは、激しく後ずさり、血相を変えて怒鳴った。彼がこれほどまでに感情を露わにするのは、かつてソウガが自刃した時以来のことであった。

「あなたはソウガ様の正室! 黎州の国母であらせられる! 対して私は、一介の武将に過ぎません! そのような身分違いの婚姻など、天地がひっくり返ろうとも許されるものではない! 何より、亡き主君への裏切り、不忠の極みでございます!」

シュウスイは雪の上に両膝をつき、深く頭を擦り付けた。

「どうか、今の言葉はお取り消しくだされ! 私の武人としての業が原因であるならば、今すぐこの場で腹を切り、お詫び申し上げます!」

その徹底した忠誠心と、古き良き武人としての頑なな態度。

カレンは、そんなシュウスイの不器用さが痛いほどに分かっていた。だからこそ、彼女はここで絶対に引くわけにはいかなかった。

「顔を上げてください、シュウスイ」

カレンは、かつての主君の妻としてではなく、一人の強い女性としての声色で命じた。

「不忠だと言いましたね。……では聞きますが、ソウガ様が創り上げた黎州という国は、今どこにありますか?」

シュウスイは顔を上げられなかった。

「……それは……西国の泥濘に……」

「そうです。黎州はもう、どこにもないのです。ソウガ様も、トウガも、この世にはいません。……あなたが守ろうとしている二百年の歴史は、もうすでに終わった幻影なのです」

カレンの言葉は残酷な真実であり、シュウスイの胸を鋭く抉った。

「幻影を守るための盾など、もう必要ありません。……私は、これから産まれてくるこの子に、過去の亡霊に縛られた重い鎖を背負わせたくはない。この子には、新しい時代を生きるための、強くて誇り高い新しい父親が必要なのです」

カレンは、雪の上にひざまずくシュウスイの前にしゃがみ込み、その傷だらけの大きな両手を取った。

「あなたが私の夫となれば、あなたはもはやソウガ様の影に怯える一介の家臣ではなくなる。……この北国を統べる真の主であり、黎州の残党を率いる正統な当主となります。そうすれば、あなたは誰に遠慮することもなく、自らの意志で、天下を懸けてジンと矛を交える大義名分を得ることができる」

カレンの提案は、狂気じみていると同時に、政治的にも軍事的にも、これ以上ないほど完璧な「最後の一手」であった。

旧ハクヤ軍の残党も、北国の民も、すでにシュウスイ個人の人柄と統治力に深く心酔している。彼が名実ともにこの地の王となり、かつての黎州の正室を妻に迎えれば、軍の士気と正当性は天を突くほどに跳ね上がるだろう。

何よりも、シュウスイ自身の「武人の檻」を完全に破壊することができる。

誰かの代わりの留守役としてではなく、自らが主君として、一人の男として、覇王ジンと対等に天下を奪い合う。

それは、シュウスイの心の底でマグマのように煮えたぎっていた、最も純粋で熱い闘争心を完全に解き放つことを意味していた。

「……カレン様。私は……私は、二百年間、誰かの槍としてしか生きてこなかった男です。上に立つ者の器など、持ち合わせてはおりません」

シュウスイの声は、先ほどの拒絶とは違い、激しい葛藤に震えていた。

「この一年、あなたが北国で見せた見事な統治。それこそが、真の器の証明です。……シュウスイ。あなたのその強大な力を、最後まで私とこの子のための盾として使い潰すつもりですか? それとも、自らの誇りを懸けて、最高の戦いをしてくれますか?」

カレンは、シュウスイの手を自らの大きなお腹にそっと当てさせた。

分厚い衣服越しにでも伝わってくる、トクトクという力強い小さな命の鼓動。

それは、終わってしまった黎州の過去ではなく、これから始まる新しい未来の音であった。

「……あなたのその命、これからは私とこの子のために、そして……あなた自身のために燃やし尽くしてください」

カレンの涙を湛えた、しかし力強い微笑み。

その圧倒的な意思と覚悟の前に、最強の鬼神の心に幾重にも巻き付いていた二百年の忠義の鎖が、ついに音を立てて砕け散った。

シュウスイは、ゆっくりと雪の中から立ち上がった。

その顔からは、迷いも、葛藤も、留守役としての重圧も、すべてが消え去っていた。

あるのは、自らが一国の主として天下に臨み、宿敵ジンとの最終決戦へと向かう、凄絶なまでの覇気と覚悟。

檻から完全に解き放たれた、真なる鬼神の誕生であった。

「……承知いたしました」

シュウスイは、カレンの前に再び片膝をつき、今度は家臣としてではなく、彼女の生涯の伴侶として、そして新たな主として、深く頭を下げた。

「このシュウスイの全存在、全軍略、そしてこの命。……あなたと、我が子に捧げましょう。そして、春の雪解けと共に、北の全軍をもって旭州の泥犬を討ち果たし、この天下に新たな筋を通してみせます」

「ええ。あなたなら、必ずできるわ。私の……誇り高き夫よ」

凍てつく北国の夜明け。

雪雲が完全に割れ、力強い朝陽が練兵場を黄金色に照らし出していた。

武人としての檻を壊し、大義と天下を背負う覚悟を決めたシュウスイ。

彼のこの決断は、間もなく金牙城で待つジンの元へも届くことになる。

旧き時代の鎖を断ち切り、真の主として覚醒した北の鬼神と、泥から這い上がった西の覇王。

互いに一切の言い訳を捨て、全軍の質量と魂を懸けた、戦国最後にして最大の総力戦「一年戦争」の足音が、雪解けの音と共にすぐそこまで迫っていた。

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