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草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


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第82話 氷雪の要塞国家と、静かなる鬼神の軍略

北国の短すぎる春が、凍てつく大地にわずかな雪解けの泥濘をもたらしていた頃。

堅牢なる北の主城の練兵場には、異様な緊張感と静寂が張り詰めていた。

整列しているのは、大きく分けて二つの集団である。

一つは、かつて魔王ソウガと共に天下を震え上がらせた、黒塗りの重甲冑を纏う黎州の古参兵たち。

もう一つは、獣の毛皮を被り、白狼の紋章を掲げる、旧ハクヤ軍の残党および北国の屈強な戦士たち。

彼らはつい数ヶ月前まで、トウガの圧政と略奪を巡って血で血を洗う殺し合いを演じていた仇敵同士であった。互いを睨みつける視線には、いまだ拭いきれない警戒心と憎悪が燻っている。

その二つの軍勢の正面に設けられた演壇に、巨大な大槍を手にしたシュウスイがゆっくりと歩み出た。

彼が演壇に立った瞬間、練兵場を覆っていたざわめきが、まるで氷点下の風に凍りついたようにピタリと止んだ。

「皆の者、よく集まってくれた」

シュウスイの地を這うような低い声が、広大な練兵場の隅々にまで響き渡る。

「西国にて、我が主君トウガ様が討たれたことはすでに知っての通りだ。我々黎州の軍は行き場を失い、北国の民は先の戦乱で深く傷ついた。……我々は今、互いに血を流し合い、憎しみ合っている余裕など一寸もない絶壁の淵に立たされている」

シュウスイは、鋭い視線で両陣営を順番に見据えた。

「旭州の覇王ジンは、いずれ必ずこの北国へ攻め込んでくる。奴らは西国、東国、南国を飲み込んだ巨大な怪物だ。我々が内輪揉めを続けていれば、ひとたまりもなく蹂躙され、お前たちの家族も、故郷も、すべてが泥犬どもの足下に踏み躙られることになる」

北国の戦士たちが、悔しげに奥歯を噛み締める。

「私は決断した。……これより、黎州の軍と北国の軍の垣根を完全に取り払う。過去の遺恨は、この私がすべてこの場に埋め捨てる。北の民を無闇に傷つけた黎州の将は私が法に則り処断し、逆に黎州軍に刃を向けた北国の者の罪もすべて不問とする!」

その宣言に、両軍の将兵から驚きのどよめきが上がった。

「これより我らの目的はただ一つ。……カレン様と、そのお腹に宿る黎州の正統なる血脈をお守りし、この北国を旭州の侵略から完膚なきまでに防ぎ切ることだ! 誇り高き北の吹雪と、黎州の絶対なる軍律。この二つを融合させ、天下のいかなる大軍であろうとも一歩も立ち入れぬ『氷雪の要塞』を創り上げる! 私に命を預けろ!!」

シュウスイの理にかなった、それでいて腹の底から絞り出されるような強烈な熱を帯びた号令。

それは、大義を失いかけていた黎州兵には新たな戦う理由を与え、略奪に怯えていた北国の兵には強大な「庇護者」としての安心感を与えた。

鬼神の圧倒的な統率力とカリスマの前に、二つの軍勢はゆっくりと、しかし確実に一つの巨大な槍へと鍛え直されていったのである。

それからのシュウスイの行動は、迅速かつ徹底的であった。

彼は、来るべき旭州との大戦が「北国の険しい地形と寒さ」を巡る、過酷な兵站の削り合いになることを完璧に予測していた。ゆえに彼は、すぐに軍を動かして南下するような愚行は犯さず、北国の内政と物流の改善に全精力を注ぎ込んだ。

「戦は、戦場で槍を交える前に決まる。蔵に米がなければ、どれほどの猛将も三日で餓死するのだ」

シュウスイは自ら甲冑を脱ぎ捨て、泥にまみれた平服姿で農地へと足を運んだ。

彼は北国の気候を知り尽くした旧ハクヤ軍の古参や、土地の長老たちを積極的に登用し、寒冷地でも育つ根菜類や、成長の早い雑穀の栽培を奨励した。さらに、黎州の高度な土木技術を用いて雪解け水の水路を整備し、荒れ果てていた農地を次々と開墾していったのである。

「シュウスイ将軍! 東の漁村から、大量の海産物が届きました!」

「うむ。すべて塩漬けにし、あるいは冷風で干物にせよ。冬を越すための貴重な保存食だ。一欠片の無駄も許さんぞ」

兵士たちもまた、武器を鍬や網に持ち替え、農業や漁業、そして狩猟に駆り出された。

最初は反発していた黎州の兵士たちも、シュウスイ自らが泥にまみれて働く姿を見て、誰一人文句を言う者はなくなった。彼らは巨大な獣を狩り、その肉を燻製にし、毛皮を防寒具として丁寧に加工していった。

さらに、物流網の再構築も同時進行で行われた。

雪に閉ざされる冬を見据え、シュウスイは国境沿いの主要な砦と砦を結ぶ「雪中補給路」を綿密に設計した。谷間には強固な吊り橋を架け、雪崩の危険がある斜面には防雪の柵を巡らせた。そして、それぞれの砦の地下に巨大な貯蔵庫を掘り、一年以上持ちこたえられるだけの兵糧と薪、そして矢弾を限界まで備蓄していったのである。

秋が深まり、北国が豊かな実りの季節を迎える頃には、シュウスイの治世は完全に盤石なものとなっていた。

トウガが率いていた頃の強圧的な支配とは違う。

シュウスイは、税の取り立てを極めて公正に行い、略奪や不正を働く兵士は、たとえ自らの側近であっても軍規に則り容赦なく首を刎ねた。その徹底した「信賞必罰」の姿勢は、北国の民の心に深い信頼を植え付けた。

「シュウスイ様は、我らの命と生活を本気で守ってくださる」

「あの御方にならば、我らの蓄えた麦を喜んでお預けしよう」

かつて反乱を起こした農民たちまでもが、自ら志願して砦の改修工事に参加し、軍に食糧を供出するようになったのである。

軍と民が完全に一体となり、一つの巨大な防衛機構として機能し始める。

それはまさに、一寸の隙もない完璧な「氷雪の要塞国家」の完成を意味していた。

同時期。

はるか南、西国の金牙城。

薄暗い軍議の間では、旭州の覇王ジン、悪魔の軍師クロウ、そして軍規を司るゲントの三人が、巨大な地図を前にして重苦しい沈黙に包まれていた。

「……間諜からの報告によれば、北国の兵糧備蓄はすでに我々の予想を遥かに上回る規模に達しているとのこと」

車椅子に座るクロウが、忌々しげに木簡を机に叩きつけた。

「国境沿いの砦はすべて要塞化され、雪中行軍を可能にするための物流網まで完備されている。民の反乱の兆しは皆無。……文字通り、手も足も出ない完璧な亀です」

「シュウスイ殿は、怒りや大義の熱に浮かされて自滅するような方ではないということです」

ゲントが、かつての同僚の恐ろしさを再認識したように低く呟いた。

「彼は今、我々が最も嫌がる戦術を、最も正確に実行している。……すなわち、我々が補給線の伸び切った状態で、厳冬の北国へ力攻めを仕掛けざるを得ない状況を作り上げているのです」

ジンは、腕を組んで目を閉じ、深く息を吐き出した。

クロウがカレンという火種を北国に放ち、シュウスイに大義を与えたのは、彼を野戦に引きずり出すためであった。

しかし、シュウスイはその思惑を完全に見透かし、逆に「大義を得たことで軍と民を完全に掌握し、一年という歳月をかけて絶対に崩れない盾を創り上げる」という、最高にして最悪のカウンターを放ってきたのである。

「……さすがは二百年の歴史を背負った鬼神ってわけか。小細工なんかじゃ微塵も揺らがねえ」

ジンは目を開き、地図の上の北国を力強く指差した。

「向こうが完璧な戦の準備をして待ってるってんなら、こっちも一切の妥協なしでぶつかるしかねえ。……ガクを呼べ! 東国のトクナガの兵力もすべて動員し、金牙城の兵糧庫を空っぽにしてでも、史上最大の兵站線を構築しろ!」

ジンの声には、覇王としての恐るべき熱量が込められていた。

「俺たちが新しい時代を創るためには、あの氷の要塞を正面から叩き割るしか道はねえんだ。……来年の春、雪解けと同時に、北国への全軍侵攻を開始する!」

そして、季節は巡る。

北の大地に、再び容赦のない猛吹雪が吹き荒れる厳しい冬が到来した。

北国の主城、その最上階のバルコニー。

吹き付ける雪風に微動だにせず、シュウスイは一人、分厚い外套を羽織って南の空を見据えていた。

彼の下に広がる城下町からは、温かな灯りが無数に漏れ、民たちの穏やかな生活の息遣いが聞こえてくる。

蔵には数年先まで戦えるだけの食糧が山と積まれ、砦には士気旺盛な精鋭たちが旭州の襲来を今か今かと待ち構えている。

(……準備は、すべて整った)

シュウスイは、凍りついたバルコニーの手すりを強く握りしめた。

この一年間、彼は自らの内にある武人としての闘争心を完全に檻に閉じ込め、ただ冷徹な為政者として、防衛者として理に徹し続けた。カレンという主君の妻を守り、生まれてくる新たな命のために、絶対に崩れない国を創り上げた。

「シュウスイ将軍……。お風邪を召されますよ」

背後から、静かな声がかけられた。

振り返ると、温かな毛皮に身を包んだカレンが、侍女に支えられながら立っていた。彼女の腹部は、今にもはち切れんばかりに大きく膨らみ、その顔には母親としての穏やかで強い慈愛の表情が浮かんでいる。

「カレン様。このような吹雪の夜に出歩かれるなど、お体に障ります。出産の時も近いというのに」

シュウスイは慌てて歩み寄り、彼女を部屋の中へと促した。

「ええ。ですが、どうしてもあなたに一言、お礼が言いたかったのです」

カレンはバルコニーから見える、豊かな城下町の灯りを見下ろした。

「この一年、あなたは私たちを守るため、そしてこの北国の民のために、文字通り骨身を削って尽くしてくれた。……ソウガ様やトウガが成し得なかった『民を安んじる』という真の王の務めを、あなたが立派に果たしてくれたのです」

「……もったいなきお言葉。私はただ、武人としての務めを果たしているに過ぎませぬ」

シュウスイは深く頭を下げた。

「いいえ。あなたは、すでにただの将軍ではありません。……この北国の、いえ、黎州の誇りを背負う、真の柱です」

カレンは、シュウスイの大きく無骨な手を、自らの両手で優しく包み込んだ。

「戦が、始まるのですね。……あの泥犬たちとの、最後の戦いが」

「はい」

シュウスイの目に、隠しきれない鬼神の業火が微かに揺らめいた。

「来年の春。雪解けと共に、ジンは必ず全軍を挙げて攻めてきます。……私は、この一年で築き上げたすべての軍略と、兵糧と、兵の命をもって、奴らをこの氷雪の底に沈めてみせます」

カレンは静かに頷き、自らの大きく膨らんだ腹を撫でた。

この胎内の子が産声を上げる時、それが二百年の歴史を背負う旧き時代と、泥から這い上がった新しき時代との、天下を分かつ最終決戦の合図となるのだ。

冷たい風が吹き荒れる北国の夜。

盤石の要塞を創り上げ、理性の奥底に莫大な闘志を溜め込んだ最強の鬼神は、静かに、その槍を研ぎ澄ませながら春の訪れを待っていた。

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