表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

90/111

第81話 雪原の逃亡者と、悪魔が放った火種

極寒の風が、容赦なく吹き荒れていた。

春の雪解けが泥濘を生み出している西国とは打って変わり、はるか北に位置するこの地は、いまだ分厚い氷と雪に閉ざされた白銀の絶望の中にあった。視界を白く染め上げる吹雪は、歩を進める者の体力を一歩ごとに削り取り、その命の灯火を静かに、そして確実に奪い去っていく。

膝まで埋まる深い雪をかき分けながら、数人の人影が北国の平原を彷徨っていた。

彼らは皆、かつて黎州の正規軍が身につけていた重厚な甲冑を纏っていたが、その表面は傷だらけで、所々が凍りつき、かつての威容は見る影もない。彼らは息も絶え絶えになりながら、それでも中央にいる一人の人物を庇うようにして、密集した陣形を保ったまま歩みを進めていた。

「ハァッ……ハァッ……」

「しっかりなさいませ、奥方様。……もうすぐ、もうすぐハクヤ将軍が築いた防衛線の砦が見えてまいります……!」

近衛兵の一人が、凍傷で黒く変色した手で、中央の人物を支えながら声を絞り出した。

分厚い獣の毛皮に何重にも包まれ、近衛兵たちに守られるようにして歩を進めていたのは、一人のうら若き女性であった。

彼女の名は、カレン。

かつて「魔王」と恐れられ、天下を恐怖で支配した黎州覇侯ソウガの正室であり、先日西国の泥濘に散った若き猛将、トウガの母である。

彼女の顔は雪のように蒼白で、極度の疲労と寒さによって唇は紫色に染まり、今にも雪の中に倒れ伏してしまいそうなほど衰弱していた。しかし、その瞳の奥には、決して消えることのない強靭な意思の光が宿っていた。彼女は、毛皮の下で大きく膨らんだ自らの腹部を、両手でしっかりと抱きかかえるようにして歩いていた。

彼女の胎内には、新しい命が宿っていた。

魔王ソウガがこの世を去る直前に授かった、黎州王家の血を引く最後の希望。

あの新龍寺の変の夜。

メイカクの軍勢に完全に包囲され、寺が炎に包まれる直前。自らの死を悟ったソウガは、身重であったカレンを秘密裏に寺の隠し通路から逃がしていたのである。

炎の中に消える夫の背中を涙ながらに見送った後、彼女は少数の忠実な近衛兵に守られながら身分を隠し、西国と東国の国境付近にある小さな隠れ里で息を潜めていた。

しかし、息子のトウガが旭州軍の前に敗死し、黎州の正規軍が完全に崩壊したという凶報が届いた日、彼女は決断した。このまま隠れ住んでいては、いずれ旭州の間諜に発見され、腹の中の子供ごと始末されてしまう。黎州の血脈を絶やさないためには、未だ旭州の支配が及んでおらず、かつて夫の右腕であった最強の鬼神、シュウスイが治める北国へ逃れるしか道はなかった。

「奥方様、どうかご無理をなさらず……。我らが背負って進みますゆえ……」

「いいえ……。私も、自らの足で歩きます。この子を……ソウガ様の忘れ形見を、あの冷たい泥犬どもの手に渡すわけにはいかないのです」

カレンは荒い息を吐きながら、一歩、また一歩と雪を踏みしめた。

彼女の脳裏には、炎の中に消えた夫ソウガの背中と、天下を統べると意気揚々に出陣していった息子トウガの笑顔が焼き付いていた。二人の無念を晴らし、黎州の誇りを取り戻す。その強烈な執念だけが、凍りつくような寒さの中で彼女の命を繋ぎ止めていた。

だが、現実は残酷であった。

追っ手から逃れるために険しい獣道を選び、何日もまともな食事をとっていない彼女たちの体力は、すでに限界をとうに超えていた。

「ああっ……!」

近衛兵の一人が、足をもつれさせて雪の中に倒れ込んだ。

「おい! しっかりしろ! 立ち上がれ!」

他の兵士が慌てて抱き起こそうとするが、倒れた兵士の体はすでに氷のように冷たく、二度と動くことはなかった。飢えと寒さが、ついに彼らの限界を突破したのである。

「もう……駄目なのか……」

残された近衛兵たちの顔に、色濃い絶望が浮かび上がる。

カレンもまた、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えていた。腹の底から突き上げるような痛みが、彼女の意識を刈り取ろうとしている。

(ソウガ様……トウガ……ごめんなさい……。私には、ここまでしか……)

カレンの視界が白くフェードアウトしそうになった、その時であった。

「そこな者たち! 何者だ! 武器を捨てて身元を明かせ!」

吹雪の向こう側から、鋭い誰何の声が響き渡った。

見れば、数十人の重武装の兵士たちが、カレンたちを取り囲むようにして槍を構えている。白狼の紋章が刻まれた防寒具。間違いなく、シュウスイの配下である北国守備隊の巡回部隊であった。

近衛兵の長は、最後の力を振り絞って雪の上に片膝をつき、大声で叫んだ。

「槍を引け! 我らは黎州の近衛兵なり! そしてこちらにおわすのは、ソウガ様の正室、カレン様であらせられる! シュウスイ将軍への面会を求める!」

その言葉に、北国の兵士たちの顔に驚愕の色が走った。

「な、なんだと……!? 奥方様だと!?」

「急ぎ、シュウスイ様へご報告しろ! 医務兵を呼べ! 毛布と温かい汁を持て!」

兵士たちが慌ただしく動き出すのを見届けたカレンは、張り詰めていた糸が切れたように、静かに雪の中へと意識を手放した。

一方、その数日前。

西国・金牙城の薄暗い執務室では、一つの恐るべき謀略が静かに語られていた。

「……予定通り、標的は北国の国境を越えたようですな」

車椅子に深く腰掛けた悪魔の軍師クロウが、手元にある報告書を火鉢の中にくべながら、紫色の瞳を妖しく細めて嗤った。

燃え上がる紙片の明かりが、彼の青白い顔を不気味に照らし出している。

執務机の向こう側には、旭州の覇王ジンが腕を組んで座り、そして軍規を司るゲントが険しい表情で立っていた。

「クロウ。貴様、カレン様の所在を把握していながら、あえて見逃して北国へ送り届けたというのか」

ゲントの声には、かつての主君の妻を謀略の駒として利用したことに対する、抑えきれない怒りが混じっていた。

「見逃しただけではありませんよ、ゲント殿。彼女たちが西国の国境を安全に抜けられるよう、我々の巡回網に意図的な穴を開け、さらに道中の山賊どもを事前に掃除してやったのです。……まあ、身重の体で北の雪原を歩き通せるかどうかは運次第でしたが、どうやら彼女の執念が雪の冷たさに勝ったようですな」

クロウは杖の先で火鉢の灰を突っつきながら、平然と答えた。

「なぜそんな真似をした。カレン様の胎内には、ソウガ様の血を引く子が宿っているのだぞ。トウガ様が討たれ、黎州の血脈が断たれたと絶望している北国に、新たな正統後継者を送り込むなど、自ら火種を撒き散らすようなものではないか!」

ゲントの理にかなった指摘に、ジンも黙ってクロウの真意を待った。

「その火種が欲しかったのですよ」

クロウは、冷酷な笑みを浮かべてゲントを見据えた。

「現在のシュウスイは、大義を失い、北国に引きこもるだけの完璧な氷の亀と化しています。一切の隙を見せず、兵糧を蓄え、防衛にのみ徹する百戦錬磨の将軍。……ジン殿の大軍をもってしても、あの要塞国家を力攻めで落とすには、数年という歳月と数万の犠牲が必要になるでしょう」

クロウは杖を手元に引き寄せ、言葉を紡ぐ。

「大義なき戦は軍を腐らせる。だからシュウスイは動かない。ならば、彼に戦うための巨大な大義を与えてやればいいのです。亡き主君の正室と、その血を引く赤子。これ以上ない、最強の火種にして名分です」

「……あのおっさんに、天下を獲りに行く口実を与えたってことか」

ジンが、低く重い声で口を開いた。

「ご明察の通りです、ジン殿。カレン様を保護し、新たな血脈を抱き込んだ瞬間、シュウスイはただの北国の留守役から、黎州王家の代行者へとその立場を変えざるを得なくなります」

クロウの瞳が、悪魔的な光を放つ。

「王国の代行者となった以上、彼は北国に引きこもっているだけでは済まされません。いずれ必ず、ジン殿の首を狙って、全軍をもって南下を開始するはずです。……完璧な防衛戦を敷かれるより、野戦に引きずり出した方が、はるかに勝機は大きい。そのために、私はあえて北国に火種を投げ込んだのです」

ゲントは絶句した。

敵の最強の将軍に、あえて反撃のための大義と希望を与える。それは一歩間違えれば、旭州そのものを破滅に導く劇薬である。クロウという男の底知れぬ恐ろしさに、ゲントは背筋が凍る思いであった。

「……性格の悪りぃ作戦だ。だが、理にはかなってやがる」

ジンは、ため息をついて頭を掻いた。

「あのおっさんがこのまま北国で朽ちていくのは、俺としても望むところじゃねえ。二百年の誇りってやつを全部背負わせた上で、真っ向からへし折ってやる。……それが、覇王としての俺の落とし前だ」

「ええ。せいぜい、あの鬼神には大義の重圧に苦しんでもらいましょう」

クロウの乾いた笑い声が、薄暗い執務室に不気味に響き渡っていた。

そして、舞台は再び、凍てつく北国へと戻る。

北国の巨大な城郭。その中心にある、堅牢な造りの主城の一室。

煌々と燃える暖炉の火が、石造りの部屋に心地よい温もりを与えていた。

分厚い羽毛の布団に寝かされていたカレンが、ゆっくりと目を覚ます。

凍りついていた身体はすっかり温まり、手足の感覚も戻ってきている。彼女は慌てて自らの腹部に手を当て、胎内の子が微かに脈打っているのを感じて、深く安堵の息を吐いた。

「……お目覚めでございますか、カレン様」

静かで、しかし岩のように重厚な声が部屋に響いた。

カレンが視線を向けると、暖炉の前に置かれた椅子の横で、一人の巨大な男が片膝をつき、深く頭を垂れていた。

鬼神と恐れられる北国の守将、シュウスイであった。

彼は武器を持たず、防具も身につけていない。ただの素朴な平服姿でありながら、その背中から放たれる圧倒的な存在感は、かつて王都で見た姿と何一つ変わっていなかった。

「シュウスイ……将軍……。ああ、生きて……あなたに会えたのですね……」

カレンの目から、大粒の涙が溢れ出した。

「お労しや。身重のお体で、よくぞこの厳しい北の雪原を越えられました。……私がもっと早くにお迎えに上がれていれば、このようなご苦労をおかけすることもなかったものを。武人としての不徳、伏してお詫び申し上げます」

シュウスイの平坦な声には、亡き主君の妻を死地に追いやったことへの深い悔恨が滲んでいた。

「頭を上げてください、シュウスイ将軍。悪いのはあなたではありません……。すべては、あの泥犬のジンと、力及ばなかった私たち王家の責任です……」

カレンは布団から身を起こそうとしたが、シュウスイがそれを手で制した。

「どうかそのまま、お体を休めてくだされ。医官によれば、お腹の赤子は無事とのこと。今は何よりも、母子の健康が第一でございます」

カレンは布団に沈み込みながら、シュウスイを真っ直ぐに見つめた。

「シュウスイ将軍……。トウガは……私の息子は、死んだのですね……?」

震える声で紡がれたその問いに、シュウスイは目を伏せ、静かに頷いた。

「……はい。西国の泥濘にて、ジンの刃に倒れたとの報告を受けております。私の諫言が届かず、若君を止められなかったこと、腹を切ってお詫びする所存です」

「あなたが謝ることはありません……。あの子は、父親の背中を追いかけるのに必死すぎたのです。……シュウスイ将軍、私のお腹には、ソウガ様の血を引く新しい命が宿っています。この子は、黎州の最後の希望です」

カレンは、腹を愛おしそうに撫でながら、毅然とした声で宣言した。

「どうか、この子をお守りください。そして、この子が物心ついた時、黎州の旗が再び天下に翻っているよう……あなたのその槍で、あの泥犬どもを討ち果たしてください!」

カレンの悲痛な、しかし力強い願い。

それは、大義を失い、北の雪原で燻っていた鬼神にとって、待ち望んでいた戦う理由そのものであった。

しかし、シュウスイはすぐには頷かなかった。

彼の百戦錬磨の理性が、この状況の異常性に警鐘を鳴らしていたのだ。

(……おかしい。カレン様ほどの重要人物が、旭州の厳重な国境警備を、わずかな近衛兵だけで抜けられるはずがない。これは偶然ではない。誰かが意図的に道を空け、北国に送り込んだのだ。……悪魔の軍師、クロウの仕業か)

シュウスイは、カレンの背後に、車椅子に乗った悪魔の嘲笑を見た気がした。

自分が大義名分を得て立ち上がることすら、敵の思惑通りだというのか。防衛戦を解かせ、自分を野戦に引きずり出すための、最高に悪辣な撒き餌。

だが。

「……承知いたしました」

シュウスイは、すべてを理解した上で、深く頭を下げた。

敵の罠であろうと、謀略であろうと関係ない。

主君の妻が助けを求め、そこに護るべき正統な血脈があるのなら、それに命を懸けるのが二百年の歴史を持つ黎州の武人というものである。

大義を与えられた鬼神の心の中で、完全に凍りついていた闘志の炎が、静かに、しかし爆発的な熱量をもって燃え上がり始めた。

「このシュウスイ、命に代えましてもカレン様と赤子をお守りいたします。……しかし、カレン様。すぐには戦を仕掛けませぬ」

シュウスイは顔を上げ、冷徹な大将軍としての目をした。

「今の北国には、天下を相手に戦うだけの準備が整っておりません。怒りに任せて進軍すれば、トウガ様の二の舞になります。……私は、これから一年をかけて、この北の地を完璧な要塞に鍛え上げ、農業を復興させ、兵糧を山のように蓄えます」

シュウスイの言葉には、一切の妥協も、感情的な焦りもなかった。

敵の思惑通りに動くつもりはない。相手が野戦を望むのであれば、彼らが想像する絶望的なまでの大軍と、完璧な兵站を用意して、真っ向からその思惑をすり潰す。

「一年お待ちくだされ。一年後、私が必ず……黎州の武人の恐ろしさを、奴らの骨の髄まで刻み込んでご覧に入れます」

「……ええ。信じていますよ、シュウスイ将軍」

カレンは涙を拭い、安堵の笑みを浮かべた。

外では、相変わらず激しい吹雪が北国の大地を白く塗り潰している。

だが、その凍てつく城の奥深くで、悪魔が放った小さな火種は、一人の鬼神の心の中で、天下を焼き尽くすほどの巨大な業火へと育ち始めようとしていた。

戦乱の世を終わらせるための、最後にして最大の戦い。

一年という準備期間を懸けた、知略と総力戦の火蓋が、静かに切られようとしていたのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ