幕間 金牙城の食卓、あるいは泥犬たちの休息
西国を平定し、北国軍の脅威を完全に退けた旭州軍の本拠地、金牙城。
いずれ訪れるであろう北の鬼神シュウスイとの最終決戦を前に、この日の夜、大広間ではささやかながらも盛大な戦勝の宴が催されていた。
「オラオラオラァ! その肉は俺のモンだ! どきやがれレン!」
「馬鹿言ってんじゃねえぞゴウ! 猪肉の脂身は俺の好物だって言ってんだろ! 六文銭の誇りにかけて、これだけは譲れねえ!」
大広間の中央に据えられた巨大な鉄鍋。その中でグツグツと煮えたぎる極上の猪肉の最後の一切れを巡って、ゴウとレンが割り箸を武器にして激しい鍔迫り合いを演じていた。
普段は戦場で背中を預け合う特攻隊長と若武者だが、食い物の恨みとなれば話は別である。
「ええい、見苦しいぞ貴様ら! 旭州軍の将たる者が、肉の一片で小童のように争うなど軍規の乱れ極まれり!」
冷徹な知将ゲントが、眉間を見事なまでに寄せて怒鳴り声を上げた。かつて黎州の厳格な軍規を司っていた彼にとって、この無軌道な宴の空気は頭痛の種でしかなかった。
「ゲント殿の言う通りだ。軍規第二十五項『兵糧は厳正かつ公平に分配すべし』。……ゆえに、この肉は最も功績を立てた私が頂くのが軍規というもの」
「ガク、お前しれっと何やってんだァッ!」
無表情のまま、ガクが自らの長箸を音もなく鉄鍋へと伸ばす。しかし、その箸先はゴウの振るう鉄砕棒の如き箸捌きによって弾き返された。
「クックック……。筋肉しか能のない獣どもはこれだから困る。戦とは、常に盤外から仕掛けるのが定石ですよ」
少し離れた場所から車椅子に座る悪魔の軍師クロウが、紫色の瞳を妖しく光らせた。手元には何やら怪しげな薬包が握られている。
「実は先ほど、その鍋の中に私が調合した『三日三晩下痢が止まらなくなる特製の粉薬』を少々混ぜておきましてね。さあ、命が惜しくばその肉から手を引きなさい」
「なっ……!? てめえクロウ、宴の飯に毒を盛るとは何事だ!」
レンが顔を青ざめさせて箸を止める。ゴウも「うげっ」と声を漏らして慌てて後ずさった。
ゲントに至っては「やはりこの軍には軍規の欠片もない!」と頭を抱えて座り込んでしまった。
「ハハハハッ! 隙ありだぜお前ら! 海狗衆特製、荒波の箸捌きを見よ!」
そこへ、巨大な深海魚の丸焼きを両手に抱えたリョウガが乱入してきた。彼は全員が怯んだ隙を突き、豪快な手つきで鍋の中の猪肉をひったくろうとする。
だが、彼の箸が肉に届くより一瞬早く。
「わりぃな。大将の特権ってやつだ」
横から伸びてきた無骨な手が、煮えたぎる鍋の中から熱々の猪肉を素手で鷲掴みにし、そのまま大きな口へと放り込んだ。
「あちっ、あふっ、でも美味え!」
口の周りを脂まみれにしながら満面の笑みを浮かべたのは、旭州の覇王にして、元最下層の薬草売り、ジンであった。
「お、親父ィィッ! 素手で熱湯の鍋に突っ込むとか反則だろ!」
「しかもクロウの毒が入ってんだぞ! あんた腹壊して死ぬ気か!」
ゴウとレンが涙目で抗議するが、ジンは肉をごくりと飲み込んでからニヤリと笑った。
「馬鹿野郎、俺が薬草売りだった頃を忘れたか? クロウが持ってる程度の毒草、匂いを嗅いだだけで分かるっつーの。こいつはただの脅しだ」
「……チッ。やはりジン殿には私の小細工は通用しませんか。つまらないですね」
舌打ちをするクロウを見て、全員が謀略に引っかかっていたことに気づき、大広間はさらなる大混乱に陥った。
「クロウ貴様ァッ! 食卓で偽報を流すなど言語道断だ! 腹を切れ!」
「軍規違反だクロウ。俺の十文字槍の錆にしてやる」
「ヒャハハハ! 飯の恨みは恐ろしいぜ! おらおら、第二回戦はこの深海魚の丸焼きで勝負だァ!」
怒り狂って車椅子を追いかけるゲントとガク、杖を突きながら笑って逃げ回るクロウ、そしてリョウガの持ってきた正体不明の魚に群がるゴウとレン。
大広間は、戦場の泥沼など比ではないほどの、騒がしくも温かい混沌に包まれていた。
ジンは、自らが注いだ安酒の杯を傾けながら、その光景を玉座から静かに見渡していた。
つい先日まで、血と泥にまみれて命の奪い合いをしていたのが嘘のような、平和で馬鹿馬鹿しい日常。
旧黎州の将であったゲントも、今ではすっかりこの泥臭い連中の中に馴染み、青筋を立てながら一緒に騒いでいる。
(……この景色を、天下の隅々まで広げてやるんだ)
ジンの胸の奥で、確かな決意の炎が静かに燃え上がった。
今はまだ、北の雪原には二百年の歴史を背負った最強の鬼神が、氷の刃を研ぎ澄ませて待ち構えている。
一年、あるいはそれ以上かかるかもしれない血みどろの死闘が、確実に彼らを待ち受けている。
この馬鹿騒ぎをしている仲間たちの誰かが、次の戦場で命を落とす可能性だってある。
だからこそ、今この瞬間の、腹一杯に飯を食い、心置きなく笑い合える時間が、何よりも尊く、守り抜くべき「新しい時代」の象徴なのだ。
「おいお前ら! 肉が食いたきゃまだまだあるぞ! 今日は蔵の食糧を全部空っぽにする勢いで食って、飲んで、騒ぎやがれ!」
ジンが玉座から立ち上がり、杯を高々と掲げて叫んだ。
「応ッ!! 親父の奢りなら遠慮はしねえぜ!」
「ジン殿の分も残さず食い尽くしてやりましょう」
旭州の猛獣たちの歓声が、金牙城の夜空に響き渡る。
迫り来る鬼神との最終決戦を前に、泥から這い上がった覇王とその仲間たちは、つかの間の休息と勝利の美酒を、心の底から味わい尽くすのであった。




