第80話 鬼神の葛藤と、大義なき氷雪の盾
重く垂れ込めた鉛色の空から、季節外れの粉雪が舞い落ちていた。
春の訪れを拒絶するかのように吹き荒れる北国の寒風は、吹き晒しの雪原に立つ者たちの体温を容赦なく奪い去っていく。
かつて大将軍ハクヤが治めていた北国の要衝。その城門の前に広がる雪原は、おびただしい数の屍と、それらが流した赤黒い血によって、どす黒い泥濘へと姿を変えていた。
倒れているのは、黎州の正規兵ではない。粗末な農具や、刃の欠けた古剣を握りしめたまま息絶えている、北国の農民や旧ハクヤ軍の残党たちであった。
西国で略奪と殺戮を繰り返すトウガ軍への怒りから蜂起した数千の反乱軍。
そのすべてを、無駄な追撃を避け、戦術的に最も被害の少ない包囲殲滅陣を用いて正確に鎮圧した部隊の中央に、巨大な大槍を血に染めて立つ男がいた。
鬼神、シュウスイ。
彼の顔に無駄な返り血は浴びていない。ただ、深く刻まれた皺の奥にある双眸は、光の届かない深淵のように暗く、静まり返っていた。
「……鎮圧、完了いたしました。シュウスイ様」
副将が、雪を踏みしめてシュウスイの傍らに歩み寄る。その声には、反乱を力でねじ伏せたことへの重い疲労と、民に刃を向けざるを得なかった罪悪感が滲んでいた。
「ああ。生き残った者は捕縛しろ。治療を施し、反乱の首謀者以外は無用な殺生をするな。……彼らが蜂起した理由は、我々の軍の乱れにある。彼らに罪はない」
シュウスイの地を這うような低い声が、凍てつく空気に溶けていく。
彼は自らの手で握りしめた大槍の穂先を雪で拭い、静かに見つめた。これまで幾多の戦場で、名だたる敵将の血を吸ってきた誇り高き刃。それが今、無力な民の血で汚れている。
二百年の歴史を持つ黎州の武人としての誇り。
主君ソウガから受け継いだ、絶対的な忠誠心。
それを守るために、彼はトウガという狂った若虎の留守を預かり、北国の秩序を力で維持するという最も泥被りな役目を引き受けていた。
「……ソウガ様。貴方様が力でねじ伏せた天下は、今やこのような有様です。私が守ろうとした黎州の威信とは、一体何だったのでしょうか」
シュウスイの呟きは、誰の耳にも届くことなく、吹雪の中に消えていった。
その時である。
「伝令ェェェッ!! 南より、伝令にございますッ!!」
雪原の彼方から、一騎の馬が駆け込んできた。
馬は疲労の極致にあり、口から白い泡を吹き、シュウスイの数十歩手前で前んめりに倒れ込んだ。雪の上に投げ出された伝令の兵士は、全身が泥と血にまみれていた。
「どうした。西国の若君からか」
シュウスイが静かに問いかけると、伝令兵は雪の上を這いつくばるようにしてシュウスイの足元にすがりつき、泣き叫んだ。
「お、お労しや……! シュウスイ様、若君が……トウガ様が、討ち死になさいましたッ!!」
失われた大義と、留守役の苦悩
静寂。
吹雪の音さえも一瞬止んだかのような、絶対的な沈黙が雪原を支配した。
周囲にいた北国守備隊の将兵たちは、伝令の言葉の意味を理解できず、ただ呆然と立ち尽くしている。
「……報告せよ。何があった。感情を交えず、事実だけを述べよ」
シュウスイの声は、先ほどと変わらず平坦であり、極めて理性的であった。
伝令兵は、凍える体を震わせながら、西国で起きた戦の全容を語り始めた。
トウガが兵站を無視した強行軍を行い、旭州の罠に誘い込まれたこと。
前衛に配置した烏合の衆が、ガクとゲントが敷いた正道の防衛陣の前に自壊したこと。
そして、軍が内部崩壊し孤立無援となったトウガが、ジンの手によって討たれたこと。
「……我らの軍は、完全に瓦解いたしました。数万の兵は大半が旭州に投降。もはや、西国に黎州の旗を掲げる者は、誰一人として残っておりませぬ……!」
伝令兵は言葉を絞り出し、雪の中に顔を伏せて慟哭した。
その精緻な報告を聞き終えたシュウスイは、ゆっくりと空を仰いだ。
灰色の雪空から降り注ぐ冷たい雪が、彼の頬を冷やしていく。
トウガが死んだ。
魔王ソウガの残した、ただ一つの正統なる血脈が、この世から完全に断たれたのだ。
それは、二百年続いた黎州という国家が、歴史の表舞台から完全に消滅したことを意味していた。
「そうか」
シュウスイは、目を閉じ、深く息を吐き出した。
主君が死んだ以上、彼を縛る愚かな強行軍への加担は終わった。
しかし、同時に彼は、武人として最も致命的なものを喪失したことに気づいていた。
戦うための「大義」である。
「シュウスイ様! 若君の仇討ちでございます! 直ちに全軍をまとめ、南下して旭州の泥犬どもを討ち果たしましょう!」
血の気を持て余した副将が、雪原に膝をついて叫んだ。
「馬鹿を言え」
シュウスイの冷たく、重い声が副将の言葉を叩き切った。
「仇討ちだと? 何の権利があって我々が軍を動かす。私は覇侯ではない。ただ北国の守りを任された一介の留守役だ。……主君なき今、我々が旭州を攻める口実など、この天下のどこを探しても存在せん」
「そ、そのような……! 我らは黎州の武人! 誇りを汚されて黙っているわけにはいきませぬ!」
「誇りだけで兵は動かん! そして飯も食えん!」
シュウスイの鋭い一喝に、副将は言葉を詰まらせた。
「西国での大敗北を見ろ。大義を失い、兵站を無視した軍がどうなるか、嫌というほど分かったはずだ。……今、怒りに任せて旭州に攻め込めば、我々はただの『北から来た反乱軍』あるいは『野盗の群れ』に成り下がる。二百年の歴史を、これ以上泥に塗れさせる気か」
シュウスイは、心の中で血を流すような思いで歯を食いしばっていた。
武人としての本能は、ジンという新しい時代を創る男と、自らのすべてを懸けて矛を交えたいと激しく渇望している。
しかし、彼を将軍たらしめている完璧な理性と軍略の知識が、それを許さなかった。軍を動かす名分がない以上、自らの戦意はただの私怨であり、それに部下を巻き込むことは将として最大の恥であるからだ。
「これより、北国全土の守りを固める」
シュウスイは、大槍を雪に突き立て、全軍に向けて厳命を下した。
「国境の砦を補強し、徹底的な兵糧の備蓄を行え。旭州への挑発は一切禁ずる。……我々にできるのは、残された兵と民をこの冬の寒さから守り抜くことだけだ。軽挙妄動は、この私が斬る」
「は、ははっ……!」
兵士たちが力なく頭を下げる中、シュウスイは一人、暗い北の空を見つめていた。
(……ジン。私は、どうすればいい。このまま雪に埋もれて朽ちるのを待つか、それとも……いや、私に戦を起こす資格はない)
鬼神と恐れられた天下最強の猛将は、大義という名の鎖に縛られ、氷雪の盾の内側でただ一人、深く重い苦悩に沈んでいくのであった。
氷雪の亀と、覇王の静観
一方、その頃。
西国・金牙城の軍議の間。
トウガ軍を完全に粉砕し、残党の処理を終えた旭州の首脳陣は、巨大な西国と北国の地図を囲み、冷徹な分析を行っていた。
「……間諜からの報告によれば、シュウスイは仇討ちの兵を挙げることなく、北国の国境を完全に封鎖。強固な防衛線の構築を開始したとのこと」
車椅子に座るクロウが、無表情のまま木簡を読み上げる。
「国境沿いの砦には十分な兵糧が運び込まれ、雪解けの泥濘を利用した遅滞戦術の準備も完璧です。完全に『亀』になりましたな」
その報告に、旭州の軍規を司るゲントが、深く頷いた。
「当然の判断です。シュウスイ殿は、ただの武辺者ではない。主君を失った今、彼には旭州(我々)に攻め込むための『大義名分』がないのです」
ガクも腕を組み、地図の上の北国の地形を険しい目で見つめる。
「大義なき戦は軍を内部から腐らせる。それを誰よりも知っているからこそ、彼は自らの戦意を殺し、防衛という絶対の理に徹しているのでしょう。……北国の寒冷な地形と、シュウスイ殿の完璧な統率。あの氷の盾を力攻めで崩すのは、多大な犠牲を伴います」
「ハッ、お坊ちゃんがいなくなって、ようやくまともな知恵比べができるようになったってわけだ」
ゴウが鉄砕棒を肩に担いで獰猛な笑みを浮かべるが、その目には厄介な相手に対する強い警戒の色が宿っていた。
「ああ。あのおっさんは、怒り狂って単騎で突っ込んでくるような安い武将じゃねえ。筋が通らねえ戦は絶対にしない、本物の軍人だ」
玉座に深々と腰掛けていたジンが、立ち上がり、北の空を見据えた。
彼の顔には、最下層の薬草売りだった頃の泥臭い執念と、天下万民を背負う覇王としての揺るぎない覚悟が同居している。
「シュウスイのオッサンは今、喉から手が出るほど戦う理由が欲しいはずだ。だが、自分から動くことはできねえ。留守役って立場が、あの人の手足を縛っちまってるからな」
ジンは、地図の上に置かれた北国の駒を指で弾いた。
「向こうから来ねえなら、こっちから行くしかねえ。だが、大義のねえ相手に無理やり攻め込むのは、俺たちにとっても下策だ。……クロウ、ゲント。あの完璧な氷の盾を内側から揺さぶる手立てはねえのか」
「クックック……。武人の誇りとは、時に扱いやすい弱点にもなります。大義がないのなら、大義を与えてやればよいだけのこと」
クロウが、紫色の瞳を妖しく光らせて嗤った。
主君を失い、戦う口実を持たず雪原に引きこもる鬼神。
そして、その強固な盾をこじ開け、新しい天下を創ろうとする覇王。
互いに次の一手を探り合う、冷たく張り詰めた膠着状態の中、北国の雪原に「新たな火種」がもたらされる時は、すぐそこまで迫っていた。




