第88話 灼熱の陣と、狂いなき鬼神の理
春の泥濘が乾ききる間もなく、戦場には容赦のない季節が到来していた。
じっとりと肌にまとわりつくような、重く湿った熱気。
雲一つない灼熱の太陽が、西国と北国の国境地帯に広がる平原を無慈悲に焼き焦がしている。分厚い甲冑を身に纏う兵士たちにとって、この夏の猛暑は、敵の槍よりも恐ろしい不可視の凶器であった。
兜の中は汗で蒸れ、鉄の装甲は触れれば火傷しそうなほどの熱を持ち、ただ立っているだけでも兵士たちの体力を容赦なく削り取っていく。
さらに恐ろしいのは、兵の密集によって生じる「疫病」の気配であった。
十万の大軍が駐屯する旭州の本陣周辺では、排泄物や生ゴミの臭いが熱気と共に淀み、無数の蝿が飛び交っていた。不衛生な環境と極限の疲労は、容易く腹痛や熱病を引き起こし、軍を内部から静かに腐らせていく。
「生水は絶対に飲ませるな! 必ず一度煮沸してから、俺が調合した薬草を混ぜて配れ! トイレの穴は陣からさらに遠ざけ、毎日必ず土と灰を被せて埋めろ!」
本陣の天幕の前で、自らも汗だくになりながら、ジンは喉が裂けんばかりの怒号を飛ばしていた。
最下層の薬草売りとして、不衛生がもたらす病の恐ろしさを誰よりも知っている彼にとって、この夏の衛生管理は、シュウスイの槍を防ぐことと同等に重要な「戦」であった。
彼が西国中の野山からかき集めさせた殺菌作用のある薬草を煮出した茶が、毎日数万の兵士の喉を潤し、旭州軍は辛うじて大規模な疫病の発生を抑え込んでいた。
「……ジン殿のその泥臭い徹底ぶりには、心底感服いたしますよ」
天幕の奥から、車椅子を軋ませながらクロウが姿を現した。彼は暑さを避けるように薄絹を纏っていたが、その青白い顔には珍しく疲労の色が濃くにじんでいた。
「だが、いつまでもこの我慢比べを続けるわけにはいきません。十万の胃袋を満たすための兵糧も、南の海から運び上げるリョウガの水軍の体力も、そろそろ限界が近づいています」
クロウは、手元にある木簡を忌々しげに弾いた。
「膠着状態を打破しなければなりません。……あの氷の亀を、無理やりにでも動かします」
クロウが立案したのは、極めて悪辣で、巧妙な情報戦であった。
彼はまず、旭州軍の兵站線の一部に、わざと「偽の補給路」を構築した。
東国から徴発した大量の荷車に、米ではなく土や石を詰め込み、護衛の兵を極端に減らした状態で、北国軍の陣地のすぐ近くを堂々と通過させたのである。
同時に、クロウが放った間諜たちが、北国軍の周辺に巧妙な噂を流し始めた。
「旭州の大軍は猛暑と疫病で疲弊しきっている」「兵糧が底を突きかけ、焦って手薄な補給路を使わざるを得ない状況だ」と。
「大軍を率いる将にとって、敵の兵站の綻びほど魅力的な餌はありません。いかにシュウスイといえど、この完璧な偽装と、確実に自軍を有利に導くための『絶好の機』を見逃すことはできないはずです」
クロウの紫色の瞳が、冷酷な光を帯びて細められた。
「奴が補給路を断つために部隊を動かした瞬間、伏せておいたガクとゲントの部隊で完全に包囲し、すり潰す。……これこそが、膠着を破る致命の一手です」
一方、その頃。
灼熱の太陽を遮る巨大な天幕の中、北国軍の本陣は異様なほどの静寂と冷気に包まれていた。
北国の兵士たちは、もともと寒冷地での戦いには慣れているが、この西国の息苦しい猛暑には適性がない。
しかし、シュウスイはそれを事前に完全に予測していた。彼は陣地を少しでも風通しの良い高台に移し、兵士たちの武装を極限まで軽量化させ、夜間の涼しい時間帯にのみ陣地の改修を行わせていたのである。
さらに、冬の間に蓄えていた大量の塩と、北国の冷たい地下水を使った水風呂を用意し、熱中症対策を徹底していた。
「……シュウスイ様。間諜からの報告によりますと、旭州軍の右翼側面の補給路が手薄になっております。護衛の数はまばらで、荷車の轍の深さから見て、大量の兵糧が積まれているのは間違いありません」
副将が、汗を拭いながら戦況図を指差して報告する。
「また、旭州陣内では疫病が蔓延し、士気が低下しているという噂も……。今、あの補給部隊を奇襲し焼き払えば、十万の大軍は一気に飢えと混乱に陥ります。ご決断を!」
北国の将軍たちが、千載一遇の好機とばかりに色めき立つ。
だが、床几に深く腰掛けたシュウスイの表情は、氷の彫像のようにピクリとも動かなかった。
「……愚かな。少しは頭を使え」
シュウスイの低く冷ややかな声が、天幕の熱気を一瞬にして凍らせた。
「旭州には、あの悪魔の軍師クロウがいるのだぞ。そして、薬草売り上がりのジンが、疫病ごときで陣を腐らせるはずがない」
シュウスイは、手元の采配で戦況図の「手薄な補給路」を叩いた。
「この補給路は、あまりにも不自然に無防備すぎる。我々を誘い出すための撒き餌だ。中身は米ではなく、ただの土塊だろう」
「な、なんと……! では、罠だとおっしゃるのですか!」
「ああ。クロウは、我々がこれに食いつき、陣形を伸ばしたところを刈り取るつもりだ。……だが、奴は一つだけ致命的な計算違いをしている」
シュウスイは立ち上がり、戦況図の旭州軍の陣形を冷徹に見下ろした。
「偽の補給路を作り、伏兵を潜ませるということは、必ず『本来の防衛線』のどこかから兵を引き抜き、配置を動かしているということだ。……完璧だったガクとゲントの絶対防衛陣に、クロウ自身の手によって、ごくわずかな『穴』が生まれたのだ」
鬼神の双眸が、戦況図の一点、旭州軍の左翼の継ぎ目を正確に射抜いた。
「罠には乗らん。だが、敵が自ら作ったその隙、見逃す道理はない。……全軍、陣形を変えろ。これより、旭州軍の左翼関節部へ向けて、局所的な波状攻撃を仕掛ける」
シュウスイの指示は、魔法のように正確で、恐るべき速度で軍の末端まで伝達された。
北国軍は、クロウの用意した偽の補給路には目もくれず、平原を斜めに横切るようにして、静かに、そして素早く陣形を移動させたのである。
数刻後。
「伝令ッ! シュウスイ軍が動きました! しかし……偽の補給路ではなく、我々の左翼、第三陣と第四陣の隙間へ向けて一直線に向かってきます!」
金牙城の天幕に飛び込んできた報告に、クロウの余裕の笑みが完全に凍りついた。
「な……! なぜだ! あれほど完璧に偽装した情報網を、見向きもしないだと!? いや、それ以上に、なぜ伏兵を配置するために薄くした左翼の急所を、一瞬でピンポイントに見抜かれたのだ!」
「ちぃっ! あの化け物オヤジ、こっちの罠を逆手にとって、陣形のほころびを突きやがったか!」
ジンが長剣を掴み、天幕を蹴り開けて外へ飛び出す。
「ガク! ゲント! 左翼の盾を厚くしろ! ゴウとレンをすぐに向かわせろ!」
しかし、シュウスイの用兵の速度は、旭州の伝令の速度をわずかに上回っていた。
「突っ込め。一撃で関節をへし折れ」
戦場の最前線、黒馬に跨るシュウスイが静かに大槍を振り下ろす。
北国の重装歩兵たちが、灼熱の泥濘を物ともせず、楔のような鋭い陣形で旭州の左翼に激突した。
ガクとゲントが敷いていた防衛線は、伏兵に兵を割いていたために本来の分厚さを失っており、シュウスイの計算し尽くされた突撃の威力を吸収しきれなかった。
「うわァァッ! 盾が持たない! 押し込まれるぞ!」
旭州の兵士たちが悲鳴を上げ、陣形が内側へと大きく凹み始める。
このまま左翼の関節が完全に破断されれば、十万の大軍は中央から真っ二つに分断され、大混乱に陥ることになる。
「させるかァァァッ!!」
絶体絶命の危機に、巨大な鉄砕棒を振り回しながらゴウが横合いから乱入した。
「北の田舎モンども! 夏の暑さで頭がイカれちまったか! 俺のメイスで涼ませてやるよ!」
凄まじい遠心力で振るわれる鉄砕棒が、北国の兵士たちを数人まとめて宙へ吹き飛ばす。
さらに反対側からは、真紅の甲冑を纏ったレンが、流星のような速度で十文字槍を突き出し、北国の将校の喉笛を的確に貫いた。
「ガク! ゲント! ここは俺たちが食い止める! 早く陣を立て直せ!」
レンが叫び、ゴウと共に旭州軍の破断箇所に仁王立ちとなって、北国軍の猛攻を身を挺して受け止める。
「……ふむ。あの二人の若武者、荒削りだが凄まじい気迫だ。やはり旭州の武は侮れん」
前線でその様子を見ていたシュウスイは、静かに大槍を引いた。
「深追いは無用だ。敵の遊撃部隊が来た以上、これ以上の損害は割に合わん。……全軍、速やかに後退せよ」
退き鉦が鳴り響き、北国軍は押し寄せてきた時と同じように、一切の未練も乱れも見せず、波が引くようにスッと泥濘の彼方へと退却していった。
ゴウとレンが追撃しようにも、彼らの撤退の足並みはあまりにも見事で、少しでも深追いすれば逆に包囲される危険があったため、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
「……ハァッ……ハァッ……。なんだ、あの軍隊は……」
ゴウが、汗だくになりながら鉄砕棒を杖にして息をつく。
「あれだけ攻め込んでおきながら、俺たちが出てきた瞬間に、ピタリと動きを止めて引きやがった。……まるで感情がねえ、氷の機械みたいだぜ」
本陣から駆けつけてきたジンも、破断寸前まで追い込まれた左翼の惨状を見て、奥歯を強く噛み締めた。
クロウの仕掛けた悪辣な罠は、完全に無力化されたどころか、逆に陣形の急所を晒す結果となった。
シュウスイは、一切の誘惑に動じず、感情に流されず、ただ理にかなった行動だけを極限の精度で選択し続けている。大義を得た鬼神は、暴走するのではなく、冷酷な軍略の完成形へと至っていたのである。
「……ジン殿。私の失策です。申し訳ありません」
後から車椅子でやってきたクロウが、深く頭を下げた。彼の声には、自らの知略が完全に凌駕されたことに対する、深い屈辱が滲んでいた。
「気にするな、クロウ。お前が悪いんじゃない。あのおっさんが、俺たちの想像を遥かに超えるバケモンだってことだ」
ジンは、遥か北、整然と陣を敷き直す北国軍の旗印を見据えた。
「小賢しい罠はもう通じねえ。俺たちが動けば、あのおっさんは必ずその隙を突いてくる。……互いに血と肉を削り合う、本当の我慢比べだ」
灼熱の太陽が、泥まみれの兵士たちを容赦なく照らし付けている。
旭州軍も、北国軍も、疲労と熱気によってすでに限界に近い状態であった。しかし、両軍ともに一歩も引く気配はない。
夏。猛暑と疫病の脅威が戦場を支配する中、クロウの謀略すらも跳ね返したシュウスイの絶対的な用兵。
戦線は一進一退の攻防を繰り返し、誰の目にも明らかなほど、戦いは終わりなき「一年戦争」の泥沼へと完全に沈み込んでいた。
命をすり減らすような過酷な兵站の削り合いの果てに、どちらが先に倒れるのか。
覇王と鬼神の意地のぶつかり合いは、季節をまたいでさらに凄惨さを増していくのであった。




