第77話 泥濘の敗走と、孤立する狂虎
西国の大平原は、もはや戦場と呼ぶことすらおこがましい、一方的な殺戮の泥沼と化していた。
かつて数万の威容を誇り、五頭龍の陣と称して南下してきた北国軍。その姿は、今やどこにもない。
前方からはガクとゲントが率いる一寸の隙もない鉄壁の槍衾が迫り、左右には底なしの泥の落とし穴が口を開け、後方では未知の火薬兵器が爆炎を上げている。そしてその混乱の渦中を、ジン、ゴウ、レンが率いる旭州の特攻部隊が、血に飢えた獣のように縦横無尽に蹂躙していた。
「ひぃぃぃッ! 助けてくれ! 降伏する、降伏するから槍を収めてくれェッ!」
「嫌だ! 死にたくない! どけ、俺の前からどけェッ!」
誇り高き黎州の正規兵たちは、完全に武器を放り出し、泥にまみれながら味方同士で突き飛ばし合い、ただこの地獄から一歩でも遠ざかろうと狂乱の様相を呈していた。
彼らの耳には、もはや指揮官の号令など届かない。極度の飢餓と疲労、そして旭州軍の正道と邪道を織り交ぜた悪魔的な戦術によって、彼らの精神は完全にへし折られていたのである。
その凄惨な崩壊の中心で、一人の若武者が馬上で金切り声を上げていた。
「逃げるな! 貴様ら、どこへ行く! 戻れ! 戻って戦えェェェッ!」
黄金の甲冑を纏った黎州覇侯、トウガである。
彼の顔は屈辱と怒りで真っ赤に染まり、首筋には青筋が浮かび上がっていた。采配を振り回し、逃げ惑う兵士たちに向かって怒鳴り散らすが、その声に立ち止まる者は誰一人としていない。
つい数時間前まで彼を称賛し、共に戦勝の宴で美酒を飲んでいた若手武将たちも、旭州の奇襲を受けた瞬間に我先にと背を向けて逃げ出していた。
「おのれ……! どいつもこいつも、私を置いて逃げるというのか! 私は正統なる血脈を持つ覇侯だぞ! 私の威光を、私の天才的な軍略を、なぜ信じないのだ!」
トウガは、眼の前で崩れ去っていく現実をどうしても受け入れることができなかった。
父ソウガの背中を追い、天下を統べる器であると信じて疑わなかった自らの自尊心が、泥から湧いた野犬の手によって無惨に引き裂かれていく。その耐え難い苦痛が、彼の理性を完全に焼き尽くそうとしていた。
「若君! ここはもう持ちこたえられませぬ! 直ちに北へ退却を!」
泥にまみれた数名の古参の将軍たちが、決死の覚悟でトウガの馬に駆け寄り、その轡を強く引いた。彼らは、出陣前にトウガの無謀な作戦を諫め、疎まれて後方に下げられていた者たちであった。
主君から冷遇されようとも、彼らの胸の中には黎州への古い忠義が残っていた。
「放せ! 誰が退却などするものか! 私は一歩も退かん! 泥犬ごときに背を向けるなど、覇侯としての誇りが許さん!」
トウガは馬の上で暴れ、自らを助けようとする古参将軍の腕を采配で激しく打ち据えた。
「誇りなどで命は守れませぬ! 生きてさえいれば、シュウスイ殿と共に再び軍を立て直すこともできましょう! お願いでございます、今はどうかご決断を!」
古参将軍は額から血を流しながらも、必死に馬を北へと向けようとする。
しかし、その忠義の言葉が、トウガの逆鱗に触れた。
「シュウスイだと……? あの臆病者の名前を私の前で出すな! 貴様ら、私がここまでコケにされたというのに、まだ私に逃げて隠れろと言うのか! ええい、離せと言っているだろうが!!」
トウガが狂乱して暴れているその時、彼らの背後から、地鳴りのような咆哮が迫ってきた。
「オラオラオラァッ! そこどきな、北のお坊ちゃんのお出ましだぜェッ!」
血飛沫を上げながら泥を蹴り立てて突進してきたのは、旭州の特攻隊長、ゴウであった。
彼の振るう巨大な鉄砕棒が、トウガを守ろうとしていた黎州の兵士たちを、まるで枯れ枝のように次々と薙ぎ払っていく。
「ひぃっ!?」
トウガの乗っていた馬が、ゴウの放つ圧倒的な殺気と血の匂いにパニックを起こし、大きく棹立ちになった。
「うわァッ!?」
バランスを崩したトウガは、馬上から無様に転げ落ち、冷たく汚れた泥水の中へと全身を叩きつけられた。
ガシャン、と鈍い音を立てて、彼が誇りとしていた黄金の兜が頭から外れ、泥の奥底へと沈んでいく。
「若君ッ!!」
古参将軍たちが慌ててトウガに駆け寄ろうとした瞬間。
真紅の閃光が戦場を駆け抜け、将軍たちの胸を次々と正確に貫いた。
「悪いが、大将首には指一本触れさせねえよ」
十文字槍の血振るいをしながら、レンが不敵な笑みを浮かべて立ちはだかる。
「うちの親父が、あのお坊ちゃんとはサシで話があるって言っててね。邪魔する奴は、俺とゴウで全部引き受けさせてもらうぜ」
「おのれ、旭州の悪鬼どもめ……! 若君! 走ってくだされ! ここは我らが命に代えても食い止め――」
言いかけた将軍の頭を、ゴウの鉄砕棒が容赦なく粉砕した。
「さっさと逃げな、お坊ちゃん。親父が来る前に、俺がその頭カチ割っちまいそうだからよ」
ゴウが血塗られたメイスを肩に担ぎ、獰猛な牙を剥いて嗤う。
泥まみれになったトウガは、恐怖で顔を痙攣させながら、這いずるようにしてその場から逃げ出した。
もはや馬もなく、兜もなく、ただ重いだけの黄金の甲冑を引きずりながら、死体と泥にまみれた戦場を無様に駆け抜ける。
「ハァッ……! ハァッ……!」
息が上がり、心臓が破裂しそうに脈打つ。
肺に吸い込まれる空気は、血と硝煙の匂いでひどく淀んでいた。
どこへ逃げればいいのか、どちらが北なのかすら、今の彼には分からない。四方八方から聞こえる断末魔の叫びと、旭州軍の正確な足音が、彼の精神を容赦なく削り取っていく。
「……トウガ様! こちらへ!」
逃げ惑うトウガの前に、数名の黎州の近衛兵が姿を現した。
彼らは奇跡的に旭州の包囲網を抜け出し、主君を探して戦場を彷徨っていたのだ。
「おお……! 貴様ら、よくぞ無事で……!」
トウガは救いの手を見つけたように顔を輝かせ、彼らに駆け寄ろうとした。
「若君、兜も被らずにいかがなさいました! さあ、早くこの泥沼から抜け出しましょう! 私がお背中をお守りいたします!」
一人の近衛兵が、トウガを立ち上がらせようと手を伸ばした。
しかし、その近衛兵の手がトウガの甲冑に触れた瞬間。
トウガの脳裏に、かつて金牙城で自分を裏切り、旭州へ寝返ったゲントの冷たい目がフラッシュバックした。
『……若君。あれが、貴方が血筋を誇ってまで創り上げたかった、軍隊の姿ですか』
先ほど陣形の最前線でゲントが放った、あの氷のような見下す視線。
そして、今自分に手を伸ばしている近衛兵の顔が、重圧と恐怖に歪んでいるのを見た時。トウガの中で、何かが完全にプツンと弾け飛んだ。
「……触るな」
「えっ?」
ズバァッ!
トウガは腰の長剣を乱暴に振り抜き、自らを助けようとした近衛兵の胸を深く切り裂いた。
「がはっ……!? わ、若君……なぜ……」
近衛兵は信じられないものを見る目でトウガを見つめながら、血を吐いて泥の中に倒れ伏した。
「触るなと言っているだろうがァァァッ!!」
トウガは完全に発狂し、血走った目で残りの近衛兵たちを睨みつけた。
「貴様らもどうせ私を裏切る気だろう! ゲントのように! あの古参の老いぼれどものように! 泥犬の強さに怯え、私を差し出して自分の命を助けてもらおうと企んでいるに決まっている!」
「ト、トウガ様!? 何を仰られますか! 我らは貴方様に絶対の忠誠を――」
「嘘だ! 私の完璧な陣形が崩れたのも、すべて貴様らが無能で、裏切り者ばかりだからだ! どいつもこいつも、父上の威光にすがるだけの寄生虫め! 近寄るな! 寄るなァァァッ!」
トウガは剣を振り回し、自らの最後の味方である近衛兵たちに向かって無差別に斬りかかった。
もはや彼には、誰が味方で誰が敵かの区別すらついていなかった。自らの失敗を他者の裏切りのせいにするという、究極の自己正当化と被害妄想が、彼を孤独な狂人へと変えていたのだ。
「……もう駄目だ。若君は、狂ってしまわれた」
「逃げよう。これ以上、あの人に従っても犬死にするだけだ……!」
主君に刃を向けられ、最後の忠誠心を完全に叩き折られた近衛兵たちは、ついに武器を捨て、トウガに背を向けて泥沼の彼方へと走り去っていった。
「逃げるのか! やはり裏切り者ではないか! 待て! 戻って私を守れェェェッ!」
トウガの悲鳴のような命令は、誰の足も止めることはなかった。
やがて、彼の周囲から自軍の兵士の姿は完全に消え失せた。
残されたのは、泥にまみれた数多の死体と、冷たい風の音だけ。
広大な西国の戦場の真ん中で、数万の軍勢を率いていたはずの若き猛将は、文字通り完全な「孤立無援」の窮地へと自らを追い込んでしまったのである。
「はは……ははは……」
トウガは力なく長剣を落とし、泥の中に両膝を突いた。
黄金の甲冑はその重みで彼を泥の底へと引きずり込もうとし、冷たい泥水が彼の肌から体温を容赦なく奪っていく。
二百年の歴史。正統なる血脈。覇侯という名の虚飾。
彼が身にまとっていたすべてのメッキが剥がれ落ち、そこにはただ、己の器の小ささに絶望する一人の哀れな若者の姿しかなかった。
ザクッ、ザクッ、ザクッ。
その時、泥を力強く踏みしめる、重く静かな足音が聞こえてきた。
トウガが虚ろな目を上げると、立ち込める硝煙と薄暗い雲の向こうから、一つの影がゆっくりと歩み寄ってくるのが見えた。
漆黒の外套を風になびかせ、手には泥にまみれた無骨な長剣。
その身から放たれるのは、飾り気のない、泥臭くも圧倒的なまでの「真の覇王」の気迫。
「……見事な逃げっぷりだったな、お坊ちゃん」
ジンであった。
彼は、完全に孤立したトウガから数歩離れた位置で立ち止まり、野犬の牙を剥き出しにして、冷酷に見下ろしていた。
「ジ……ジン……ッ!!」
トウガの虚ろだった目に、再び激しい憎悪と怨念の炎が灯る。
すべての元凶。父を間接的に死に追いやり、自分の国を奪い、自分のプライドを泥の中に踏みにじった、絶対に許すことのできない男が、今、己の目の前に立っている。
二人の周囲を囲むように、遠くで旭州の兵士たちが静かに包囲網を狭めていた。もはやトウガに逃げ場はどこにもない。
血と泥に塗れた大平原のど真ん中で、旧時代の幻影にしがみつく若虎と、新時代を切り拓く泥犬の、最後にして決定的な対峙の時が訪れようとしていた。




