第76話 正邪の蹂躙と、泥濘に沈む竜
ガシャン。ズシン。ガシャン。ズシン。
西国の平野を埋め尽くした泥と血の臭いの中で、一糸乱れぬ足並みで前進を続ける旭州の重装歩兵部隊。
冷酷なまでの正確さで突き出される無数の長槍は、逃げ場を失ったトウガ軍の最前線を容赦なく貫き、巨大な鉄の壁がゆっくりと敵軍をすり潰していく。
前衛に立たされていた数万のゴロツキたちは、もはや完全に戦意を喪失していた。彼らは略奪の甘い汁を吸うために集まっただけの烏合の衆であり、己の命を懸けて戦う理由など最初から持ち合わせていない。
「助けてくれェッ!」「押すな! 後ろに下がれェッ!」という悲痛な絶叫が平野に響き渡るが、後方にはトウガが率いる黎州の正規兵が密集しており、退路は完全に塞がっていた。
「ええい、何をしている! あの見掛け倒しの壁を崩せ!」
安全な後方から戦況を見ていたトウガは、馬上で采配を振り回し、顔を真っ赤にして怒号を飛ばしていた。
肉の盾として集めた暴徒たちが機能していないことに苛立ち、彼はついに自らの主力である正規兵たちに命令を下した。
「前線のゴミどもが邪魔で動けぬなら、奴らごと踏み越えて突撃しろ! 誇り高き黎州の正規兵の力を見せてやれ! 泥犬どもを蹴散らすのだ!」
主君の厳命を受け、黎州の正規兵たちが重い足取りで前へ出ようとする。
しかし、彼らの歩みは鈍かった。連日の強行軍と極度の飢餓によって体力の限界を迎えている上に、目の前でゴロツキたちが機械のように串刺しにされていく光景を見せつけられ、士気はすでに底を突いていたのだ。
その躊躇いの隙を、悪魔の軍師は見逃さなかった。
「……クックック。腹を空かせた獣の群れなど、少しばかりの毒を撒いてやれば、自ら牙を剥き合って自滅するものです」
戦場から少し離れた高台。車椅子に座るクロウが、冷たい風に紫色の髪を揺らしながら妖しく微笑んだ。
「今だ。撒き餌に火をつけろ」
クロウの指示を受けた旭州の伝令が、戦場の各所に潜伏させていた間諜たちに向けて合図の旗を振る。
次の瞬間、トウガ軍の正規兵の隊列のあちこちから、突如として絶望的な叫び声が沸き上がった。
「西の別動隊が全滅したぞォォォッ!!」
「東の部隊も旭州の奇襲でやられた! 若君の五頭龍の陣は完全に読まれていたんだ!」
「北国では民が大規模な反乱を起こした! シュウスイ将軍が旭州に降伏したそうだぞォッ!」
「我々は完全に孤立している! ここにいたら全員殺されるぞォォッ!」
その声は、一箇所からではなく、陣形の深部の複数箇所から、まるで伝染病のように次々と湧き上がってきた。
極限の疲労と飢餓、そして目の前の圧倒的な殺戮劇によって、精神の防壁がボロボロになっていた黎州の兵士たちにとって、その情報は致命的な猛毒であった。
「な、なんだと!? シュウスイ将軍が降伏した!?」
「やはりこの進軍は無謀だったのだ……! 若君は我々を騙していたんだ!」
情報操作と心理的誘導。
シュウスイが降伏したなどというのは、クロウが作り上げた完全な嘘(偽報)である。しかし、判断力を失った人間は、最も恐れている絶望的な情報ほど容易く信じ込んでしまう。
「違う! それはデタラメだ! 惑わされるな! 持ち場を離れる者は斬るぞ!」
トウガの側近である古参の将軍たちが声を張り上げて否定しようとするが、数万の兵士の間に広がった疑心暗鬼とパニックは、もはや上官の制止で収まる規模ではなかった。
「おのれ、何を怯えている! 両翼に展開しろ! 盾の壁を避けて、側面から旭州の陣を包囲するのだ!」
トウガは必死に軍を立て直そうと、左右の平野への展開を命じた。
パニックに陥りながらも、正規兵の一部が横へと広がり、ガクの防衛陣の側面を突こうと走り出す。
だが、それこそがジンの狙い通りであった。
「うわァァァッ!?」
「足が……地面が抜けたぞォッ!!」
陣形を離れて東西へ展開しようとした兵士たちが、次々と大地に飲み込まれていく。
一見するとただの泥濘に見えるその地面には、旭州軍が事前に掘り進めていた巨大な「隠し落とし穴」が無数に口を開けていたのだ。
かつて、天才軍師シオンが遺した西国の詳細な地形図と土壌データ。
そして、ジンが薬草売り時代に培った、どこに罠を仕掛ければ獲物が足を踏み入れるかという野生の嗅覚。
その二つが完全に融合して作られた大規模な死の罠は、薄い泥の膜で巧妙にカモフラージュされており、重装備の兵士が踏み込んだ瞬間に、深いすり鉢状の穴へと彼らを一気に引きずり込んだ。穴の底には泥にまみれた無数の竹槍が上を向いて並べられており、落下した兵士たちは次々と串刺しになっていく。
「西も東も罠だ! 前には盾の壁がある! どうすればいいんだ!」
「後ろだ! 後ろに下がるしかない!」
兵士たちは、唯一罠が仕掛けられていないであろう後方、すなわち自分たちが歩いてきた北への街道に向かって雪崩を打って退却しようとした。
だが、その背後の森にも、時代を狂わせる恐るべき兵器が待ち構えていた。
「……綺麗に一箇所にまとまったな。そら、リョウガのおっさん! 派手にぶちかましてやれ!」
戦場の側面、身を隠していた森の中から、ジンの獰猛な声が響いた。
同時に、旭州の水軍を束ねるリョウガが、ニヤリと笑って手に持った松明を振り下ろす。
「おうよ! 海狗衆特製、火吹き竜の産声を聞きなァッ!」
リョウガの部下たちが、森の陰に設置していた太い鉄の筒に火を放った。
それは、シオンが遺した設計図を元に、南の海から密輸した硝石を調合して作り上げた、黒色火薬を用いた初期の爆発兵器であった。
ドゴォォォォォォンッ!!!
天地を劈くような凄まじい爆発音が、西国の平野を激しく揺るがした。
鉄の筒から放たれた火薬の塊が、退却しようと密集していたトウガ軍の最後尾のど真ん中で炸裂する。
強烈な閃光と、鼓膜を破るような轟音。そして、周囲数十メートルを吹き飛ばす爆風と熱波。
「ぎゃあああああああッ!?」
「な、なんだ!? 天罰か!? 雷が落ちたぞォォォッ!!」
アナログな剣と槍の戦いしか知らない黎州の兵士たちにとって、それは文字通り未知の恐怖であった。人間も、馬も、完全に恐怖で発狂し、爆発の煙から逃れるために、味方同士で突き飛ばし合い、踏みつけ合いながら泥の中を這いずり回る。
さらに数発の火薬兵器が連続して撃ち込まれ、トウガ軍の後方は完全に混乱のるつぼと化し、退路は物理的にも心理的にも完全に切断された。
前方は、ガクが指揮する正道の鉄壁。
左右は、シオンとジンが仕掛けた泥の落とし穴。
後方は、未知の火薬兵器による爆音と閃光。
そして内部では、クロウの偽報による疑心暗鬼と同士討ち。
正道と邪道を極限まで融合させた旭州軍の戦術は、トウガという無能な指揮官を頂点に頂く脆い軍勢を、四方八方から完全に圧殺し、その士気を根底からへし折っていた。
「さあて、準備運動は終わりだ。ここからが本番だぜ、お前ら!」
もうもうと立ち込める黒煙の中から、漆黒の外套を羽織り、泥にまみれた長剣を引き抜いたジンが姿を現した。
彼の背後には、ゴウとレンが率いる旭州の精鋭、別動隊の面々が、獲物を前にした獣のように目をギラつかせて控えている。
「親父! 俺の鉄砕棒がうずいて仕方ねえぜ! どいつから頭をカチ割ってやろうか!」
ゴウが、自らの背丈ほどもある巨大なメイスを振り回し、風を切る音を響かせる。
「火薬でビビって腰を抜かしてる連中だ、狩りにはちょうどいい。……一匹残らず、泥の底に沈めてやろうぜ」
レンが真紅の甲冑を鳴らし、十文字槍の切っ先を下げて不敵に笑う。
「行くぞ! 旭州の恐ろしさ、お坊ちゃん軍隊の骨の髄まで叩き込んでやれェッ!!」
ジンの号令と共に、旭州の別動隊が黒煙を突き破り、パニック状態のトウガ軍の側面へと怒涛の如く突撃を開始した。
「ヒャハハハハッ! そらそらそらァッ!!」
ゴウの振るう鉄砕棒が、黎州の兵士を数人まとめて宙へと吹き飛ばす。甲冑ごと肋骨を粉砕された兵士たちが、ボロ布のように泥の上に転がる。
レンの十文字槍は、逃げ惑う指揮官クラスの将校だけを正確に見極め、まるで舞うような足取りで次々と喉笛を切り裂いていく。
そしてジンは、一切の無駄な動きを排した泥臭い剣術で、迫り来る敵の急所だけを的確に削いでいった。
泥を相手の目に投げつけ、体勢を崩した瞬間に膝の腱を斬り、倒れたところに刃を突き立てる。覇王となっても変わらない、最下層の生存本能から生み出された最も効率的で容赦のない殺戮。
「ひぃぃぃっ! 悪魔だ! こいつら人間じゃねえ!!」
「泥犬じゃない……本物の化け物だァッ!!」
正規の陣形を保ったガクの部隊とは対照的に、ジンたちの突撃は荒々しく、そして無法であった。
絶対の秩序(正道)で敵の動きを封じ込め、そこに予測不能な暴力(邪道)を叩き込む。それが、メイカクから学び、泥の底から這い上がってきたジンにしか創り出せない、天下無双の戦術であった。
「……嘘だ。こんなことが、あってたまるか」
戦場の中央。
トウガは、馬上で顔面を蒼白に引きつらせ、己の軍が完全に消滅していく光景をただ呆然と見つめていた。
五頭龍の陣。華麗なる進軍。圧倒的な兵力差。
彼が頭の中で描いていたすべての虚栄は、ジンの用意した現実の泥沼の前に、跡形もなく消え去っていた。
「私は……私は覇侯トウガだぞ……! 陣形を立て直せ! 私を守れェェェッ!!」
トウガの絶叫が戦場に響き渡る。
しかし、その声は爆音と悲鳴にかき消され、誰の耳にも届かない。
数万を誇った北国軍の陣形は完全に崩壊し、もはや軍隊の体をなしていなかった。彼らはただ、迫り来る旭州の猛獣たちから逃れようと右往左往するだけの、哀れな獲物の群れへと成り下がっていたのである。




