第75話 正道の鉄壁と、砕け散る虚栄
西国の広大な平野。春の雪解け水をたっぷり吸い込んだ黒い大地を踏み荒らし、数万の軍勢が南下してくる。
その軍勢の先頭には、色とりどりの下品な衣服を纏い、錆びた剣や野盗の斧を振り回すゴロツキたちの群れがいた。彼らは陣形など一切組まず、ただ略奪の獲物を求めるハイエナのように、奇声を発しながら無軌道に歩みを進めている。その後方には、極度の疲労と飢えによって生気を失い、ただ惰性で泥を引きずるように歩く黎州の正規兵たち。
そして、その最も安全な軍の中央には、泥に塗れた戦場には不釣り合いなほどに黄金の甲冑を煌めかせた若き猛将、トウガの姿があった。
「ハハハハッ! 見えたぞ! あの忌まわしき金牙城が!」
トウガは馬上から、はるか地平の先にそびえる黄金の天守閣を指差して、怨念と狂喜の入り交じった声を上げた。
「つい数週間前、私はあの城で、泥犬の安い詭弁と裏切り者たちの茶番によって煮え湯を飲まされた! だが、それも今日で終わりだ! 私の完璧な陣形と圧倒的な数の前に、あの成金趣味の悪趣味な城など、今日の夕日を見る前に瓦礫の山へと変わるであろう!」
トウガの目には、前線を埋め尽くす下劣な山賊や傭兵崩れの姿は「圧倒的な数の暴力」として頼もしく映っていた。彼らに背中を向けられる正規兵たちの絶望も、すでに飢えと疲労で軍が内側から崩壊しかけているという現実も、彼の肥大化した自尊心を曇らせることはなかった。
「聞け、前線の肉の盾どもよ! 一気に駆け抜けろ! あの城に一番乗りした者には、泥犬が蓄え込んだ金銀財宝、そして西国の女を好きなだけくれてやるぞ! 略奪の限りを尽くせ!!」
トウガの甘言に乗せられ、最前線のゴロツキたちが下劣な雄叫びを上げた。
「ヒャハハハッ! 聞いたかお前ら! 略奪し放題だぜェッ!」
「泥犬の兵隊なんか、俺たちの大軍で踏み潰してやらァッ!」
欲望に目を血走らせた数万の暴徒が、金牙城を目指して一斉に駆け出した。
地鳴りのような足音が平野を震わせる。トウガは自らの華麗なる大軍が進撃する様を見て、ついに父の仇を討ち、天下を統べる瞬間が来たのだと、勝利の美酒に酔いしれていた。
しかし、彼らが金牙城の手前の広大な平原に差し掛かった時。
狂喜乱舞する暴徒たちの足は、突如としてピタリと止まった。
「……な、なんだありゃ……?」
先頭を走っていた山賊の一人が、間抜けな声を漏らして足を止めた。
彼らの眼前に立ち塞がっていたのは、黒と銀で構成された、巨大で不気味な「壁」であった。
風に翻る無数の漆黒の旗印。
その下に整然と並ぶのは、旭州の重装歩兵たちである。
だが、その光景は、ゴロツキたちがこれまで経験してきたどの戦場の景色とも異なっていた。
数万の軍勢が対峙しているというのに、旭州の陣からは一切の「音」が聞こえてこないのだ。
怒号も、威嚇の雄叫びも、馬のいななきすらもない。
ただ、冷たい風が陣形を吹き抜ける音と、無数に突き出された長槍の穂先が、陽光を反射して不気味に輝く、音なき威圧感だけがそこにあった。
その沈黙の軍勢の最前列で、二人の将が静かに馬を進め出た。
一人は、真紅の裏地を持つ漆黒の陣羽織を纏い、無機質な瞳で十文字槍を構える若き猛将、ガク。
もう一人は、かつて黎州の軍規を司り、今は旭州の軍服に身を包んだ冷徹なる知将、ゲントであった。
ゲントは、はるか前方で奇声を発して立ち止まっているかつての味方、トウガの軍勢を冷ややかな目で見据えていた。
「……黎州の誇り高き正規兵を後方に隠し、下賤な暴徒を肉の盾として前線に立たせる。軍の統率も、兵法も、民への矜持も、すべてを投げ捨てた醜悪な暴走。……若君。あれが、貴方が血筋を誇ってまで創り上げたかった、軍隊の姿ですか」
ゲントの胸の奥で、かつて仕えた主君の血脈に対する最後の憐憫が、冷たく凍りついて完全に砕け散った。
「ゲント殿。敵の数は多いが、統率は皆無。ただの的です」
隣に並ぶガクが、一切の感情を交えずに事実だけを告げる。
「ええ、分かっています。ガク殿」
ゲントは自らの長剣をゆっくりと引き抜いた。
「この陣形は、かつて旧黎州の筆頭家老、メイカク殿が己の生涯を懸けて考案し、机上の空論として遺した『正道の絶対防衛陣』。……兵の完全なる規律と、それを維持するための完璧な兵站がなければ決して実現できない、幻の兵法でした」
ゲントは、自らの背後に控える旭州の兵士たちを振り返った。
誰もが腹を満たし、十分な休息を取り、そして何より、ガクの徹底した軍規の訓練によって、一つの巨大な機械のように統率されている。
ジンという泥臭い覇王の熱量と、クロウの知略、そしてガクの軍規が組み合わさったことで、メイカクの遺した理想の陣形は、ついにこの旭州の地で完全な現実として産声を上げたのだ。
「恩師の遺した完璧なる秩序、その真価。……無法の暴徒どもに、骨の髄まで教えてやりましょう」
ゲントが長剣を天高く掲げると、旭州の陣形が、まるで一つの生き物のように滑らかに動いた。
「第一列、大盾を構えよ!」
ゲントの号令と共に、最前列の重装歩兵たちが身の丈ほどもある巨大な鉄盾を一斉に地面に突き立てた。ガシャンッ! という重厚な金属音が平野に響き渡り、一瞬にして乗り越え不可能な鉄の城壁が出現する。
「第二列、長槍、構え!」
続いて、盾と盾の隙間から、通常の槍よりもはるかに長い、特注の長槍が無数に突き出された。それはまるで、巨大な黒い針鼠が全身の棘を逆立てたような、圧倒的な防御の威容であった。
その威圧感に、トウガ軍の最前線にいたゴロツキたちは思わず後ずさった。
「お、おい……なんだよあの陣形。隙間が一つもねえぞ……」
「馬鹿野郎! 相手はビビって亀になってるだけだ! 数の暴力で押し潰せばあんな盾なんか一発で崩れるわ!」
後方からトウガの苛立った怒声が響く。
「何をしている! 早く突撃しろ! 立ち止まる者は後ろから斬り捨てるぞ!」
後方からの圧力と、目の前にぶら下げられた欲望に抗えず、ゴロツキたちは再び奇声を上げて旭州の陣形へと殺到した。
「ヒャハハハッ! 死ねェェェッ!」
数万の暴徒が、泥を跳ね上げながら鉄の壁へと激突する。
しかし。
「突け」
ガクの氷のような一言が戦場に響いた瞬間。
ゴロツキたちの歓声は、おびただしい数の断末魔の絶叫へと変わった。
ズブッ! ズグチャッ!
鉄盾の隙間から突き出された長槍が、防具すらまともに着けていないゴロツキたちの体を、まるで豆腐のように容易く貫いたのだ。
最前列の数百人が一瞬にして串刺しにされ、血の雨が泥の大地を赤く染め上げる。
「ひっ……! 槍が長すぎる! 剣が届かねえッ!」
「退け! 一旦退けェッ!」
パニックに陥った暴徒たちが後退しようとするが、彼らの背後からは、略奪の欲望に駆られた後続の暴徒たちが次々と押し寄せてきていた。
前進しようとする力と、後退しようとする力が激突し、トウガ軍の前線は自らの重みで完全に身動きが取れなくなる。
そこへ、ゲントの無慈悲な号令が下された。
「長槍部隊、二列目へ後退。三列目、前へ。……突け!」
旭州の陣形は、まるで精密な時計の歯車のように正確に回転した。
血で汚れた槍を引いた兵士が素早く下がり、その隙間から、新たな無傷の兵士たちが鋭い槍を力強く突き出す。
休むことなく、永遠に繰り返される刺突の波。
ズバァァァンッ!!
さらに、後列に控えていた弓兵と弩の部隊が、寸分の狂いもない一斉射撃を放った。
空を覆い尽くす黒い矢の雨が、密集して身動きの取れないトウガ軍の頭上に降り注ぐ。鎧を持たない肉の盾たちは、次々と射抜かれ、泥の中に倒れ伏していった。
「な、なんだこれは……」
安全な後方からその光景を見ていたトウガは、馬上で顔面を蒼白に引きつらせていた。
彼の描いていた数の暴力による蹂躙など、どこにも存在しなかった。
彼が頼みとした数万の軍勢は、旭州の鉄壁の陣形の前では、ただ自ら槍の穂先に飛び込んで肉片と化していく、巨大な餌でしかなかったのだ。
旭州の兵士たちは、一歩たりとも陣形を崩さない。
一人一人の武勇や熱狂に頼るのではなく、軍全体が完璧な防衛機構として機能している。個人の感情や恐怖が入り込む隙間など一寸もなく、ただ淡々と、機械的に、目の前の敵をすり潰していく。
かつて、黎州の筆頭家老メイカクが、ソウガの狂気から兵士たちの命を守るために構想した「正道」の極致。
それが今、トウガという無能な指揮官によって集められた烏合の衆を、容赦なく断罪していた。
「逃げろ! こんなの戦じゃねえ! ただの処刑だァッ!!」
「助けてくれェッ!!」
ついに、恐怖が欲望を完全に上回った。
前線のゴロツキたちは武器を放り出し、我先にと背を向けて逃げ出した。彼らは、後方にいる黎州の正規兵たちを突き飛ばし、あるいは味方同士で斬り合いながら、ただこの地獄から離れようと狂乱状態に陥った。
「逃げるな! 逃げるなァァァッ!! 前に進め! 泥犬どもを蹴散らせと言っているのだ!!」
トウガが狂ったように采配を振り回すが、崩壊した暴徒の群れにその声が届くはずもない。
逃げ惑う暴徒の波が、疲労困憊の黎州正規兵の隊列に激突し、トウガの軍勢は完全に内側から崩壊を始めた。将の命令は行き届かず、味方同士が踏みつけ合い、自軍の混乱だけで無数の死傷者が泥の中に沈んでいく。
その凄惨な自壊の光景を前にしても、ガクとゲントの表情は一切崩れなかった。
「敵の指揮系統、完全に瓦解。前衛の肉盾は崩壊し、自軍の正規兵を巻き込んで自滅中」
ガクが状況を冷静に分析する。
「我々の想定通りです。……さあ、ガク殿。仕上げと参りましょう」
ゲントが長剣を前方に向けた。
「軍規第一項」
ガクが十文字槍を高く掲げ、旭州の全軍に向けて腹の底から響く声で号令を下した。
「我が陣形は鉄壁なり。一歩の乱れもなく、前進せよ」
ズシンッ。
数万の旭州の兵士たちが、巨大な鉄盾を構えたまま、一糸乱れぬ足並みで同時に一歩を踏み出した。
ズシンッ。ズシンッ。
それは、感情を持たない巨大な鉄の壁が、大地を削りながら迫ってくるような、絶対的な恐怖の行進であった。
「ひ、ひぃぃぃッ! 壁が……壁が動いてくるぞォォッ!」
「やめろ! 来るなァァッ!」
足に泥を取られ、逃げることも立ち上がることもできないトウガ軍の残党たちは、迫り来る無慈悲な盾と槍の壁に、次々とすり潰され、押し潰されていった。
派手な突撃と見栄えだけの陣形に頼った若き猛将の虚栄は、メイカクの遺志を継いだ完璧な正道の陣の前に、文字通り一寸の隙もなく、完全に砕け散ったのである。
大平原に響くのは、ただ旭州軍の正確な足音と、北国軍の断末魔の悲鳴だけであった。




