第74話 血塗られた北の鎮圧と、烏合の肉盾
鉛色の雲が重く垂れ込める、極寒の北国。
春の兆しはわずかに雪を溶かしているものの、大地を吹き抜ける風はいまだ刃のように冷たく、人々の体温を容赦なく奪い去っていく。
かつて、大将軍ハクヤが質実剛健な統治を敷いていたこの北の地は、今、血と絶望に染まりかけていた。
「……またか。今度は東の砦で一揆が起きたというのだな」
冷え切った覇宮の玉座の傍らで、留守居役を命じられた鬼神シュウスイは、報告に上がった兵士を見下ろしながら、重く苦しい溜息を吐いた。
「はっ! 旧ハクヤ軍の残党に加え、近隣の農民たちが武装して砦を占拠いたしました! 奴らは口々に『あのような野盗の頭を、我らの主と仰ぐことはできない』『黎州の軍など北国から出て行け』と叫んでおり、その数は数千に膨れ上がっております!」
シュウスイは、目を深く閉じ、拳を固く握りしめた。
反乱の原因は明らかであった。南下したトウガの軍勢が、兵站を無視した強行軍の果てに、西国各地で民の食糧を奪い、略奪と殺戮を繰り返しているという悪評。それが、商人の口や間諜の報告を通じて、瞬く間にこの北国にまで伝わってしまったのである。
かつてソウガが恐怖によってこの国を支配していた時でさえ、軍隊としての最低限の規律と秩序は保たれていた。しかし、今のトウガの軍勢は、ただ腹を空かせた野盗の群れに過ぎない。
そのような軍を率いる者を、誇り高き北国の民が覇侯と認めるはずがなかった。
「……シュウスイ様。いかがなさいますか。このままでは、北国全土が反乱の炎に包まれますぞ」
副将が焦燥の声を上げる。
シュウスイは目を開き、壁に立てかけてあった巨大な大槍を手に取った。
その重みは、彼が背負う「古い忠義」の重さそのものであった。
「……出陣する。反乱軍を一人残らず鎮圧し、砦を奪還せよ」
シュウスイの声は、地鳴りのように低く、一切の感情を排していた。
しかし、彼の心の中は、千の刃で切り裂かれるような悲痛な痛みに満ちていた。
やがて、北国の雪原を舞台に、シュウスイ率いる正規軍と、民衆・残党による反乱軍の激突が始まった。
戦力差と練度の違いは圧倒的であった。
シュウスイが大槍を一振りするたびに、粗末な農具や古びた剣を手にした農民たちが、血しぶきを上げて雪原に倒れ伏していく。
「おのれ、黎州の悪鬼め! 我らは断じて、略奪者の下になどつかんぞォッ!」
反乱軍の男が、血を吐きながらシュウスイに突撃してくる。
「……許せ」
シュウスイは小さく呟き、一切の躊躇いなく大槍で男の胸を貫いた。
相手は、かつて自分がジンと共に戦い、守り抜こうとした天下の民の一人である。彼らが怒るのも、刃を向けるのも、すべてが正論であった。トウガの行いが彼らを反乱へと駆り立てたのだ。
だが、シュウスイはトウガを見限ることはできない。二百年の歴史を持つソウガの血脈を守るという、呪いにも似た忠誠心が、彼をただの殺戮機械へと変えていた。
「ソウガ様。貴方様が遺した血脈は、ついに天下の民から完全に見放されました……」
降りしきる雪が、シュウスイの顔に付いた返り血を冷たく洗い流していく。
鬼神と恐れられた猛将は、誰もいない雪原の真ん中で、己の信念と現実の残酷なギャップに、ただ一人、血の涙を流し続けていた。
一方、その頃。
シュウスイの悲痛な苦悩など知る由もないトウガは、西国の泥濘の中で、さらなる泥沼へとその足を踏み入れていた。
「……なんだと? また逃亡兵が出たというのか!」
仮設の本陣天幕で、トウガは報告に上がった将校の顔面に酒杯を投げつけた。
「はっ……! 昨夜だけで五百名が陣から姿を消しました。西国の村長たちが結束して徹底的な焦土作戦を敷き、村の食糧を隠し、井戸に毒や汚物を投げ込んでいるため、我々は略奪すらままならぬ状況です。飢えに耐えかねた兵士たちは、次々と軍を脱走し、近隣の山賊に身を落とすか、旭州に投降している模様で……」
「ええい、下劣な臆病者どもめ! 正統なる黎州の軍に所属する名誉よりも、目先の飯を取るというのか!」
トウガは机を乱暴に蹴り倒した。
彼の「五頭龍の陣」は、完全に自壊の時を迎えていた。
兵站の崩壊、飢餓、略奪による民心の完全な離反。それらが連鎖反応を起こし、トウガの軍勢は戦う前からその数を半分以下にまで減らしていたのである。四つの別動隊に至っては、すでに軍としての統率を失い、霧散したも同然であった。
「若君、このままでは旭州の防衛線にたどり着く前に、我が軍は自然消滅いたします! どうか、今すぐ北国へ撤退の号令を!」
古参の将軍が土下座をして懇願する。
しかし、自尊心の肥大化した若き猛将に、「撤退」の二文字は存在しなかった。
一度でも背を向ければ、自分がジンに敗北したことを、己の無能を、完全に認めることになってしまうからだ。
「撤退などせん! 兵が足りぬというのなら、補充すればよいだけのことだ!」
トウガは血走った目で、天幕の外を指差した。
「これまで略奪してかき集めた金品や財宝があるだろう! あれを使って、西国の山賊、傭兵崩れ、野盗、ゴロツキの類をありったけ雇い入れよ! 金さえ積めば、あのハイエナどもは喜んで集まってくるはずだ!」
「なっ……! お待ちくだされ! そのような烏合の衆を陣に加えれば、ただでさえ乱れている軍紀が完全に崩壊いたします! 黎州の誇り高き正規軍が、ただの無法者の集団に……!」
「黙れ! 今必要なのは兵の『数』だ!」
トウガは古参将軍を冷酷に見下ろした。
「勘違いするな。あのような下賤なゴロツキどもを、私は正規の軍と認めるつもりは毛頭ない。奴らはただの『盾』だ。……旭州の泥犬どもが放つ弓矢や槍を防ぎ、我ら正統なる黎州軍が進むための道を作る、使い捨ての肉の盾に過ぎん!」
トウガの指示は、ただちに実行された。
略奪した金品を餌に、西国各地に潜んでいた悪党やならず者たちが、トウガの陣へと次々と集結してきた。彼らは軍の旗印などどうでもよく、ただ「金がもらえる」「堂々と略奪が許される」という理由だけで参加した、欲望剥き出しの獣の群れであった。
「ヒャハハッ! 金払いがいいってのは本当だったな! おい、一番乗りで敵陣に突っ込めば、もっと褒美を弾んでくれるんだろうな!」
「女や酒も略奪し放題って聞いたぜ! 俺たちに任せとけや!」
下品な笑い声と酒の臭いが、黎州の陣営を完全に覆い尽くした。
軍としての陣形や規律は一切なく、ただ金に群がる亡者たちが、本隊の周囲を埋め尽くしている。その光景は、もはや一つの国家の軍隊とは呼べない、身の毛もよだつような醜悪なものであった。
しかし、天幕の前に立ったトウガは、その膨れ上がった烏合の衆を見渡して、満足げに高笑いを上げた。
「ハハハハッ! 見よ、この圧倒的な数の暴力を! 逃亡兵の穴など、瞬く間に埋まったではないか!」
彼にとって重要なのは、軍の「質」でも「士気」でもなかった。
ただ、自らの視界を埋め尽くす「数」さえ揃っていれば、自分が強大な力を持っているという錯覚を維持することができたのだ。
最前線に配置したゴロツキたちを盾にし、その後方の安全な場所から指揮を執れば、自分はかすり傷一つ負わずに勝利を手にすることができる。トウガはそう本気で信じ込んでいた。
「皆の者! 聞け! 目指すは旭州の首魁、ジンの首ただ一つ! 肉の盾どもを前線に押し出し、一気に敵の陣地を蹂躙せよ! 私の華麗なる戦術の前に、泥犬どもは恐怖に震えてひれ伏すであろう!」
「おおおおおおっ!!」
金と欲望に目の眩んだゴロツキたちが、下劣な雄叫びを上げて南へ向かって歩き出す。
誇り高き北の地で、鬼神シュウスイが血の涙を流しながら守ろうとした黎州の威信。
それは今、若き猛将の愚かな見栄と慢心によって、西国の泥濘の中で完全に地に堕ちていた。
そして、その見掛け倒しの巨大な暴徒の群れが向かう先には。
正道と邪道を極め、天下の重みを背負った真なる覇王が、氷のように冷たく、完璧な陣形を敷いて待ち構えていたのである。
大軍という名の肥え太った豚が、自ら屠殺場へと歩みを進めていく。
西国の大平原にて、旭州と北国による、最も凄惨で、最も一方的な最終決戦の幕が、ついに切って落とされようとしていた。




