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草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


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第73話 飢餓の行軍と、地に堕ちた正統なる旗印

春の雪解けがもたらした冷たい泥濘の中を、黎州覇侯を名乗るトウガの軍勢は南下を続けていた。

ジンが意図的に仕掛けた「空の砦」を次々と陥落させたことで、トウガの自尊心は肥大化の極みに達していた。彼は自らが立案した多方面同時進軍という戦術が、旭州の防衛網を完全に崩壊させたと盲信し、勝利の甘き毒に酔いしれていたのである。

しかし、その虚飾に満ちた連勝のメッキが剥がれ落ちるのに、そう長い時間はかからなかった。

西国の国境を越えて五日目。

トウガが指揮する本隊、そして完全に孤立して進む四つの別動隊の頭上に、重く暗い絶望の影が落ち始めていた。

「……腹が、減った」

泥にまみれた兵士の一人が、足を引きずりながらうわ言のように呟いた。

その言葉は、数万の軍勢全体を覆う、重く淀んだ空気を代弁するものであった。

見栄えと速度だけを重視した強行軍により、兵糧を積んだ輜重隊ははるか後方の泥沼で完全に立ち往生していた。最前線の兵士たちが腰に提げていた数日分の干し肉や粟などの携帯食は、すでに三日目の夜には底をついていたのだ。

彼らが次々と「陥落」させてきた砦には、米の一粒、水の一滴すら残されていなかった。

兵士たちは極限の疲労と飢えに苛まれながら、泥水をすすり、道端に生える雑草を噛みちぎり、革の鎧の紐を煮込んで飢えを凌ぐという地獄のような行軍を強いられていた。

二百年の歴史を誇り、かつては天下最強と謳われた黎州の正規軍。

その威容はもはやどこにもない。頬はこけ、目は落ち窪み、重い甲冑はただの拷問器具と化している。彼らの心を支配しているのは、主君への忠誠でも、戦の誉れでもなく、ただ純粋で暴力的な「飢え」という獣の本能だけであった。

そして、限界を超えた兵士たちの理性が弾け飛ぶ瞬間は、唐突に訪れた。

西国の街道から少し外れた、山間の小さな農村。

旭州軍の撤退指示に遅れ、あるいは先祖代々の土地を離れることを拒んで村に残っていたわずかな民たちが、春の種まきの準備をしていた。

そこに、目を血走らせた数百の北国軍の部隊が雪崩れ込んできたのである。

「飯だ! 飯を出せェェェッ!!」

「隠している穀物をすべて出せ! 俺たちは正規軍だぞ! 貴様ら民を守るために戦っているのだ、兵糧を差し出す義務があるだろうが!」

狂乱した兵士たちは、村の粗末な家屋に次々と押し入り、土足で踏み荒らした。

床板を剥がし、天井裏を漁り、村人たちが冬を越すために必死に隠し持っていたわずかな雑穀や、春に撒くための大切な「種籾たねもみ」までもを見つけ出し、奪い取っていく。

「お、お待ちくだされ! お武家様! それは春の種籾でございます! それを奪われては、我ら村の者は秋に飢え死にしてしまいまする!」

村の長である老人が、泣き叫びながら兵士の足元にすがりついた。

「うるせえッ! こっちが今、飢え死にしそうなんだよ!!」

怒声と共に、兵士の蹴りが老人の顔面にめり込んだ。

老人が泥の中に吹き飛び、歯を折って血を吐き出す。

「お爺ちゃん!!」

悲鳴を上げて駆け寄ろうとした若い村の娘を、別の兵士が下卑た笑いを浮かべて羽交い締めにした。

「おい、この村には女もいるじゃねえか。飯の前に、まずはこっちで腹ごしらえさせてもらおうぜ」

「やめろ! 娘に触るなァッ!」

止めに入ろうとした村の若者たちが、クワやカマを手に飛び出してきた。

「反抗するか、下民どもが! 我ら黎州軍に刃を向けるとは、旭州の内通者に違いない! 全員斬り捨てろ!!」

兵士の指揮官が、狂気に満ちた目で抜刀を命じた。

飢餓によって理性を失った兵士たちにとって、もはや民を守るという軍隊の矜持など微塵も残っていなかった。目の前にあるのは、食糧という名の命を隠し持つ「敵」でしかなかったのだ。

無抵抗の農民たちに対して、訓練された兵士の刃が容赦なく振るわれる。

悲鳴、怒号、血飛沫、そして炎。

奪い取った穀物を生米のまま貪り食いながら、兵士たちは村に火を放ち、女をさらい、抵抗する者を次々と殺戮していった。

誇り高き黎州の旗印は、罪なき民の返り血でどす黒く染め上げられ、正統なる軍隊は、もはやただの「飢えた盗賊の群れ」へと成り下がっていたのである。

このような略奪と虐殺が、西国の各ルートを進む別動隊、そして本隊の周辺でも、日常的に引き起こされるようになっていった。

その凄惨な報告が、トウガの耳に入ったのは、さらに二日後のことであった。

「……なんだと? 我が軍の兵士たちが、西国の村々を襲い、民から食糧を略奪し、あまつさえ殺戮を繰り返しているだと!?」

本陣の天幕の中で、トウガは信じられないものを見るような目で、報告に上がった古参の将校を睨みつけた。

「はっ……! 兵士たちの飢餓はすでに限界を超えております。各部隊の指揮官たちも、もはや暴徒と化した兵を力で押さえつけることができず、略奪を黙認、あるいは自ら先頭に立って村を襲っている有様にございます!」

将校の悲痛な報告に、トウガの顔が怒りで真っ赤に染まった。

「おのれ……! 我が神聖なる黎州の軍勢を、盗賊の群れに貶めるとは! 面汚しめ! 民を味方につけ、旭州から救い出すことこそが、正統なる覇侯たる私の大義であるというのに! 直ちに略奪を中止させよ! 軍規を乱し、民に刃を向けた部隊長は、すべて捕らえて斬首に処せ!!」

トウガは机を叩き、唾を飛ばして厳命した。

しかし、報告に上がった将校は、絶望的な眼差しで首を横に振った。

「……無理でございます、トウガ様」

「なに? 私の命令が聞けぬというのか!」

「斬首など行えば、全軍が完全に反乱を起こします! 彼らは悪意があって略奪をしているのではありません。ただ、腹が減っているのです! トウガ様が兵站を無視して進軍を命じられた結果、兵士たちは生きるために民を殺すしか道がないのです! 飯を与えられぬ将の命令など、今の彼らには届きませぬ!!」

古参将校の血を吐くような叫びが、天幕の中に響き渡った。

「な……っ……」

トウガは、言葉を失い、玉座の椅子に力なく座り込んだ。

初めて直面する「現実の戦」の恐ろしさ。

彼は、机上の地図の上で美しい陣形を描き、華麗な突撃を命じることだけが将の仕事だと思い込んでいた。兵士が毎日飯を食い、排泄をし、寒さに震える生身の人間であるという、あまりにも当たり前の事実を、完全に無視していたのだ。

(私が……私が間違っていたというのか……? いや、違う! 私は完璧な陣形を敷いたのだ! すべては補給を怠った後方の輜重隊の責任だ! 私のせいではない!)

トウガは己の無能を認めることができず、ただ頭を抱えて震えることしかできなかった。

軍隊という巨大な暴力を束ねる「力」も「カリスマ」も、そして何より「兵を食わせるという責任」も、彼には欠落していたのである。

彼は、自らの軍が野盗に成り下がるのを、ただ指をくわえて見ていることしかできない、無力で空虚な神輿に過ぎなかった。

この日を境に、トウガの評判は天下において完全に地に堕ちた。

かつては「暴君ソウガの残党から民を救うかもしれない正統な若君」とわずかに期待していた西国の民たちも、次々と村を焼き払う北国軍の残虐な振る舞いを前に、彼らを「ソウガよりもタチの悪い、飢えた害獣の群れ」として心の底から憎悪するようになった。

その凄惨な略奪の報告は、当然ながら旭州の司令拠点にも克明に届けられていた。

「……愚かな。軍の体をなしていない」

金牙城のさらに南、防衛の要所である平野部に敷かれた旭州の本陣。

かつて黎州で軍規を司っていた千人将ゲントは、間諜から届けられた報告書を読み、氷のように冷たい瞳に、深い哀愁と怒りを滲ませていた。

「トウガ様は、自らの兵を飢えさせ、民を殺させ、軍の誇りを泥の中に捨て去った。……もはや、あそこに私が命を懸けて守ろうとした『黎州の秩序』は、欠片も残ってはいない」

ゲントは、かつての主君の完全な堕落を前に、自らがジンに降った判断が正しかったことを確信しつつも、かつての部下たちが野盗に成り下がったことに、武人として言い知れぬ痛みを覚えていた。

「クックック。美しい正統なる血脈とやらも、腹が減ればただの狂犬以下になり下がる。人間の本性など、実に脆く滑稽なものですな」

車椅子の上で、悪魔の軍師クロウが冷酷に嗤う。

「飢餓と略奪によって、敵軍の士気と軍規は完全に崩壊しました。さらに、民の食糧を奪ったことで、西国全土の民衆が完全に旭州(我々)の味方となり、トウガ軍への憎悪を募らせている。……ジン殿。我々が手を下すまでもなく、あの軍はすでに内側から腐りきっております」

玉座に座るジンは、笑わなかった。

彼は、報告書を強く握りしめ、かつて自分が過ごした最下層の泥の匂いを思い出していた。

「……腹が減るってのは、化け物を生み出すんだよ」

ジンの低く重い声が、本陣の天幕に響いた。

「俺が薬草売りだった頃、飢えで気が狂って親兄弟を殺してでも飯を奪い合う奴らを、腐るほど見てきた。……腹が減れば、誇りも大義も関係ねえ。ただ生きるための獣になるんだ。だから俺は、この国を創る時、絶対に民や兵士の胃袋だけは空にさせねえって誓ったんだ」

ジンは立ち上がり、腰の長剣を引き抜いた。

その切っ先を、北の空へと真っ直ぐに向ける。

「トウガ。お前は、兵士を食わせることもできねえくせに、天下の玉座に座ろうとした。その上、俺が守ると決めた西国の民から飯を奪い、命を奪った。……絶対に許さねえ」

ジンの瞳に宿る殺意は、かつてないほどに深く、そして静かであった。

それは、旧時代の誇りを懸けた戦いなどという生易しいものではない。天下万民の命と胃袋を背負う「真の覇王」として、害獣と化した無能な軍隊を完全に殲滅するという、冷酷な決意の表れであった。

「ガク! ゲント! 陣形の最終確認を急げ! 遊びは終わりだ!」

「はっ! 軍規第一項に従い、鉄壁の絶対防衛陣、すでに完成しております」

「我が冷徹なる指揮の下、一匹の野盗も生かしては通しませぬ」

ジンは、漆黒の外套を翻し、力強く言い放った。

「腹を空かせて暴れ回るだけの野良犬どもに、本物の軍隊の恐ろしさってやつを、骨の髄まで教えてやれ!!」

飢餓と略奪によって自壊していくトウガの軍勢。

そして、天下の怒りを代弁するように、絶対の陣形を敷いて待ち構えるジンの旭州軍。

互いの距離が急速に縮まる中、西国の大平野を舞台にした、血で血を洗う殲滅戦の火蓋が、ついに切られようとしていた。

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