第72話 空虚なる連勝と、破滅への甘き毒
春の雪解けがもたらした、底なしの泥濘。
足を一歩踏み出すごとに、重い甲冑を纏った兵士たちの体力は容赦なく削り取られていく。しかし、北国から西国へと雪崩れ込んだトウガの軍勢は、その悪条件をものともせず、常軌を逸した凄まじい速度で南下を続けていた。
「ハハハハッ! 見よ、また我らの勝利だ! あの無様に逃げ惑う泥犬どもの背中を!」
西国の辺境に位置する小さな砦。その物見櫓の上で、黎州覇侯を名乗るトウガは、黄金の装飾が施された見事な采配を振りかざし、狂喜の声を上げていた。
彼の眼下では、砦を守っていたはずの旭州の兵士たちが、まともな抵抗すら見せずに裏門から一目散に逃げ出していく光景が広がっていた。放たれた矢は数本のみで、しかもまったく見当外れの方向へ飛んでいくという有様である。城門はあっさりと破られ、黎州の旗印が次々と掲げられていく。
「若君の仰った通りにございます! 我らが五つのルートから同時に猛スピードで攻め込んだため、敵は完全に防衛の的を絞りきれず、大混乱に陥っております!」
「旭州の防衛網など、もはや紙切れ同然! 泥から湧いた野犬どもは、若君の威光に恐れをなして震え上がっておりますぞ!」
トウガの周囲を取り囲む実戦経験の乏しい若手武将たちが、主君の機嫌を取るように次々と称賛の言葉を並べ立てる。
彼らは皆、トウガの立案した「五頭龍の陣」と強行軍が完全に図に当たり、旭州の軍勢を圧倒していると盲信していた。昨日から数えて、彼らが落とした西国の砦はこれで四つ目。いずれの砦も、北国軍が接近しただけで刃を交えることなく陥落しているのだ。
「フン、当然のことだ。ゲントのような裏切り者や、シュウスイのような臆病風に吹かれた老兵がいなくとも、私の完璧な軍略があれば天下など容易く獲れる。二百年の歴史と正統なる血脈を持つ私に、まともに立ち向かえる者などこの世にいないのだ!」
トウガは、自らの天才的な戦術に完全に酔いしれていた。
金牙城の会談でジンに論破され、自尊心をズタズタに引き裂かれた屈辱。それが、この「連勝」という甘い毒によってみるみるうちに修復され、異常なまでに肥大化していくのを感じていた。
「皆の者、今宵はこの砦で戦勝の宴を開く! ジンが怯えて残していった城だ、せいぜい有効に活用してやろうではないか!」
トウガが声高らかに宣言し、若手武将たちが歓声を上げた、その時であった。
「……お待ちくだされ、トウガ様」
泥にまみれ、息を乱した古参の老将軍が、重い足取りで櫓を登ってきた。
彼の顔には、勝利の喜びなど微塵もない。あるのは、得体の知れない薄気味悪さと、限界に達しつつある疲労の色だけであった。
「なんだ、老いぼれ。まだ私の完璧な陣形に文句があるというのか? それとも、勝利の美酒を真っ先に飲ませろとでも言いに来たか?」
トウガが冷ややかな視線を向けると、老将軍は血の気のない唇を震わせながら報告した。
「美酒など……どこにもございませぬ。この砦は、完全に『空』でございます」
「空だと?」
「はい。武器や防具の予備はおろか、米の一粒、干し肉の一欠片すら残されておりません。そればかりか、砦の中にある井戸はすべて汚物や泥が投げ込まれて使用不能となっており、周辺の森の獣すら、一匹残らず狩り尽くされております」
老将軍は、絶望的な事実を口にした。
「トウガ様、これは恐れをなして逃げ出した軍隊の跡ではございませぬ。我々に何も与えまいとする、完璧に統率された『計画的撤退』の跡です! 彼らはわざと砦を明け渡し、我々をさらに奥へと誘い込んでいるのです!」
「馬鹿なことを言うな!」
トウガは激昂し、采配を老将軍の顔面に投げつけた。
「逃げる暇があったから、自分たちの食糧だけは抱えて逃げただけのことだろうが! 敵が私を恐れて逃げているという明白な事実から目を逸らし、わざと撤退しているなどと、泥犬どもを買い被るのも大概にしろ!」
「買い被りではございませぬ! どうか現実を見てくだされ!」
老将軍は額から血を流しながらも、必死に食い下がった。
「我々の強行軍により、兵糧を積んだ輜重隊は泥に足を取られ、はるか後方で完全に立ち往生しております! 砦を落としても食糧が手に入らぬとなれば、最前線の兵士たちは飢えに苦しむことになります。これ以上、補給線を伸ばして進軍を続けるのは危険すぎます!」
「黙れェェェッ!!」
トウガは剣を抜き放ち、老将軍の首筋に刃を突きつけた。
「士気を下げる妄言を吐く者は、たとえ古参であろうと容赦はせん! 私の戦術は完璧に機能し、敵は逃げ惑っているのだ! 兵糧が後から来るというのなら、それまで手持ちの携帯食で耐え忍べばよい! 私の覇道を邪魔する者は、誰であろうとこの剣の錆にしてくれるわ!!」
狂気に呑まれた若き猛将の目には、もはや論理も現実も映っていなかった。
彼にとって、この「連戦連勝」という実績は、絶対に手放してはならない己の存在意義そのものとなってしまっていたのだ。たとえそれが、敵によって精巧に作られた幻であったとしても。
「……若君、どうか目を覚まして……」
老将軍は、突きつけられた剣の刃を見つめながら、静かに絶望の涙を流した。
しかし、トウガはその夜、本隊から持ち込んでいた自分専用の極上の酒を開け、若手武将たちと共に盛大な戦勝の宴を開いた。
砦の外では、泥にまみれた兵士たちが冷たい風に震え、底をつきかけた粗末な干し肉をかじりながら飢えを凌いでいるというのに。
勝利の美酒に酔うトウガの耳には、兵士たちの静かな悲鳴は一切届いていなかった。
一方、その頃。
トウガの軍勢からさらに南へ数十里離れた西国の平野部。
その高台に位置する、旭州軍の前線司令拠点では。
「……クックック。若君は、四つ目の砦を『陥落』させたそうですぞ」
車椅子に深く腰掛けた悪魔の軍師クロウが、最新の報告書を読み上げながら、腹の底から湧き上がるような気味の悪い笑い声を漏らしていた。
「見事な逃げっぷりだったぜ、ゲント。あんたの部隊、誰一人怪我してねえんだろ?」
玉座の代わりに置かれた丸太の上に座り、ジンがニヤリと笑いながら問いかけた。
「はっ」
旭州の軍規を司る千人将ゲントが、無表情のまま一礼する。
「全軍、軍規第一〇八項『焦土撤退』の定めに従い、一糸乱れぬ後退を完了いたしました。砦内の物資は完全に回収し、水場には再利用不可能な細工を施しております。敵軍は現在、見事に空の箱だけを奪い続けている状態です」
「ハハハッ! 北のお坊ちゃん、空っぽの砦で万歳三唱してるとか、傑作すぎて腹が痛てえぜ!」
巨大な鉄砕棒を肩に担いだゴウが、大口を開けて爆笑する。
隣に立つレンも、呆れたように肩をすくめた。
「まったくだ。ただでさえ雪解けの泥道を進んでるってのに、補給線も確保せずに突っ走るなんて、戦の素人以下の自殺行為だぜ。あいつら、明日から泥水でもすすって生き延びるつもりか?」
トウガの強行軍など、旭州の首脳陣から見れば、滑稽なほどの愚策に過ぎなかった。
見栄えだけを重視した進軍は兵站を完全に置き去りにし、最前線の兵士たちはすでに限界を迎えつつある。
「ジン殿」
クロウが、手元にある地図を杖の先で指し示した。
「私の心理分析通り、若君の最も脆い部分は『肥大化した自尊心』でした。金牙城で完全に叩き潰されたその薄っぺらいプライドに、我々は『連勝』という甘い毒を飲ませることで、限界まで膨張させてやったのです」
クロウの紫色の瞳が、残酷な光を放つ。
「飢えた獣にただ罠を仕掛けても、警戒されるだけです。しかし、自らが圧倒的強者であるという『幻の優越感』を与えてやれば、獣は自ら警戒心を捨て、死の罠の奥深くまで喜んで首を突っ込んでくる。……トウガは今、自分が完璧な戦術で勝利を収め続けていると盲信し、後戻りするという選択肢を自らの手で完全に断ち切りました」
「ああ。シュウスイのオッサンが本陣にいれば、絶対にこんな馬鹿な真似はさせなかったはずだ。……だが、トウガのプライドは、忠言すらも敵と見なすほどに腐っちまっていたってわけだな」
ジンは立ち上がり、漆黒の外套をバサリと翻した。
その瞳には、天下を統べる覇王としての、冷酷で圧倒的な理性の光が宿っていた。
「ゲント。敵の進軍速度を計算して、あいつらの兵糧が完全に底をつくのはいつだ?」
「後方の輜重隊が完全に泥で機能不全に陥っていると仮定すれば……もってあと三日。三日後には、北国軍の最前線は深刻な飢餓状態に陥り、軍としての統率を維持できなくなります」
ゲントの冷徹な計算が弾き出される。
「上出来だ」
ジンは、北の空を見据え、野犬の牙を剥き出しにして嗤った。
「戦ってのはな、武器を交える前から始まってんだ。腹を空かせた軍隊がどれだけ惨めで、どれだけ脆いか……。お坊ちゃんには、泥の底の現実ってやつをたっぷりと味わってもらうぜ」
ジンは自ら仕掛けた空虚な撒き餌を、トウガが骨の髄までしゃぶり尽くすのを、ただ静かに、そして残酷に待ち構えていた。
勝利の美酒に酔いしれ、自らが死地のど真ん中へ向かっていることすら気づかずに高笑いをする若き猛将。
そして、その周囲を完全な包囲網で囲い込み、じわじわと獲物の体力を奪っていく旭州の猛獣たち。
雪解けの冷たい泥に覆われた西国への入り口で、北国軍の崩壊という名の惨劇の幕が、静かに切って落とされようとしていた。




