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草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


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第71話 虚飾の陣形と、雪解けの狂虎

第71話 虚飾の陣形と、雪解けの狂虎

北国の覇宮、その最上層に位置する軍議の間。

かつては大将軍ハクヤが質実剛健な軍略を練っていたその冷たい石室には、今、異様なほどの熱気と、それに相反するような凍てつく沈黙が同居していた。

部屋の中央に置かれた巨大な西国の地図。

その上に、自らを「黎州覇侯」と名乗った若き猛将トウガが、身を乗り出すようにして幾つもの赤い駒を乱暴に配置していた。

「見よ! これが我が軍の新たな進軍計画、『五頭龍の陣』である!」

トウガは、血走った目に狂気じみた光を宿しながら、地図上の赤い駒を誇らしげに指差した。

彼が配置した駒は、北国から西国の旭州へと向かう国境線を、五つのルートに均等に分割して進むように並べられていた。中央の街道を本隊が進み、左右に二つずつ、計四つの別動隊が完全に独立したルートで南下し、西国の国境に点在する旭州の砦を「同時」に強襲するという計画である。

「旭州の泥犬どもは、我々が本隊を一つにまとめて正面から来ると予想しているはずだ。そこを逆手に取る! 五つの軍勢が同時に別々の砦を襲撃すれば、敵の防衛線はパニックに陥り、必ず指揮系統が崩壊する! まさに、天の配剤たる正統な血脈を持つ私にしか思いつかぬ、華麗にして完璧なる必勝の陣形だ!」

トウガは両手を広げ、自らの天才的なひらめきに酔いしれるように高笑いをした。

しかし、その高笑いに同調する者は、血の気の多い一部の若手武将たちだけであった。

歴戦の古参武将たちは、地図の上に並べられたその「五頭龍の陣」を見て、一様に顔面を蒼白にさせ、絶望的な視線を交わし合っていた。

「……お待ちくだされ、若君。いえ、覇侯トウガ様」

たまらず進み出たのは、ソウガの代から黎州軍を支えてきた、顔に無数の刀傷を持つ白髪の老将軍であった。

「この陣形……地図の上ではいかにも見栄えが良く、敵を包囲するように見えますが、実戦においては兵法の基礎を完全に無視した、あまりにも危険な愚策にございます!」

「なんだと……?」

トウガの高笑いがピタリと止まり、その顔が怒りに歪んだ。

「言葉を慎め、老いぼれめ。私の完璧な陣形のどこが愚策だというのだ!」

老将軍は、トウガの怒気を浴びながらも、決死の覚悟で地図を指差した。

「第一に、兵力の分散です。我々の軍勢は、ゲントの離反と度重なる吹雪の停滞によって、すでに数が減っております。それをさらに五つに分割すれば、一部隊あたりの兵力は旭州の砦の守備兵と同等、あるいはそれ以下になってしまいます。戦の基本は『戦力の集中』。敵の防衛線の一部に全兵力をぶつけて突破口を開くのが定石です!」

老将軍はさらに、地図の地形をなぞった。

「第二に、連携の完全な欠如です! この五つのルートの間には、雪解けの泥濘と険しい山々が立ち塞がっております。一度軍を分割してしまえば、部隊間の連絡は完全に絶たれ、互いに援軍を出すことなど絶対に不可能です。もし一つの部隊がジンの伏兵に遭えば、孤立無援のまま各個撃破されてしまいます!」

そして、老将軍は最も致命的な欠陥を口にした。

「第三に……兵站です! 本隊でさえ食糧が心許ない今の状況で、五つの部隊それぞれに補給線を維持することなど不可能です! 補給の途絶えた軍は、戦う前に飢えと寒さで自滅いたします。……トウガ様! シュウスイ殿が申された通り、ここは逸る気持ちを抑え、一つのルートに戦力を集中させ、兵站を確保しながら確実な正攻法で進むべきです!」

それは、かつての知将ゲントや、武の頂点であるシュウスイが常に重んじてきた、戦場における「絶対の現実」であった。

いかに士気が高かろうと、いかに血筋が尊かろうと、飯を食い、互いに背中を守り合わなければ、軍隊という巨大な生き物は一歩も前に進めないのだ。

しかし、その論理的な忠言は、トウガの自尊心という薄氷を最も乱暴に踏み抜く行為であった。

「……黙れッ!!」

ダンッ!!

トウガは腰の剣を鞘のまま引き抜き、老将軍の目の前の机を激しく叩きつけた。

「臆病風に吹かれた老いぼれが! 貴様もシュウスイと同じか! あの鬼神と呼ばれた男も、ジンに怯えて城に引きこもることを進言しおった。だから私は、奴から兵を取り上げ、留守居役という屈辱を与えてやったのだ!」

トウガは、血走った目で古参武将たちを睨みつけた。

「忘れたのか! 私がこの北国へ初めて足を踏み入れた時のことを! ハクヤ残党の反乱軍を鎮圧したあの『初陣』を!」

トウガの脳裏には、彼にとっての唯一の成功体験である、北国平定戦の鮮やかな記憶がこびりついていた。

あの時も、彼は兵を三つに分け、雪原を多方面から同時に突撃させるという派手な作戦を用いた。結果として、統率の取れていなかった反乱軍は恐れをなして崩壊し、トウガは「天才的な若き猛将」として大いなる称賛を浴びたのだ。

「あの時も、貴様ら老害どもは『兵の分散は危険だ』と喚いていた! だが結果はどうだ! 私の華麗な同時攻撃の前に、敵は手も足も出ずにひれ伏したではないか! 私の戦術はすでに実戦で証明されているのだ!」

「あれは違います!!」

老将軍が血を吐くように叫んだ。

「あの時の敵は、寄せ集めの烏合の衆でした! だからこそ、派手な奇襲に驚いて自滅したのです! しかし、次に相手をするのは、ジンが鍛え上げ、ガクが軍規を敷いた旭州の正規軍ですぞ! あのような泥犬どもに、見栄えだけの奇襲など通用するはずがございませぬ!」

「黙れ黙れ黙れェェェッ!!」

トウガは完全に理性を失い、老将軍の胸ぐらを掴み上げた。

「私の作戦を否定する者は、すべてジンの内通者と見なす! 貴様はもうよい! 本隊の指揮は私が執り、四つの別動隊は、私に絶対の忠誠を誓う若き武将たちに任せる! 貴様ら口うるさい古参どもは、最後尾で輜重隊(荷物運び)でもやって、私の華麗なる勝利の背中を指をくわえて見ていろ!」

トウガは老将軍を床に突き飛ばし、大広間の扉に向かって足早に歩き出した。

「出陣だ! 明日の夜明けと共に、我が五頭龍の陣をもって、西国の泥犬どもを一網打尽にしてくれるわ!!」

狂気に支配された若虎の背中を見送りながら、床に倒れた老将軍は、絶望の涙を流して震えていた。

初陣の成功体験という猛毒。

それが、若き指揮官の目を完全に曇らせ、敵と己の戦力差を客観視する能力を完全に奪い去ってしまったのである。

そして翌朝。

北国の城門が大きく開かれ、黎州覇侯を名乗るトウガ率いる軍勢が、西国へ向けて進発した。

トウガの命により、軍勢は城を出た直後から五つの部隊に完全に分割された。

中央の街道を進むトウガの本隊は、黄金の装飾が施された見事な甲冑と、色鮮やかな黎州の旗印を無数に掲げ、まるで凱旋パレードのような派手な行軍を行っていた。

「見よ! この圧倒的な威容を! 泥から湧いた野犬どもが、この正統なる軍勢の輝きを前にすれば、震え上がって逃げ出すに決まっている!」

馬上で得意げに笑うトウガの周りには、実戦経験の乏しい若手武将たちが集まり、「まったくでございます!」「若君の天才的な采配の前に、ジンなど赤子同然!」と口々に媚びへつらっていた。

しかし、その華やかで虚飾に満ちた行軍の足元は、すでに致命的な破綻をきたしていた。

春の陽気で雪が溶け出し、北国の固い大地は底なしの泥濘へと姿を変えつつあったのだ。

見栄えを重視した重い甲冑と、無駄に飾られた馬具は、泥に足を取られて兵士たちの体力を容赦なく削り取っていく。

さらに、五つに部隊を分けたことで、最後尾を歩く輜重隊の荷車は護衛が手薄になり、泥に車輪を取られては次々と立ち往生を始めていた。前線と後方の距離は間延びし、もはや軍隊としての統一された動きは完全に失われている。

「……なんという無惨な行軍だ」

城の天守閣から、そのバラバラに散っていく軍勢を見下ろしていたのは、本陣から外され、留守居役を命じられた鬼神シュウスイであった。

彼の大槍は壁に立てかけられ、その武人としての魂は深い絶望の淵に沈んでいた。

軍法も、地形も、兵站も、すべてを無視したただの「派手な見栄っ張り」。

歴戦の武将であれば誰もが目を覆いたくなるようなその愚かな陣形が、二百年の歴史を誇る黎州の、最後の軍勢の姿なのである。

「……ソウガ様。貴方様が力と恐怖で創り上げた天下は、もはやここまでです」

シュウスイは、冷たい城壁に手をつき、目を閉じた。

「あのような間延びした陣形……ガクの鉄壁の陣にぶつかれば一瞬で砕け散り、ゲントの冷徹な指揮によって各個撃破される。そして、クロウの心理戦によって、若君の安い自尊心は根底から叩き折られることでしょう」

シュウスイの目には、これから起こるであろう一方的で凄惨な殺戮の光景が、手に取るように見えていた。

「ジン。……お前は、あれをどうやって食い殺すつもりだ」

シュウスイの呟きは、北の冷たい風に乗って虚空へと消えていった。

一方、その頃。

西国の中央、金牙城の軍議の間。

「……なんだ、このデタラメな陣形は」

旭州軍の要であるガクは、最前線の物見から届けられた北国軍の進軍ルートを記した地図を見て、珍しくその端正な顔に深い皺を刻み、困惑の声を漏らしていた。

「どうした、ガク。敵の動きが読めねえのか?」

玉座で干し肉をかじっていたジンが、身を乗り出して尋ねる。

「読めないのではなく……あまりにも理にかなっていないのです。敵は、戦力を五つに分散し、兵站を完全に無視した速度で、同時多発的に南下してきております。互いの連携は皆無。泥濘に足を取られ、すでに後方の部隊はちぎれかけている模様。……これでは、ただのまとです。軍の指揮として、正気を疑います」

ガクは、理解不能といった様子で首を振った。

「クックック。なるほど、若君の浅はかな自尊心が、ついに臨界点を突破したようですな」

車椅子の上で、クロウが肩を揺らして気味の悪い笑い声を上げた。

「初陣でのマグレ勝ちを自分の実力だと勘違いし、古参の忠言を鬱陶しがって遠ざけた。見栄えの良い『自分だけの天才的な作戦』に酔いしれているのでしょう。……ゲント殿やシュウスイ殿がいかに優秀であろうと、主君がこれほど愚かであれば、どうにもなりませんな」

「なるほどな。親父の七光りで目が眩んで、自分の足元が泥沼になってることに気づいてねえってわけか」

ジンは、手に持っていた干し肉の最後の一欠片を口に放り込み、ニヤリと野犬の牙を剥き出しにした。

「親父! つまりどういうことだ! どこを殴りに行けばいいんだ!」

ゴウが巨大な鉄砕棒を振り回しながら吠える。

「簡単だ、ゴウ。連中は自分から五つに分かれて、一番弱い腹を俺たちに向けて見せびらかしながら歩いてきてるんだ」

ジンは玉座から立ち上がり、漆黒の外套をバサリと翻した。

「東国のタヌキ狩りで準備運動は済んでるな? ……行くぞ、お前ら。俺たちの新しい国に、時代遅れのお坊ちゃんの居場所なんか一寸たりともねえってことを、その身に刻み込んでやれ」

「おおおおおおっ!!」

旭州の猛将たちの雄叫びが、金牙城を震わせた。

虚飾に塗れた陣形を自慢げにひけらかしながら、死地へと行軍を続ける北国の狂虎。

それを待ち受けるのは、泥臭い現実と完璧な理性を兼ね備えた、天下の覇王による冷酷無比な処刑場であった。

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