第70話 潰えた挟撃と、雪原の狂虎
北国の空を覆う分厚い鉛色の雲は、いつまでも晴れる気配を見せなかった。
春の訪れを告げる雪解けの季節を迎えたとはいえ、この最果ての地には依然として冷たい風が吹き荒れ、人々の体温と希望を容赦なく奪い去っていく。
かつて北国大将軍ハクヤが統治していた堅牢な城郭は、今や「黎州覇侯トウガ」を自称する若き猛将の狂気によって、重苦しい閉塞感に支配された牢獄と化していた。
その大広間に、絶望的な知らせが響き渡ったのは、東国へ挟撃の使者を放ってからわずか数週間後のことであった。
「……申し上げます! ひ、東国への使者として向かった部隊が……国境付近で、旭州の警備隊によって全滅させられました……ッ!」
大広間の冷たい石床に平伏しているのは、命からがら逃げ帰ってきた血まみれの伝令兵であった。彼の顔は凍傷と恐怖で青白く引きつり、ガタガタと激しく震えている。
「全滅だと!? 馬鹿な、旭州の主力は北へ向かっているはずだろうが! なぜ東との国境に警備隊がいるのだ!」
玉座から身を乗り出し、トウガが血走った目で怒鳴りつけた。
「そ、それが……! 旭州の兵士たちが掲げていたのは、漆黒の旗だけではございませんでした。彼らの陣立ての中には、間違いなく……東国の紋章を掲げた部隊が混ざっていたのです……ッ!」
「なに……?」
トウガの顔から、スッと血の気が引いた。
伝令兵は、震える声を振り絞って決定的な絶望を口にした。
「すでに、東国は旭州の軍門に下っておりました……! 東国の覇侯トクナガは、釜田峡谷にてジン様の……いえ、あの泥犬の罠に落ち、八万の大軍を完全にすり潰されたとのこと! トクナガは己の命と引き換えに、東国の全領土と残存兵力を旭州に差し出し、絶対の臣従を誓ったと……! 西国、南国のみならず、東国までもが、完全に旭州の領土として呑み込まれております!!」
静寂。
大広間に集まっていた北国軍の武将たちは、あまりの衝撃に息をするのも忘れ、ただ呆然と立ち尽くした。
東国と挟撃し、旭州を確実に仕留める。
それが、トウガが描いていた「覇侯としての最初の完璧な戦略」であったはずだった。しかし、自分がその空想の盤面を動かそうとした時には、すでに相手は盤面そのものを破壊し、すべての駒を自らの手中に収めていたのである。
「……あ、ああ……」
トウガの口から、空気が漏れるような乾いた音がこぼれた。
「嘘だ……。嘘だ嘘だ嘘だァァァッ!!」
トウガは発狂したように叫び、腰の長剣を引き抜くと、玉座の脇にあった見事な彫刻の施された柱を乱暴に叩き斬った。
「あの老獪な狸親父が、戦いもせずに泥犬に尻尾を振っただと!? あり得ん! 東国には八万の大軍がいたのだぞ! それが、たった数日で壊滅するなど、どのような兵法を用いれば可能なのだ! これは旭州の流した偽情報だ! 私を恐れた泥犬が、卑劣な嘘で私を惑わそうとしているに決まっている!!」
トウガは剣を振り回し、大広間の中で暴れ狂った。
父の仇を討つという大義。正統な血筋である自分こそが天下を統べるという自尊心。それらが、ジンという圧倒的な現実の前に、次々と粉々に叩き割られていく。
「おのれジン……! 私の面子を、私の誇りを、どこまで踏みにじれば気が済むのだ! 許さん! 絶対に許さんぞォォォッ!!」
トウガは血走った目を武将たちに向け、剣を北の空へと突き上げた。
「皆の者、直ちに出陣の支度をせよ! 東国がどうなろうと知ったことか! 私は正統なる黎州の覇侯だ! 今すぐ全軍をもって南下し、あの薄汚い金牙城を力ずくで瓦礫の山に変えてやる! 今すぐだ! 今すぐ進軍の貝を鳴らせェェェッ!!」
狂乱する主君の命令に、武将たちは動けなかった。
春になったとはいえ、北国の雪解け道は泥濘化し、行軍は困難を極める。おまけに兵糧はすでに底をつきかけており、兵士たちの疲労は限界に達しているのだ。この状態で南下するなど、自殺行為以外の何物でもない。
「……若君。どうか、剣をお収めくだされ」
重苦しい空気の中、静かに進み出たのは、鬼神シュウスイであった。
彼の顔には、かつての猛将としての覇気よりも、主君の暴走を止められぬ己の不甲斐なさへの深い苦悩が刻まれていた。
「シュウスイ! 貴様、私の出陣命令に逆らうというのか! この屈辱を受けて、なお雪の中で震えていろと言うのか!」
「屈辱で戦に勝てるのであれば、誰も兵法など学びはしませぬ」
シュウスイは、地を這うような低い声で、しかし断固とした響きをもって主君を諫めた。
「伝令の報告は事実でしょう。東国八万が瞬時に壊滅したというのなら、それはジンが完璧な罠を張り巡らせていた証拠。あの男の軍略の恐ろしさは、私が田楽狭間の戦いで誰よりも肌で感じております。奴は、地形を知り尽くし、敵の心理を読み切り、そして一切の情を挟まずに確実な殺戮を行う化け物です」
シュウスイの脳裏に、泥水をすすりながら生き残るためだけに最も効率的な殺し合いをしていた、かつてのジンの姿が蘇る。
「今、怒りに任せて全軍を南下させれば、トクナガと同じように、ジンが用意した死の猟場へと自ら飛び込むことになります。……若君。戦というものは、血筋や誇りだけで勝てるほど甘いものではございません。兵を動かすために絶対に必要なもの、それは『兵站』です」
シュウスイは、大槍の石突きを床に強く叩きつけた。
「兵站を無視した進軍は、ただの暴徒の行進に過ぎん。今は東国の敗北を冷静に受け止め、北国の拠点を一つ一つ確実に固めるべきです。兵を休ませ、食糧を蓄え、雪解けの泥が完全に乾くのを待つ。そして、西国との国境にある小さな砦を一つずつ確実に落としていく『正攻法』でジンの喉元に迫るのです。……それ以外に、あの泥犬の狡猾な牙を躱す術はございません!」
それは、数多の死線をくぐり抜けてきた歴戦の武将としての、血の滲むような忠言であった。
ゲントという理性の頭脳を失った今、軍の崩壊を食い止めることができるのは、軍の要であるシュウスイの実戦経験と冷静な判断力しかない。
しかし、トウガの耳には、その忠言すらも「臆病者の言い訳」にしか聞こえなかった。
「……臆したか、シュウスイ」
トウガは、冷え切った目でシュウスイを睨み下ろした。
「兵站だと? 正攻法だと? ……笑わせるな。貴様は、あの泥犬の小賢しい罠に完全に怯えきっているだけではないか。二百年の歴史を持つ黎州の武人が、泥から湧いた野犬一匹を相手に、砦に引きこもって飯を食って待てと言うのか!」
「若君! そうではありませぬ! ジンはもはやただの野犬ではない。天下の四分の三を呑み込んだ、巨大な怪物なのだという現実を直視してくだされ!」
「黙れェェェッ!!」
トウガの怒号が、シュウスイの悲痛な声を完全に掻き消した。
「怪物がなんだ! 罠がなんだ! 我らには、天に選ばれた正統なる血脈がある! 兵糧が足りぬなら、南下しながら西国の村々から奪えばよい! 罠があるというなら、罠ごと全軍で踏み潰せばよいのだ! 父上はそうやって天下を切り拓いてきたはずだ!」
トウガは、ソウガの「恐怖と暴力による支配」の表面的な部分だけを模倣し、その裏にあった緻密な計算や軍略を完全に無視していた。
「シュウスイ。貴様がどうしても私のやり方に不服だというのなら、もうよい。貴様は戦場に出るな」
「……なっ!?」
シュウスイは驚愕に目を見開いた。
「貴様はすっかり腑抜けになってしまったようだ。そのような臆病風に吹かれた老兵に、我が神聖なる軍の先陣は任せられん。……貴様は、この北国の城に残り、留守居役でも務めているが良い!」
「お待ちくだされ、若君! 私を本陣から外すなど、軍の指揮系統が完全に崩壊いたしますぞ! 若き武将たちだけでは、ジンの軍略に対抗することなど絶対に不可能です!」
シュウスイは必死に食い下がったが、トウガは冷酷に背を向けた。
「決定だ。これは黎州覇侯たる私の絶対の命令である。これ以上逆らうというのなら、ゲントと同じ裏切り者として、今ここで貴様を斬る」
その言葉には、もはや一片の理の欠片もなかった。
孤立無援の絶望と、己の無力さを直視できない弱さが、若き猛将の精神を完全に崩壊させてしまったのである。
「……っ……」
シュウスイは、きつく唇を噛み締め、両手で大槍の柄をギリギリと握りしめた。
主君を力ずくで気絶させてでも止めるべきか。
それとも、このまま破滅の行軍を見送るべきか。
鬼神と恐れられた猛将の胸の中で、古い時代の「忠義」という呪いが、彼の行動を重く縛り付けていた。
ソウガへの絶対の忠誠を誓った自分には、その血脈であるトウガを傷つけることなど絶対にできない。たとえその命令が軍を地獄へ導くものであろうとも、主君の決定に逆らうことは、武士としての己の全存在を否定することになってしまうのだ。
「……承知、いたしました」
シュウスイは、血の涙を流すような思いで、深く、深く頭を垂れた。
「おお、分かればよいのだ、シュウスイ。案ずるな。私が必ず、父上の無念を晴らし、ジンの首をこの城へ持ち帰ってやろう」
トウガは狂気を含んだ笑みを浮かべ、マントを翻して大広間から歩き出した。
「出陣だ! 血気盛んな若武者たちよ、私に続け! あの薄汚い泥犬どもに、正統なる黎州の真の恐怖というものを教えてやるのだ!!」
トウガの扇動に乗せられ、血の気の多い若手武将たちが歓声を上げて主君の後に続く。
大広間に残されたのは、絶望的な未来を正確に予測しながらも、それを止めることができなかった老将たちと、深くうなだれるシュウスイだけであった。
「……ソウガ様」
誰もいなくなった冷たい大理石の床で、シュウスイはポツリと、かつての魔王の名を呟いた。
「私は……間違っているのでしょうか。これが、貴方様が遺した血脈の最後だというのなら。……この乱世は、あまりにも残酷で、空しすぎる」
兵站の確保も、確実な陣形も、地形の把握も、すべてを無視した怒りだけの暴走。
トウガ率いる北国軍の南下は、もはや「進軍」という名の、壮大な自殺行為に他ならなかった。
そして、その狂気の行軍を、西国の金牙城で待ち受けるのは、悪魔の頭脳を持つ謀略家と、泥の底から這い上がった真の覇王である。
天下を二分する戦いは、最も凄惨で、最も一方的な殺戮の幕開けへと、転がり落ちていくのであった。




