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草売りから始まる覇道戦記  作者: 八咫 日本


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第69話 東の併呑と、北の空虚なる玉座

東国八万の大軍を泥濘に沈めた「釜田峡谷の戦い」から数日後。

西国の中心、威容を誇る金牙城の大広間にて、天下の勢力図を完全に塗り替える歴史的な儀式が執り行われていた。

大広間の両脇には、旭州の猛将たちがずらりと並んでいる。

巨大な鉄砕棒を傍らに置き、威圧的な笑みを浮かべるゴウ。

十文字槍を手に、彫像のように微動だにしないガク。

真紅の甲冑を纏い、不敵に肩をすくめるレン。

そして、水軍の頭領リョウガと、北の猛将ハクヤ。

さらには、元北国討伐軍の知将であり、今や旭州の軍規を司る千人将となったゲントの姿もあった。

その中央、広大な大理石の床に敷かれた質素な筵の上に、一人の男が深く平伏していた。

かつて「東国の狸」と恐れられ、大国を統べていた覇侯トクナガである。

彼の背後には、東国から持ち込まれた莫大な貢物の目録、領地と戸籍を記した膨大な木簡、そして東国の主要な城の鍵が、山のように積み上げられている。

「……これより、東国全土およびその属領、ならびに残存する兵力五万、すべての財と民を、旭州覇王ジン様に捧げまする。私、トクナガは覇侯の座を退き、以後、ジン様の忠実なる手足として、この命が尽きるまで御恩に報いる所存にございます」

トクナガの額は、冷たい床に完全に押し付けられていた。

かつての温厚な笑みも、老獪な狸としての余裕も、今や見る影もない。釜田峡谷での凄惨な敗北と、旭州の圧倒的な武力と知略を骨の髄まで思い知らされた彼は、もはや一切の野心を捨て去り、ただ生き延びるためだけの完全なる臣従を選んだのである。

玉座に座るジンは、片膝を立てたまま、退屈そうにその様子を見下ろしていた。

「顔を上げな、トクナガ」

ジンの低く通る声に、トクナガはビクッと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げた。

「東国の全領土と兵力、確かに受け取った。お前が素直に城を明け渡してくれたおかげで、無駄な血を流さずに済んだのは評価してやるよ」

ジンは玉座から立ち上がり、階段をゆっくりと下りてトクナガの前に立った。

「だがな、俺はお前を完全に信用したわけじゃねえ。東国の兵士たちは、今日から完全に旭州の軍規の下に再編される。お前は東国の内政と税の徴収を担当するただの官僚として働くことになるが、お前の首の後ろには、常にガクの部下の槍先が突きつけられていると思え。一寸でも裏切る素振りを見せれば、お前のその狸の頭は、一瞬で串刺しだ」

「は、ははァッ……! 肝に銘じまするッ! このトクナガ、もはや二心など微塵もございませぬ!」

トクナガは再び床に額をこすりつけ、必死に忠誠を誓った。

「クックック。賢明ですな、トクナガ殿」

広間の奥から、車椅子に乗ったクロウが滑るように進み出てきた。

その手には、東国の内政状況が記された木簡の束が握られている。

「貴方の残した内政の帳簿、実に見事なものでした。特に、街道の整備と商業の流通網の構築に関しては、旭州にも大いに取り入れるべき点がある。……貴方には、その才覚を存分に振るっていただきますよ。ただし、私が定めた旭州の法の下で、ですがね。もし帳簿に一厘の誤魔化しでもあれば、その時は釜田峡谷の泥の味を、もう一度思い出していただくことになります」

悪魔の軍師の冷酷な言葉に、トクナガは冷や汗を流しながら何度も頷いた。

こうして、東国の覇侯トクナガによる完全降伏の儀式は終了した。

それは単に一つの国が滅びたというだけではない。ジンが東国を吸収したことで、旭州は旧黎州の西国、南国、そして東国という、天下の四分の三を支配する超巨大国家へと変貌を遂げたのである。

「親父、これで背中の心配は完全に無くなったな」

ゴウが鉄砕棒を肩に担ぎながら、獰猛な笑みを浮かべた。

「ああ。東国の兵と物資が手に入ったことで、軍の兵站もこれ以上ないってくらいに潤沢になった。……これでようやく、北のオッサンたちに全力を向けることができる」

ジンは、広間の巨大な窓から北の空を見上げた。

彼の目には、野犬としての生き汚さと、天下を背負う覇王としての責任感が同居した、強烈な光が宿っていた。

「ガク。全軍の再編と北への進軍準備、どれくらいで終わる?」

「東国兵の組み込みと、兵糧の輸送計画を含め、十日。十日後には、旭州の全軍が北国へ向けて進発可能な状態となります」

ガクは即座に、正確な数字を弾き出して答えた。

「上出来だ。……トウガ、そしてシュウスイ。お前らがすがる古い幻を、俺が全部叩き壊してやる」

ジンは、北国との決着に向けて、盤石の態勢を整え、静かに闘志を燃やしていた。

一方、その頃。

旭州から遠く離れた、氷雪の地・北国。

かつてハクヤが統治していた北国大将軍の居城は、今や北国討伐軍の残党に乗っ取られ、新たな「覇宮」として機能していた。

大広間の冷たい石造りの玉座に座っているのは、若き猛将トウガである。

彼は、金牙城での会談でジンに論破され、最も信頼していたゲントに裏切られた屈辱と怒りを、未だに消化しきれずにいた。目の下には濃い隈が浮かび、その表情はかつての覇気のある若虎のそれではなく、被害妄想と復讐心に取り憑かれた狂人のように歪んでいた。

「皆の者、よく聞け!」

トウガは、広間に集められた北国の武将たちを見下ろし、甲高い声で叫んだ。

「あの泥犬ジンが乗っ取った旭州などというふざけた国号は、天の理に反する偽りのものだ! 私こそが、覇侯ソウガの正統なる血脈を継ぐ者! 本日この時をもって、私はこの北国の地にて、再び黎州の旗を掲げ、覇侯トウガとして天下に名乗りを上げる!」

トウガの突然の宣言に、北国の武将たちは困惑の表情を浮かべた。

国力が疲弊し、兵糧も底をつきかけているこの極寒の地で、天下の覇侯を名乗るなど、あまりにも現実が見えていない空虚な宣言であったからだ。

しかし、トウガの狂気に怯える彼らは、誰も正面から反対することはできなかった。

「おお……覇侯トウガ様、万歳……」

パラパラと、力のない歓声が広間に響く。

その様子を、大広間の隅で壁に寄りかかりながら見つめていたのは、鬼神シュウスイであった。

彼は腕組みをしたまま、目を伏せ、深く重い溜息を吐いた。

(……若君。名乗りを上げるだけで天下が取れるのなら、誰も苦労はせんのだ。ソウガ様は、自らの剣で血の海を渡り、恐怖で天下をねじ伏せたからこそ覇侯と呼ばれた。今の若君の姿は、ただ玉座という名の虚像にしがみつく、哀れな子供に過ぎん)

シュウスイの心の中には、主君の暴走に対する絶望と、己の無力さへの苛立ちが渦巻いていた。

ゲントが離反し、軍規を維持する頭脳を失った北国軍は、もはやまともな軍隊としての体をなしていない。トウガの感情的な命令によって兵士たちは疲弊し、士気は地に堕ちている。

この状態で旭州の強大な軍勢と正面からぶつかれば、一瞬で塵芥のように吹き飛ばされるのは、歴戦の武将であるシュウスイの目には明らかであった。

「シュウスイ! そこにいるか!」

玉座のトウガが、興奮した様子で声をかけてきた。

「はっ。ここにおります」

シュウスイは静かに進み出た。

「ふふふ、見ろ。ついに私が覇侯となったのだ。これで、あの泥犬との身分の差は明確になった。民は必ず、正統なる血筋を持つ私の元へ集うはずだ!」

トウガは、自らの妄想に酔いしれながら、狂ったように笑った。

「だが、ジンを討つには、我々の軍だけでは少々時間がかかる。そこでだ、シュウスイ。私は素晴らしい作戦を思いついたぞ」

「……作戦、でございますか」

「そうだ! 東国の覇侯、トクナガだ! あの狸親父は、常に天下の動きを虎視眈々と狙っている。我々が北から旭州に攻め込めば、奴は必ずその隙を突き、東からジンの背後を襲うはずだ!」

トウガは立ち上がり、得意げに拳を振り上げた。

「直ちに、東国へ使者を送れ! 私が黎州の覇侯となったことを知らせ、共にあの泥犬を挟み撃ちにしようと持ちかけるのだ! あの狸親父は狡猾だが、利があると見れば必ず食いつく! 北と東の挟撃の前に、旭州など瞬く間に崩壊するわ!」

シュウスイは、その言葉を聞いて背筋が凍るような感覚を覚えた。

(……愚かな。トクナガがそのような甘い誘いに乗るはずがない。あの狸は、勝つ戦にしか手を出さない男だ。今の我々のように、内情が崩壊している軍と組むことなど絶対にあり得ない。……それに、ジンやあの悪魔の軍師クロウが、東国の動きを警戒していないはずがないのだ)

シュウスイは、東国への使者派遣が完全に無意味であり、むしろ東国に自軍の弱さを暴露するだけの愚策であることを理解していた。

しかし、今のトウガに論理的な諫言など通じるはずがない。ゲントのように完璧な理屈で説き伏せようとすれば、トウガは再び狂乱し、軍の崩壊はさらに早まるだろう。

「……若君。お言葉を返すようですが、東国のトクナガは信用ならぬ男。容易に背中を預けるのは危険かと」

シュウスイは、最大限の言葉を選んで遠回しに反対した。

「ええい、黙れ! 貴様は私の作戦に口出しをするのか! ゲントのように、貴様も私を裏切るつもりか!?」

トウガは顔を真っ赤にして激昂し、腰の剣に手をかけた。

「……滅相もございません。私の命は、常に若君と共にあります」

シュウスイは深く首を垂れ、それ以上の言葉を飲み込んだ。

もはや、何を言っても無駄であった。主君が破滅の道を全速力で駆け抜けようとしている時、古い時代の忠義に縛られた武人である彼にできるのは、ただその横で黙って槍を振るうことだけなのだから。

「ならば、すぐに出立の準備をさせよ! 使者には最も足の速い馬を与え、東国へ向かわせるのだ! ハハハッ! 待っていろよ、ジン! 貴様のその薄汚い首、私が必ずこの手で刎ねてやる!!」

トウガの狂気じみた笑い声が、冷たい北国の覇宮に虚しく響き渡る。

彼らはまだ知らない。

自分たちが頼りにしようとしている東国の覇侯トクナガが、すでに旭州の泥の底で完全に敗北し、ジンの軍門に下っているという決定的な事実を。

旭州による完全な天下統一が目前に迫る中。

孤立無援となった北国の空虚な玉座で、若き猛将は破滅への使者を放った。

天下を完全に二分する最終決戦の足音は、雪解けの泥濘を越えて、確実に、そして容赦なく近づいていた。

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