幕間:金牙城、戦慄の戦術大浴場
西国の中心にそびえ立つ黄金の要塞、金牙城。
東国の覇侯トクナガの八万の大軍を泥の底に沈め、東国を事実上吸収した旭州には、北国との最終決戦を前にした、ほんのわずかな平穏が訪れていた。
その日の夜。
ジンは、連日の軍議と果てしない書類仕事の疲れを癒やすため、城内に新設された「大浴場」へと足を運んでいた。
「あー、くそっ。トクナガの野郎、降伏したはいいが東国の帳簿がデタラメすぎんだよ。目がチカチカするぜ……」
首の後ろを揉みながら、ジンは暖簾をくぐり、湯気が立ち込める広大な浴場へと足を踏み入れた。
しかし、その瞬間に彼を待ち受けていたのは、癒やしとは程遠い、異様な光景であった。
「親父! 遅えぜ! 早く入ってこいやァ!」
巨大な湯船の中央で、全裸のゴウがバシャバシャと大波を立てながら叫んでいる。その横では、リョウガが手ぬぐいを頭に乗せ、「おうおう、海狗衆の海に比べりゃあ、ずいぶんと狭い水溜りだぜ」と豪快に笑っていた。
ここまではいい。血気盛んな将たちならば、風呂場でも騒がしいのは想定内だ。
問題は、浴場の入り口付近で、一糸まとわぬ姿でありながら、直立不動の姿勢で「木簡」を読み上げている男がいたことである。
「軍規第十四項・大浴場の利用に関する特例。湯船に浸かる前には、必ず掛け湯を十杯以上行い、身体の汚れを完全に落とすこと。これを怠る者は、旭州の衛生と秩序を乱す反逆者と見なす」
先日、旭州に寝返ったばかりの元・黎州千人将、ゲントであった。
彼は一切の感情を排した能面のような顔で、次々と入ってくる兵士たちに掛け湯を強要している。
「……おい、ゲント。お前、風呂場にまで軍規を持ち込んでんのか?」
ジンが呆れ顔で突っ込むと、ゲントはピシッと姿勢を正して一礼した。
「ジン様。秩序は戦場のみならず、日常の隅々にこそ宿るものです。水質の悪化は兵士の感染症を引き起こし、ひいては軍の崩壊を招きます。……さあ、ジン様も早く掛け湯を十杯。私が数えますゆえ」
「……俺が王様なんだけどな」
ジンは渋々掛け湯を済ませ、湯船へと足を踏み入れた。
だが、湯船の底に足をついた瞬間、ジンは違和感に気づいた。
「おい……なんだこの湯船。妙に深えし、底がすり鉢状になってねえか? おまけに、湯気で前が全然見えねえ」
「お気づきになられましたか、若」
湯気の向こうから、手ぬぐいで口元を覆ったガクが、音もなくスッと姿を現した。
「この大浴場は、私が自ら設計いたしました。万が一、入浴中に敵の暗殺部隊が侵入したことを想定し、湯船は一度足を踏み外せば這い上がれないすり鉢状の蟻地獄構造。湯気は特殊な薬草を混ぜた簡易的な煙幕として機能します。さらに……」
ガクは、壁に備え付けられた木製の桶を指差した。
「あの桶は、底に鉛を仕込んでおります。いざという時は、強力な打撃兵器として暗殺者の頭蓋を粉砕することが可能です。完璧な防衛施設、名付けて『戦術大浴場』であります」
「風呂くらいゆっくり入らせろォォォッ!!」
ジンは思わず絶叫した。
「なんで裸の時にまで暗殺者の心配しなきゃならねえんだよ! リラックスできねえだろうが! だから底が深すぎてゴウが溺れかけてんだろうが!」
見れば、すり鉢状の底にはまったゴウが、「足がつかねえ! 親父、助けろ!」と鉄砕棒の代わりに桶を振り回してバシャバシャともがいていた。
「ハハハッ! 相変わらずおもしれえ国だな、ここは!」
湯船の縁に腰掛け、真紅の髪をかき上げながら笑っていたのはレンだ。
「俺の地元の釜田峡谷の泥沼よりは、こっちのすり鉢風呂の方がよっぽどマシだぜ。ほらゴウ、桶につかまれよ」
レンが鉛入りの重い桶を投げると、ゴウの顔面にクリーンヒットし、彼は「ぶべッ」と短い悲鳴を上げて見事に湯船の底へと沈んでいった。
「おのれレン殿! 味方同士の闘争は軍規第三項違反である! ただちに湯船から上がり、反省の正座を要求する!」
ゲントが湯船の外から声を張り上げる。
「まあまあ、ゲントのお堅い旦那。風呂の中くらい無礼講でいこうぜ。……それより、あっちの旦那は大丈夫なのか?」
レンが指差した先。
湯船の最も端のぬるいお湯の領域で、巨大な白狼の毛皮を……風呂場だというのに頭に被ったまま、ぐったりと力尽きている男がいた。
北国の大将軍、ハクヤである。
「むうぅ……あ、暑い……。北国の氷雪に生きる我にとって……ここは、煮えたぎる地獄の釜か……」
ハクヤは白目を剥き、口から魂のようなものを吐き出しながら完全にのぼせ上がっていた。
「おい! 誰か北のオッサンを水風呂に叩き込んでやれ! 死んじまうぞ!」
ジンが慌てて指示を出すと、リョウガが「おう、任せな!」とハクヤの巨体を軽々と担ぎ上げ、勢いよく隣の冷水風呂へと放り投げた。
「ザバァァァン!」という大きな水柱が上がり、ハクヤは「ひんッ!?」と奇妙な悲鳴を上げて息を吹き返した。
「……クックック。実に賑やかで、素晴らしい光景ですな」
騒ぎを他所に、不気味な笑い声が響いた。
ジンが振り返ると、湯船の一部に作られたスロープから、木製の特別な車椅子に乗ったまま半身浴をしているクロウの姿があった。
彼の手には、お湯に浮かべた盆に乗った冷たい徳利と猪口が握られている。
「クロウ、お前いつの間に……。つーか、なんで車椅子ごと風呂に入ってんだよ」
「ガク殿に特別に作らせた、防水仕様の車椅子です。いやはや、東国の狸親父から巻き上げた極上の酒を、こうして風呂で呑む。……勝者の特権というやつは、何度味わっても甘露ですな」
クロウは実に美味そうに酒をすすり、妖しい紫色の瞳を細めた。
「ジン殿。裸になれば、身分も血筋も関係ない。ただの泥から這い上がった男たちが、こうして天下の城で同じ湯に浸かっている。……これこそが、貴方が創り上げた新しい『秩序』の姿ですよ」
「……お前が言うと、何か裏の陰謀があるようにしか聞こえねえんだよ」
ジンはため息をつきながらも、湯船の縁に頭を預け、天井を見上げた。
相変わらず、どいつもこいつも一癖も二癖もある連中ばかりだ。
真面目すぎるガクとゲント、馬鹿すぎるゴウ、マイペースなレンとリョウガ、熱に弱い北の猛将、そして腹黒い悪魔の軍師。
(……でもまあ、悪くねえな)
かつて、西国の路地裏で泥にまみれ、その日を生きるためだけに薬草を売っていた頃。
一人ぼっちだった野犬は、いつの間にかこんなにも騒がしく、そして頼もしい「家族」に囲まれていた。
「おい、親父! 俺の背中流せよ!」
泥水から復活したゴウが、悪びれもなくジンに背中を向ける。
「阿呆! 王であるジン様に背中を流させるなど、言語道断! 私が貴様の背中の皮を十文字槍で削ぎ落としてやる!」
ガクが鉛入りの桶を構えてゴウに飛びかかる。
「軍規違反だ! 浴室内での戦闘行為は固く禁ずる!」
ゲントが叫び、レンが腹を抱えて大笑いし、ハクヤが水風呂でブルブルと震えている。
「あー、もう! お前ら少しは静かにしろ! 俺が全員まとめて沈めてやる!」
ジンは苦笑しながら、その騒ぎの中心へと自ら飛び込んでいった。
金牙城の夜は更けていく。
やがて訪れる北の鬼神シュウスイとの血で血を洗う最終決戦。その重く冷たい現実を前にして、この戦術大浴場での馬鹿騒ぎは、彼らにとって何よりも得難い、温かな時間であった。




